第八話


 「―ええ⁈」


 私がトイレから戻ると、〝開発第二〟と書かれたドアから響く声があった。そして、やれやれと首を横に振りながら、ジェレーナ・レドムの名前と所属が刻印されたカードをドアにかざした。


 「あ、ウッドさん!本当ですか、その二人のポステさんが似ていたって?」


 ガスタン氏の額の生え際には、とっくに汗が滲んでいるのが分かった。


 「ええ、だけど、顔がはっきり見えたのも、ほんの十秒くらいなもんですから、ちょっと自信がないですけど…」


 そうやってグレーに回答したのだけど、彼の頭の中では、もう止められない好奇心がほとばしっているとでもいうように、頻りに落ち着きなく手足を揺り動かしているのだった。


 私がジェレーナの方を見ると、彼女もこちらに気が付いて、少し申し訳なさそうに眉を寄せた。


 「こうなったら、直接聞いてみたらどうです?」


 しばらく一人でぶつぶつ何かをつぶやいていたと思ったら、また出し抜けにガスタン氏が声を響かせた。


 「え?どうするんです?」


 ジェレーナ・レドムもまんざらではない様子で彼に聞き返した。


 「だって、うちの担当はサイトーなんだから、カフェテリアにでも連れ出してさ、ちょっと話を聞いてみたらいいんじゃない?」


 〈あんた、どうせ相手と話し合うのはこっちなんだから、何でもかんでもそう簡単に言ってくれると本当に困るんだよね…〉


 そういうわけで、私の方は二人ほど気乗りしなかったのだけど、実際に起きている失踪事件に関わる可能性があるのだから、そうは言いながら僅かな義務感に背中を押されている感覚を無視することも、またないのかもしれないと思った。


 「じゃあ、いい?聞くだけでも聞いてみても」


 彼はもう早速に端末を取り出していて、後は、私が頷くか、はいだの、うんだのと簡単にでも、これを了承したことを確認出来さえすれば、すぐさまサイトー氏を使ってポステ氏を罠に引きずり込む用意が整っているという風だった。


 彼がサイトー氏に電話をかけている間、キルマに警察から電話があったことをメッセージで伝えると、折り返すように返信が帰って来た。


 〝課長の持ち物がローデック駅で見つかったみたいだけど、スケジュールではそっちへ行く予定はなかったみたい〟と最初にキルマ節のテキストが流れてくると、すぐにその後を追って付け足すように〝課長はまだ〟という一言が放り込まれたのだった。


 ローデック駅と言えば、今ここに来ているポステ氏の勤めるザルファーも首都ローデックにあるのだ。何やら警察の調べが進むにつれて、このロベルトン界隈は古き良き思い出の中でするのとはまた違った意味での、香ばしさを漂わせ始めているようであった。

 

 「さあ、いいですか?」


 ガスタン氏がまたそんな風に言うものだから、変に意識してしまって、余計に変な脇汗をかいてしまった。この作戦の発案者だった彼自身もいよいよ緊張感を帯びてきたのか、その後ろを行く私の顔に、湿ったような生暖かい風が当たるのだった。


 カフェテリアはガスタン氏の作戦通り、人気がない時間帯を、毎日の決まったルーティーンを繰り返すように催しているところだった。


 奥の壁に掛かった時計によると、時刻は午後二時を過ぎたところだった。その下の大きめのテーブルにサイトー氏と、それから、まんまと罠に掛かったザルファーのポステ氏が向かい合わせに座っていた。


 とりあえず全員が、もう何でも良いと言わんばかりに、揃って同じコーヒーを頼んで、満を持してそのテーブルへと向かった。その列は、見ようによっては、最後のボスに立ち向かう勇者一行とでもいった風に、整然とした等間隔で続いていた。


 「どうも、開発のガスタンです。こっちが同じく開発のレドム、そして…」


 そんな風にその後を言ってくれそうになかったので、「あ、ザルファー計測のウッドです」と自ら名乗った。


 こんな感じで、ガスタン氏はある程度、我々を接近させた後は、もう作戦もネタ切れだったのだろう、こちらをコーヒーカップの向こう側から何とかやってくれという様な顔で窺うだけなのだった。


 それにしても、近くでよく見てみると、やっぱりオメガ産業のあの人物と全く関係がないとはどうしても思えなくなってきた。こちらのポステ氏は服装から髪型まで、それから、テーブルに隠れて見えないが、恐らく足元だってぴしっと決まって、昨日の干からびたような男とは印象がまるで対極的であったのだけれど、雰囲気や思い込みを取り払って考えてみようとすると、微かに、骨格や、顔のバランスなどが、酷似しているように思われるのだ。


 「あなたもザルファーグループの方だったのですね?私はザルファー購買部のポステと申します。サイトーさんから聞きましたが、あなたも昨日オメガ産業さんへ行かれたそうですね」


 聞き覚えのあるような声でそう言うので、どうしてもまた足がむずむずと騒ぎ出してきた。


 「そうなんです。上司からバッテリーのようなモノを届けるように頼まれて…。それで、その担当者もポステさんという方だったんで、その、ポステさんもあそこであちらのポステさんにお会いになりましたか?」


 そうやって、何回も続けざまにポステポステと口にしたので、自分でもどれが何だか分からなくなってきていたのだけれど、テーブルの向かいのポステ氏はというと特に混乱する様子もなくて、私がやっとのことでそこまで説明するまでの間、決して一度もこちらから目を離すことはなかった。


 「ポステがポステさんに…ははは、いいえ、私は別の担当者の方でしたよ。お名前は、ええと、リドーさんとおっしゃいましたか…。確かに私もその時バッテリーを持っていましたが、今私共の新製品に搭載するバッテリーの選定中でして、昨日もちょうどそのサンプルを持って歩いていた訳なのです」


 テーブルについた、作戦実行部隊の誰もが、これにどう反応するのが模範的回答なのだろうと考えていたに違いない。何しろそこには、空調の音を容易く意識出来てしまうほどの空白が、ほんの少しの間とはいえ、広がっていたのだから。


 「あ、ええと、そうすると、オメガ産業さんは、うちみたいな、バッテリーやその周辺機器をつくっている企業ですか?ほら、ウッドさんも、調べても情報が出ないとか、言っていましたよね?」


 真っ先に空白を破ったのは我らがジェレーナ・レドムだった。そして、これは良い問いかけだったと一同は密かに感心した。


 「たしかに、ネット上には何も情報を出されていないようですね。しかし、うちも創業始点から考えると歴史が長いですが、オメガ産業さんも実はそれに匹敵するものがあるそうなんですよ…。つまり、ある程度の利益を確保しながら、事業規模を維持しつつ回しているみたいですから、何も今更、特別宣伝する必要もないというわけです」


 以外にも、そこにガスタン氏が食い下がった。


 「でもそれだけ長い歴史があったら、宣伝しなくたって有名になりそうですがね。人伝いとかでも、最近は何でもすぐに広まりますよ。うちの社内でも、秘密にしていたことがすぐにばれたりして…。例えば誰かが離婚しただとか…」


 「!それはガスタンさんでしょ」とサイトー氏がツッコんで、はははと、テーブルが何かに救われたように沸いた。


 「はは、まあ、確かにガスタンさんのおっしゃるように、これからは次第に知られてゆくかもしれません。少なくとも今はまだのようですが」


 再び挿入された僅かばかりの空白に幕を下ろすように「さて」と言ったのはポステ氏だった。


 「サイトーさん、この後は別件がありますから、私はもう今日はこのへんで…」彼はそう言いながら、壁の時計を見上げた。そうして、皆に失礼しますと言うと、彼はサイトー氏を引き連れてホールを横切って行った。


 私は彼の右手に下がっていた鞄を注視していた。それは、さっき門のところから、建屋へと消えていく時にも同じくそうしていたからで、角を曲がっていく時に、彼がこれを持ち替えるのだけど、それがどこか大袈裟とでも言おうか、普通、鞄を持ち替える場合は一つの単純動作で足りるところが、その時は、わざわざ持ち手を握っていた手の位置を気にしてずらしてみたり、とにかく妙に慎重に取り扱っていたような印象に見えたからだった。


 ガスタン氏とジェレーナは、ポステ氏への猜疑心を晴らしてしまったようで、今はもうガスタン氏の離婚の話で盛り上がっている。


 私はガラス張りの向こう、門を出て行こうとするポステ氏を見つけた。その時、彼は鞄を左手に握っていたのだ。


 「あ!」という私の声に気が付いて、二人がさっきの談笑を続けながら、こちらにやって来た。


 「どうかしましたか?」


 笑いをひと段落させたジェレーナ・レドムが私に尋ねた。


 「いや、やっぱり、あの人…、ポステさんは今日も何か重たい物をあの鞄に入れているんじゃないですかね」


 「どうしてです?」


 今度はガスタン氏が聞いた。


 「今ここで、右手に持っていた鞄を、たったそこに現れるまでの間に左手に持ち替えているんです。昼に門のところで見た時も、持ち替え方が、何というか、…不自然でしたね。いや、私も昨日は一日中あんな感じだったもんで、よく分かるんですよね気持ちが」


 「おお」


 二人はまだ談笑の余韻が残っていたのか、私のちょっとした推理に軽やかな感心を寄こした。


 「たまたまではないですか?だって他のもので鞄が重たいのかもしれないし…」


 ガスタン氏は疑うことを急に思い出したようにそう言った。


 「まあ…、そうなんですけど」


 反論する言葉が見当たらなかった私は、ここであっけなく白旗を揚げた。しかし、まだ、記憶に残されたポステ氏の風貌が、ある可能性を私に説き続けているような気も、またしていたわけだった。

 

 結局、今日はまた一日イグナイトで過ごすことになりそうだった。まあ、結果も数字という形できちんと付いてきて、営業成績にも拍が付くわけだし、ただ遊んでいるという訳でもなかったので、それはそれで良かったのだけれども…。


 来期の予定をジェレーナと相談していた時だった。私は胸の端末が震えていることに気が付いたのだ。それは警察からだった。


 「―はい、ああ、まだですか…。ええ私はイグナイトさんにいます。たぶんそうですね、しばらくは…。え?ああ、そうですか…。はい。それじゃ」そう言って端末をポケットへ放り込んだ。


 「何かわかりましたか?」


 彼女は書類に何やら書き込みをしていた手を止めて、こちらに振り返った。


 「うーん、課長は相変わらず見つからないし、オメガ産業へもロベルトン署の警察が行っているみたいですが、まだ何とも言えないみたいですね。私と直接話したいようで、ここを出る時に連絡をくれと言われました」


 私達二人はしばらくの間、互いにどうにも煮え切らないような顔をしていたが、いつからか、ジェレーナが製品に関する質問を投げかけ始めて、私がそれをその都度回答する、ということを繰り返していくうちに、淀んだような空気も、何だか今ではすっきりと澄んで、ここがどこか、もう随分と慣れ親しんだ場所のような気すらし始めていたのだった。

 

 突然、彼女は思い出したように左の袖を捲った。


 「もうそろそろ定時ですから、そうですね…。もしよければ、私が送っていきましょう。駅もオメガ産業の辺りもちょうど帰り道ですから。それに警察署も駅前ですからね…。かまいませんか?」


 この時、彼女は私の目を少し窺うように、そして、少しばかり打ち寄せてくる照れからか、頻りにその両目をこちらの胸元に移していた。

 

 当然、私はその申し出を受け入れることにした。私の胸はその時ついつい浮かれて踊り出したのだけど、その高鳴りもあって、胸元で振動する端末に気づくのが遅れてしまった。


 「はい、ウッドですが…。ああ、もうそろそろ出るところです。はい。そうしましたら、そちらの方に伺います。こちらの担当者の方と一緒に…。はい。あ、それから、ザルファーのポステさんという方が来られていませんか?ああ、そうですか…。いえ、それについては後でお話します。それでは」


 端末をポケットに戻すと、ジェレーナはちょうど自分の持ち物をまとめ終わったところだった。


 「それで、どちらへ?」


 「オメガ産業です。担当の刑事がそこで待っているそうなんです。レドムさんはもうすぐに出られるんですか?」


 「ええ、荷物もこの通りこれだけですから。…それじゃあ行きましょうか」


 そう言って我々はこの部屋を後にした。私の方は一度セキュリティに寄って、ビジターパスを返却しなければならなかったので、ちょうど棟を出たすぐの所で一旦彼女と別れた。こんな風に不意に一人になると、無意識の緊張から解かれた気がするのは、やっぱり無理をして理想の自分を取り繕っているからなのだろうか。


 

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