第七話


 コーヒーがすっかり口の中から消えてしまってから、どれくらい経ったのだろうか。私達はまた、一階の〝開発第二〟と書かれたドアの奥で、ザルファー計測の製品パンフレットを捲っていた。


 「―これなら、このセンサーの予備としても使えますし、そちらの新しい計測範囲にも対応できます」と言って、私は画像の一つを指さした。


 「ああ、価格の方もそんなに変わりませんよね?」


 「ええ…。こちらのタイプの方がちょっとだけ高くなるかもしれませんが、ほんの少しですね」などと簡単に取り繕うだけで追加注文を貰ってしまった。


 「ところで、やっぱりまだ課長さんは見つからないのですね?」とパンフレットのいくつかのページに丸を付けている彼女がこう始めた。


 「まだのようですね―」ちょうどそう言いかけたところで、端末が震えだした。


 「…はい、ウッドです。はい、間違いありません。」


 それは警察からだった。私は昨日最後に課長と話したこと、それから昨夜オメガ産業を訪問したこと、その他の訪問者がいるらしいことなど、とにかく思いつく限りの全てをここで告白した。


 「―今はロベルトンの客先にいます。昨日と同じ場所です。はい。オメガ産業はここから車で二十分ほどのところにあります。…いいえ、今日はその予定はありません。この後はそのまま帰社する予定です。恐らく夕方ごろになると思いますが、まだはっきりとは言えませんね」大体そんなことを喋って電話を切った。


 「…何か進展ありましたか?」


 私が電話を切ったことを確かめると、ジェレーナはそう言った。


 「いいえ、ただ、お聞きの通り、私が知っていることの全てを話しましたから、警察もオメガ産業を調べてくれるはずです。そうなれば、…もしも事実だとしたらですけど、オメガ産業がこの失踪に関与していたとする何かしらの根拠も見つかると思いますし、そうなると解決はもう時間の問題と言えるでしょう…」


 彼女は私がほとんど見逃しそうになるくらい小さなため息をついて、こくんと頷いてくれた。そして、左手の袖を捲って小さな腕時計を見ると、「少し早いですけど食事にしませんか?昼時はあそこはすごく混むんです」と私に聞いた。


 そういえば、朝はチョコバーを齧っただけだったから、実は今相当に腹が減って、不意にそれを思い出したりすると、少々気持ちが悪くなるほどだった。それに、昼一番には待望のポステ氏がやってくるというのだから、まずは腹ごしらえをして、万全に備えておく方が賢明な判断だろうと思われた。


 

 そうして、またしても我々はカフェテリアにやってきた。調理場の奥からは慌ただしく食器が鳴って、打って変わって客席の方は、この一時間あまりの間で潮が引いた浜辺のようにがらりとその様相を変えていた。ジェレーナは先ほどの、二人席を見つけると、ととっと、持っていた筆記用具をそのテーブルに置いて、すぐに戻って来た。


 「今は人がいませんけど、ほんとあっという間ですから」


 もう一度彼女は、私に念を押すようにこう言うのだった。


 彼女はまた私の分まで支払おうとするので、私はこれを制止してから、ジェレーナと同じものを注文して、自分の懐から支払った。チキンソテーとサラダに、マッシュポテトにスムージーが付いた、久しぶりに健康に良さそうな昼食になった。


 「…んん、ところで、時々同僚とメッセージをやり取りしていますけど、まだ上司は見つからないようですね…。でも、そろそろ警察の捜査がオメガ産業まで伸びているかもしれません」大きく切りすぎたソテーをようやく飲み込んだ私は、開口一番そう言った。


 「それで、さっき聞きそびれましたけど、そのウッドさんが見たポステという人はどんな感じなんでしたっけ?」フォークにレタスを指したまま彼女が聞いた。


 「うん、そうですね…。五〇代くらいかな、随分やせ型の青白い感じの人で、白衣を着ているんですが、サイズが合っていないような感じで、まあ…、とにかく、爽やかな印象ではないですよ。それにだからといって、特徴的なところがあるわけでもないっていう…」


 私が話すその内容を頭上で再現しているとでもいう風に右上に瞳を転がしていた彼女はすぐに、中空で止まっていたレタスを口に運ぶと「なるほど」とだけ言ってむしゃむしゃと音をさせながら何かを考えていた。


 そうして、何かを思い出したように微笑んだ。


 「そう言えば、…初めて引継ぎの話が出た時、ガスタンさんはウッドさんの事を爽やかな人だと言っていましたよ」


 私はすぐに何かを言い返したかったのだけれども、このマッシュポテトをスムージーで流し込んでしまうまでの間はどうしても辛抱しなければならなかった。


 「そうなんですよ。…でもガスタンさんの言う通りでした」と言って、例の睨み合いがここでまた始まったのだけれど、今回は私の勝利に終わった。


 私は伏し目がちに「さて…。そろそろですか、ザルファーのポステさんの方は」と言ったが、それはどこか勝ち誇った調子のようにも聞こえた。


 ジェレーナは口元を丁寧に拭うと、覚悟を決めたように大きめに頷いた。トレーをさらりとまとめて返却すると、早速我々は門の方へと向かった。


 太陽は天高くに昇って、二人が行くのを隅から隅まで、つまりは、密かに通い始めた私達の真心ですら、そっくりそのまま見透かしてしまうほどの光量を放出している。

 それだけで、私はどこか、連日の騒ぎがもう間もなく白日の下に曝されることを予兆しているような錯覚めいた気持ちになったのだった。


 見ると、朗らかな笑顔を湛えている警備員に話しかけている、来客らしい人物がそこにあった。


 「あ、もしかしてあれじゃあないですか?」


 彼女の眼は日差しのせいか、視力のせいかは分からなかったのだけれども、とにかく珍しく細められて、それが門の方へ注がれている。


 私もそちらへ目をやってみた。私の方もやっぱり細目になっているところを考えてみると、ここからではその人物の詳細な様子を汲み取ることが出来ないようだった。


 そして、最初に一歩を踏みだしたのは、情けないことにジェレーナ・レドムの方だった。私は仕方なく、その少しばかり華奢な曲線の後を追った。揺れる視界の中で、その人物の姿が徐々に立体を帯びて浮かび上がっていく。それにつれ、次第に私の歩幅が小さくなった。


 「どうしたんですか?」そう言って彼女が髪を耳に掛けた、ちょうど真後ろには、昨晩私が見た男、つまりオメガ産業のポステ氏にどことなく似ている風貌をした男が、それにもかかわらず昨日のそれとはまるで違った、エリート風とでもいう、余裕の微笑みを浮かべていた。男はその落ち着いた微笑みを残したまま、私を一瞥してそばを通り過ぎて行ったのだった。


 ジェレーナはついに狐につままれたままの私のところへ駆け寄って、掌を私の目の前で左右に振った。


 「何か変なところでもありましたか?」


 「あ、いや、昨日の男とは別人のようですが…。んん、なんというのかな…。でも少しだけ似ている気がするんですよね、上手く説明できないですけど」


 「今の人はきっと三〇代ですよね…。それじゃあ親子っていうこともあり得ないことはないですよね?そうでしょう?」


 彼女は一見すると、この二人のポステ氏を父親と息子の関係に仕立てたがっているようにも見えた。


 「…かも、しれないですね。たしかに」


 私達二人はポステ氏が建屋の角に消えて見えなくなるまで、その深い紺のスーツの背中を細まった目でじっと眺めていた。


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