第五話

 微かに人の声を聞いた…。何となくそんな気がしたのだ。振り返ってみても、相変わらず大きな影のような社屋がそこにあるだけで、別に何か変わったことはない。


 するとまた声がした。二階の方からかもしれない。しかし、当然照明など点いてはいないのだ。


 「…す…」


 男の声だった。私は二階の角の部分を窺っていた、この険しい眼をそのまま台車が残された玄関へ移した。

 

 それまではただ、非常灯が天井で申し訳程度に灯っていたはずの入口で、信じがたいことに、今では、白色灯がその場を征服するかのように煌々と社屋の一部を描き出しているではないか。


 おまけにこの台車の取っ手にある、オメガ産業という刻印は言うまでもなく、無警戒な私の脳裏に、この照らされた区域と〝オメガ産業〟という単語を結び付けてそのまま焼き付けてしまったのだった。


 男の声は確かにその辺りでしたのだけど、姿が見えない。私は恐る恐るそちらへ近づいて行った。


 ばたばたと慌ただしい足音がすると、白い壁から男の顔がにゅっと現れて、乾いた声でこちらに話しかけた。


 「すみませんでした。今日はもう来られないかと…」


 「あ、ああ、こんばんは…」


 私は相手の出方を窺うように返事した。そして、最初の質問にもってこいの台詞を丹念に選ぶと、ひとまず安堵した。


 「…こちらは、オメガ産業さんで間違いないですか?」


 どうやら男は白衣を着ているようで、白い壁に溶け込んで、ここまで近づいてもまだ、その輪郭がはっきりと見分けられなかった。


 「はい。そうです。確かにオメガ産業で間違いありません」くもった声がガラスを通して伝わって来る。男はドアを開けて続ける。


 「ええと、ザルファー計測さん…。でしたか?」


 小道から舞い込む夜風に大きな白衣がはためいている。この中で貧相に包まれていた男の身体は少しばかり痩せすぎといった印象で、手首なんかはその袖にもう一本くらい入りそうなほどだったし、何よりも妙に乾燥した肌が不健康そのものに見えた。


 「あ…ええ、はい。ザルファー計測のウッドです」


 そう言いながら、名刺をその骨ばった手の先へ向けた。この白色灯が指し示すように、この男はずっと日を浴びずに生きてきたとでもいうくらい青白い肌をしていて、私は寧ろ、最初はこの白色灯の色の方を疑いそうになったくらいだった。しかし、私の手と男のそれを見比べてみると、これが照明の影響では無いことがすぐに分かった。


 「ウッドさん…。ようこそ、いらっしゃいましたね。私はオメガ産業試験課の…ポステです」そう言って不得意そうな微笑みを見せた。


 私を安心させようと考えたのかもしれなかったが、まるで逆効果を発揮して、それは無意識にこの足を後ずさりさせようとするくらいなのだった。 


 「実はこの…。この茶封筒をこちらへ届けるようにと預かってきましたが、お恥ずかしいことに、この中身とですね、誰宛てなのかの、確認がとれておりませんで―」


 私が鞄からずるりと茶封筒を取り出すと、この男は目を大きくして、そしてもう一度あのへたくそな微笑みをそこに浮かべた。


 「ああ、なるほど。いやいや、結構ですよ。その心配はご無用です。うちの…、試験課宛でお願いしていたはずですから」


 そう言うと、男は案の定、ぷるぷると腕を揺らしながらこの茶封筒を受け取った。

 何ともそうは思えない気になるのは、偏見からなのか…。


 つまり、この鳥ガラのような青白い男の風貌、或いはこの辺ぴな暗闇で、ひたすらに沈黙のまま私を待ち構えていたオメガ産業、これらに対する、私自身の内にある偏見がそう錯覚させているだけなのかと考えたのだ。


 確かにここは封筒に書かれた住所とも合っているし、それに加えてこの男もオメガ産業だと言うのだから、おおよそここで間違いは無さそうだったのだけれど、明確になっていないところも依然としてあるわけで、それを明らかにしないまま、こんな風にしてあっさりと荷物を預けてしまうのも、それはそれで何だか抵抗があった。


 とは言ったものの、相変わらず端末の方はずっと沈黙したままだった。結局のところ、この件について一番詳しい情報を持っていて、それを今すぐに私が聞き出せそうな人物となると、やはりこのポステ氏に違いなかった。


 「あの、一つ教えてもらえませんか?…その茶封筒の中身は、一体何なのです?」


 大事そうに抱えられていたそれを見つめる両眼が、その余韻らしいものをそっくりそのまま残した状態で、ぎょろりとこちらへ向けられた。


 「…ああ、これですか。これはですね、我々の製品に組み込まれる、あるユニットなのです。少しばかり専門的な話になるんですが、お聞きになりますか?」


 何となく、このポステ氏はその質問をされるのを待っていたように見えた。それは、そういった後に、薄っすらとした笑みをこちらに見せたからだった。


 「ええ、勿論ですとも。私は今日一日ずっとそれを知らされないまま、持ち歩いていたんです。最後にそれだけ聞かせてください」


 ポステ氏は分かりました、と言って快諾した。


 「それから、私からそちらの方へお持ち帰りいただきたいものがあるんです。ここでは何ですから、どうぞ中へ…」


 彼は白衣を翻して直線的な背中を向けた。そして慣れたような足取りでするすると廊下を進んでいく。


 この提案は、はいそうですか、と反射的には受け入れられなかったのだけれど、どう考えても、今出来る最良の確認方法は、〝知る〟ということに他ならないのだとその時は思ったのだ。


 というのも、私はあまりにもこの件について知らなさ過ぎたからだ。この廊下の先をこの目で確かめて、それをもとに、オメガ産業と我々ザルファー計測との間の関係について一つ一つ探っていくことが、ここでは一番容易かつ正確な方法であると考えたのだ。


 例えばそこに、うちの製品でも置いてあって、知っているうちの社員のサインの一つでも見つけられれば、ただのそれだけで、この不気味な胸騒ぎも幾らかはましになる筈なのだから。


 「どうぞこちらです…」


 ポステ氏は廊下の途中を右に入ったところで私を待っていた。ぱちりと音がすると、その右手の奥からこちら側へ光が射したのが分かった。


 あれからずいぶんと軽くなった鞄をぶんぶんと振り回して、少し駆けて後を追って見ると、そこは階段だった。それも、彼はそれを下へと降りていくのだった。


 〈なるほど…地下かぁ、二階にしてくれりゃよかったのに〉


 何故かと聞かれると、論理的な理由説明に困ってしまうのだが、まあとにかく、映画でも小説でも、何か良からぬことが待っているのは決まって地下だから、実際にこんな風に自分がその立場になると当然気分が悪いわけだ。


 「どうしました?試験課は地下なんです」


 ポステ氏の方も、そうやって〝いかにも〟といった雰囲気を醸し出しているのだ。


 〈あなたのその感じも、ちょっと嫌だな本当…〉


 などと、頭の中で文句を言いながら、仕方なく彼に付いて降りていく。すると、ポステ氏は降りてすぐ右側の扉の前で何やら白衣のポケットに手を入れている。何かを探しているようだった。そしてようやく出てきたのはキーホルダー付きの少し長めの鍵だった。


 私はさっきまでずっとイグナイトの新しい建屋の中にいたものだから、こんな学校の教室の鍵のようなのを見せられた時には、この大きすぎる白衣も相まって、何だかそんな大したモノをつくってはいないんだろう、と少々バカにするような気持ちになってしまった。


 がちゃり、と見かけによらず重厚そうな音をさせてそのドアは開いた。そして、ぱちり、ぱちりとポステ氏が壁のスイッチを入れると、試験室は姿を現した。そこには金属製の棚が辛うじて人が一人通れるくらいのスペースごとに四つほど立っていて、棚の各段には見たことのない形状の器具や工具らしいものが並んでいる。


 天井と壁は一面、三角柱のようなものが突き出しているが、あれは吸音素材の一種のようだ。そのトゲトゲの隙間の白色灯も同じくこちらを向いて刺すように強い光を放っていた。


 そして、何よりこの部屋の中央には、何に使うのかまったく見当がつかないような大掛かりな、何かしらの装置が立っているのだった。それは、見る人によっては芸術作品めいたオブジェクトのようであったり、無人のチケット発行端末であったりと、誰もが持っているあらゆる領域の無知という要素が、そっくりそのままひっくり返されて、否が応でも想像力を掻き立てさせられるとでもいう独特な姿をしている。


 「あの、これは何ですか?この装置は―」


 「―これはですね、オメガ産業が誇る技術の結晶です。詳しいことは企業秘密ですが、世の中を変えらえる優れものなのです。この装置の話はこの部屋の中だけでするようにという規定があるくらいなので、あまり詳しくはお伝え出来ないことは分かっていただきたいのですが、文字通り世の中を変えてしまうために開発されたのです。世界中の何処を探しても、同じものは二つとありません」


 私はどう反応していいものか迷った。この寂れた所に立っている古い学校の校舎のような建物の地下室にある、この胡散臭いものが、世界を変える代物だとはどうしても思えなかったし、かと言って、ポステ氏の口調は冗談を言っている感じにも聞こえなかったのだ。


 〈マップ上はおろか、ネットに何の情報も載っていない企業がそんな技術を持っているはずはないだろう〉


 私は、これは何かの時間稼ぎではないのかと心配になってきた。というのも、この部屋のどこを見渡しても、ザルファー計測どころか、何一つザルファーグループに関係する物が見当たらないからだ。


 「そうそう、お持ち帰りいただきたいのは、これなんです」と言って、彼はまたしても茶封筒を私に差し出した。それは私が持っていたものと全く同じように、端から端まで糊でぴったりと封じられていた。


 「これ…ですか?その、これは今日私がお持ちした例のユニットと同じようなものですか?」


 「ええ、そうです。それで、これらのユニットというのは、まさにこの装置の一部なのです」


 ポステ氏は口元だけで笑みをつくって、そう言った。ここにはうちとの関係を示唆する物は何も見当たらなかった。けれども、確かに私が課長から預かった茶封筒と、今ここで手渡された茶封筒は全く同じもののようで、さらには、この重み、そして、あれだけあれこれといじくり回して調べて判明した形状とも見事に一致するではないか。これは、ザルファー計測とオメガ産業を繋ぐ確固たる根拠の一つになり得ると、私は判断したのだった。


 「ちなみに、これは弊社の誰宛てでしょう…?」


 ところが、魔が差したのか、私はここでもう一つポステ氏を試してみたくなったのだ。


 「…お持ち下さったユニットをウッドさんにお渡しになった方に、またこのユニットを届けていただければ結構です。…私も前任者から任されて日が浅いものですから、実はザルファー計測の方ともお話しするのはウッドさんが初めてなのです」


 〈やっぱり何だか変だな…。課長の名前も知らないなんてのは。引継ぎ前の記録かなんかがあるだろうに…。これは、もしかすると、会社間ではなくて、課長とこの男、あるいは他の誰かとの間の、私的な何かの取引なのでは?〉


 一度そう思い始めてみると、この目の前のポステ氏にますます言いようのない不信感が募っていくのだった。


 「…まあ、ご覧ください。これです」


 彼は私の不安をどこからか嗅ぎ取ったようにそう言うと、私が丁重にここまで運んできた例の茶封筒をばりばりと豪快な音を立ててあっさり破ってしまった。すると、中から大型のバッテリーのような黒い長方体を取り出して、それをこちらへ差し出したのだった。


 そして、私はおもむろにそれを受け取って舐め回すようにこのユニットと呼ばれているものを観察してみた。奇妙なことに、ちょうどこれに接する指の先から体温を吸い取るとでもいうくらいに、このユニットは何故だかとびきりに冷たいのだ。


 大きな二つの面には同様の数字の羅列が書かれている。これはずいぶんと前に手書きされたようで、シリアル番号か何かのように思われる。それから、片方の端の面には窪みがあって、コネクターらしい機構がある。


 「あの…これは、なにかバッテリーのようなものですか?」


 とうとう全ての面を観察し終わっても結論が出せないことに耐えられなくなった私は、棚の方で何か作業していたポステ氏に尋ねた。


 「ああ、まあそうですね。うん。そんなようなものですね…。ですが、ちょっとばかり特殊なものでして、これもまた詳しくは言えませんが、特に運搬には一層気を使わなければなりません。ですから、きっとウッドさんも上司の方に見込まれてこのユニットを託されたのでしょう」がさごそと音をさせていたのが止むと、まもなくそう言った。


 バッテリーの一種か。それなら合点がいく姿をしている。重さの方も、ずっしりしていていかにもそれっぽいのだ。何一つ詳細なバッテリーの知見を持ち合わせていない私は、へえと関心を装ってみた。


 〈この人は見込まれて、とか言ってるけど、課長のことだから単に運送費をケチろうってだけなんだろうね…。まあ、怪しげなところもあるけれど、一日中持っていたこれが、この装置のバッテリーユニットということでも、おかしいことはない。それ自体は本当らしいね…。あ、そうすると、さてはここにユニットを差し込むんだな〉


 私はこの中央にある謎だらけの装置の周りを一周して行く間に、このユニットがちょうどすっぽり納まるスペースをいくつか見つけたのだった。


 「どうです!」


 私はびくっとして振り向いた。そこには見開いた眼をぎらぎらとこちらに向けているポステ氏が立っていた。


 「!…ああ、ここにこのユニットが取り付くわけですか…」すぐ後ろからいきなりに声をかけるので、返答が一拍遅れになった。


 その通りです、とそれだけ言うと、ポステ氏は棚から持ち出した器具をこのユニットに組付け始めた。


 「そう言えば、他の従業員の方々はもう全員帰られたんですか?」


 忙しなく動いていたスパナの動きが停止した。


 「…ええ、田舎ののんびりした、まあそういう社風ですかね」


 そうして、ユニットの姿勢を変えると、スパナはまた動き始める。


 「今日はもう私だけです。この作業だけはのんびりというわけにはいかんのです。それ以外の全ての業務と違ってね」


 「それじゃあ、お忙しい所を邪魔してしましましたね。この辺りでそろそろ失礼しようかと思います」


 私がそう言うと、再びスパナが止まってごとんと作業台に置かれた。今度のそれは、組付け作業が終了したことを示していた。


 「もうご納得いただけましたか?確かにこのような辺境まで中身も知らされないまま荷物を届けるというのは疑いを持たれるのも当然でしょう。この装置についてはそのほとんどが口外出来ませんが、多少は問題がない部分がありますから、それについて少し説明させて頂こうかとも思いましたがね…。まあ、もうこんな時間ですからね、残念ではありますが」


 彼はしばらくぶりにまたあのへたくそな微笑みを浮かべた。正直言って、私はその装置が動く光景を見てみたい気持ちがあったのだけれども、それよりも、どうしても総合的に気色の悪さの方がそれに勝ってしまって、その時はそう言わざるを得なかったのだ。

 

 またあの階段をポステ氏の後について上がって、こうしてまた玄関へと戻って来たのだった。


 「いやいや、随分と重たいものを持たせてしまって申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします」


 そんな風にまたこの重量を託されて、オメガ産業を後にしたとき、時刻はもう六時半近くを回っていた。そして、今更になってようやくメールが一件だけ入っていたのだった。それも、同僚のキルマから、〝誰も知らないってさ。課長はやっぱりどこだかわかんない〟などと、それはどこかやっつけ仕事のような内容の文章だった。


 落胆と疲労を混ぜたような大きなため息を一つつくと、何気なく後ろを振り向いてみた。オメガ産業はまた元の暗闇に戻っていた。


 何故それほどまでに照明を消したがるのか、理解できないし、それも、正直もうどうでもよくなっていたのだけれど、兎に角今日はもうこのまま直帰すること以外、何も考える気にならなかった。そして、また鞄の持ち手をぎゅうぎゅうと鳴らしながら、今はもう暗闇を少しも気にすることはなく、とぼとぼと小道に入って行った。


 国道には、勿論あの綿毛頭の運転手が乗ったタクシーなど見当たらなかった。それでも、運よく近くにいた一台を思いのほか簡単に端末上で捕まえることが出来たので、まあ良しとしよう。


 私は後部座席で左手の指をすり合わせていた。乗り込む時にフレームを掴んだ指が当たり前のように粉埃を付けていたのだ。


 「お客さんお疲れですね」


 「ええ、まあ、今日はいろいろ忙しくて…」

 

 もうそれだけで会話を締め落としてしまうと、駅までの間は特に一言も口にすることは無かった。この運転手も、あの嘘つき運転手と同じように、この時、本当はこの鞄の中身に興味があったのかもしれないのだけれど、当の私の方はというと、今日はもう勘弁してくれという顔で始終目を瞑っていたのだった。

 

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