第四話
「―ああ、来ましたね」
外を見ていたガスタン氏は良く通る声で私に言った。そんな風に声を張ったところで、その声を聞いたのは隣にいるジェレーナ・レドムと、奥の方で四人して難しい顔をしながら話し込んでいたグループ、それから、いつからかモップ掛けを始めたカフェテリアの従業員くらいなもので、もうほとんどの客は我々が茶封筒と睨めっこをしている間に居なくなっていたのだった。その上、夕日の赤い帯すらも、今ではちょうど何かの陰に隠れてしまっていた。
ガスタン氏が誰かに呼ばれて行ってしまった後、間もなくして私はジェレーナの後を追って門の方へ歩いて行った。建物の外では時々肌寒いような風が地面の枯れ葉をさらって、花壇の花々も同じく乱暴に撫で付けられている。この右手の鞄は風だの人の都合だのに、決してなびくつもりはないとでもいうように、脚を繰り出す度に同じ軌道に沿って揺れるのだった。
彼女はこちらに振り向いた。相変わらず風がその髪を乱そうとするので、何かを話している間も時々気が散っているように見えた。
「それじゃ、今日はありがとうございました。また何かあったら、その時はよろしくお願いします」
そんな風に別れ際の決まり文句を言ったので私は同じようなフレーズを言って頷いた。思いがけないことに、この時、彼女は一向にこちらから目をそらさなかったから、私も負けじとその目をしばらく見つめてみたのだけれど、これが私の単なる希望的観測だったのか、それとも、ジェレーナ・レドムからの何かしらのメッセージであったのかは、いまいち判別できなかった。
そんなことを考え始めたところで、「あっ、あれ、お客さん!」などと、ムードを台無しにするやつがいる。振り返ってこの不届き者の面を見てやろうと思ったら、それはなんと今日駅前で拾ったタクシーの運転手ではないか。
「ああ、どうも。奇遇ですね」
言うまでもなく、彼の綿毛のような部分が先ほどから増してきたこの風によって、大暴れしているわけで、とうとうムードもくそもなくなって、寧ろとっととここから連れ出して欲しくなってしまったほどなのだった。
「ささ、どうぞ。料金の方は勿論、十五%引かせてもらいますからですね」
そう言って運転手は暴れ狂う頭など二の次で、後部のちょうど私が前に座った座席へ座るように導いた。
バタン、と鳴った後は、もう風が建屋の間をすり抜けていく、あの音は止んで、ついでと言ってはなんだけれども、運転手の頭も前衛芸術のオブジェクトみたく、捉えどころのない形状を湛えている訳であった。
彼がささっとベルトを締めると、颯爽とタクシーは動き出した。窓の外でジェレーナ・レドムが手を振るのが見えた。彼女にこちらが見えたかどうかわからなかったけれど、また対抗するようにして、私はひらひらと掌を揺らした。
「お客さん、クラール通りですよね?ええと、一三一三でしたか…」と、いつの間にか髪の毛を整えていた運転手が私に尋ねた。
「はい、とりあえずはね…」
もう一度端末を取り出して見たのだけれども、カフェテリアで見た時と同じスクリーンが車内を照らす。つまりは音沙汰無しというやつだった。そして、指でとんとんと数回突くと、また耳に当てがった。
〈課長じゃなくてもいい、誰かを捕まえてオメガ産業のことを聞き出せば良いじゃないか。それでどうにかなるだろう〉今度はそんな風に考えたからだった。
「―ああ、もしもし、ウッドです。課長はいないの?どこにいるのか知ってる?」
運よく話の分かる同僚のキルマが出たので、上手くいけば、どうにかして答えが出るのでは、と私は少し楽観的になった。
「え?わからない?ああそう。えーっとじゃあ、オメガ産業っていう会社聞いたことない?…ああ、いやそれじゃないね。ロベルトンにあるらしいんだ。いやね、そこに届け物を頼まれたんだよね。そうだよ!課長だよ。ちょっ…ちょっと他に誰か知らないか聞いてみて。うん、誰か戻ってきたらさ。うん、それで何かわかったら教えて。これから行かなきゃいけないんだけど、担当の人もわからないんで参ったよ。…はい、じゃあよろしく!」
これでその内に情報が出揃うことになるだろうと、私は少し安堵したのか、改めて深く腰掛けた。ため息と同時にバックミラーを見やると、もうすでに運転手は第一声を発するところだった。
「え、それで、例の荷物、何か進展がありましたか?その様子だと、オメガ産業ってのは未だ何か今一つ分からないようですね」
彼はやはりこの茶封筒の中身に対する情熱を完全に失ったわけではなかった。少しでも導燃材となり得る話題を会話に放り込みさえすれば、何度でもその熱をめらめらと取り戻すことが出来るらしい。
「イグナイトまで何人か乗せたって、前に言っていましたよね?あの、もしかして、もしかしてですけどね…、他にもこんな風に重そうな鞄を提げていませんでしたか?」と言いながら、私はわざわざ鞄を大袈裟に持ち上げて見せた。
「へ?おっしゃる通り今日は何人か乗せましたが、うーん、その時は気が付かなかったですね…」
「実はですね、イグナイトに訪問された人の中に、私と同じオメガ産業について尋ねた人物がいるそうなんですよ、それでね、その人も、不自然に重たそうな鞄を持っていたらしいんですよ。ね?何か気になるでしょう?」
「え!?それは…、それはちょっとばかり不気味でないですか、ううっと…ちょっと鳥肌が立ちますね。そりゃあ…」
もともと駅前もどこか物悲しいところがあったのだけれど、日が沈んでから、所々に立ち始めた街灯の明かりを頼りに窓の外を鑑賞してみると、この辺りの方は何と言うか、例えば、地層の古い部分が露呈したような雰囲気になって、シンプルなつくりをした、まるで骨董品のような商店が、ここでひっそりと誰かの発見を待ちわびているという風にも感じられるのだった。
「この辺ですよクラール通りというのは…。もうただ、ご覧のようにこんな感じのところでしてね」
運転手が私の所感に沿わせるように、そう一言加えるものだから、〝そう言って振り返った運転手の顔は…〟みたいな何百回と見たホラー映画のプロットの一部を思い出した。
「本当にこんなところにオメガ産業が?本当にうちと取引しているのかな…。だって、真っ暗ですよ、もうほとんど!」
あまりに暗くなってきたので、ついついそのプロットに被せるような口ぶりになってしまう。指先はこんなに冷たくなって居るのに、今、脇から汗が垂れていくのが分かった。
街灯が示す限り、この辺りには誰も居ない。大体の商店の二階は住居らしいのだけれど、明かりがついていないところばかりで、それどころか、よくよく見ると、ガラスが割れて居たり、壁の一部が軒先に崩れ落ちていたりしていて、人がそこに住んでいるとはどうしても思えないのだ。
「あのね、お客さん…。本当に降りますか?ここで。あのお、私もまだここでは浅いですがね、ベテランの方々からも、ここら辺の話なんか全然聞かないもんですから、ひょっと何かあったら申し訳ないですからね…」
〈まったくその通りだよね。きっとこれは間違いだよ。うん〉
内心では運転手の推測に異論はなかった。うちの人間からも何の連絡もないし、この届け先の情報そのものに誤りがあるとしても何もおかしいことではない。
〈よく見ると、ほら、これだって、何だかちょっとばかし走り書きっぽいじゃないか…。誰が書いたんだか分からないけど間違っているんだよ!それに、最悪の場合、場所が分からなかったということで、今日のところは、もうこの辺で諦めようじゃないか…〉
この提案は幾らか私の情緒を鎮静させるのにかなったようで、とりあえず、降りるだけ降りて、そして、何もそれらしいものが見当たらなければ、もうそこまでにしようと考えるに至ったのだった。
〈…もう、それでいいじゃない〉
「あ、もうこのへんですよ一三一三といえば…。良ければ待ってますよ。流石にここでタクシーを捕まえるのは難しいと思いますから、ね?無かったら戻りましょう」
「ああ、ありがとうございます!ちょっとだけ見てきますよ。そこの小道の先みたいですから」
いくら不気味でも、流石に彼に一緒に来てもらうようには頼めなかったので、仕方なくこの不愉快な荷物を持って、一三一三番地を捜索してみることにしたのだった。
小道はちょうど小型車がぎりぎり一台通れるくらいの幅で、残念なことに街灯など一つも無く、頼りない月明かりによると、使われなくなった電柱が捨て置かれたように数本突っ立っている。念のために振り返ってみると、運転手が煙草の先をぽっと赤くしているのがわかった。けれども、小道の奥からは空気がゆっくりと国道の方へ流れ出ていて、煙草の臭いはこちらには流れ込めない様子だった。ここで私はまた何かのおまじないのように、端末の着信を確かめた。
〈これだよ、何とかの法則ってやつだ〉
こちらがどうでもいい時はたんまりとメールやら電話やら寄こす癖に、こんな時に限って、本当に労いの一つもありはしないのだ。
「お」と、そこに広いスペースが見える。広いとは言っても、この小道と比べているわけだから、駅前のスペースと比べたら、それは当然狭いとか何とかとうっかりぼやいてしまうくらいの冴えない空間だった。それに加えて、足元には白線が見える。どうやらこれは駐車スペースのようだ。
〈へえ、案外それっぽくなってきたじゃないか〉
そう思って小道の入口へ向かって合図しようとしたものの、もうその向こうには煙草の灯は見当たらなくなっていた。けれども、耳を澄ましてみると、アイドリングするエンジン音が辛うじて分かった。
〈よかった。まだ、そこにいるみたい。待ってくれよ、もうちょっとしたら戻るから…〉
月が雲に隠れると、いよいよ何も見えくなってきた。私は目の前の大きな影に端末のライトを向けた。
「あ」という小声がこんなにもはっきりと聞こえる場所は久しぶりだった。確かにそれは社屋らしい形状をしていて、おまけにロゴみたいなものまである。この建物は二階建てのわりと、理解できる外装でここにこうして立っているのだった。
そして、信じがたいことに、どうやらここには電気がきているようで、建物の中には非常灯がともっているのが分かる。とは言っても依然として人の気配を感じ取ることは出来ない。
妙なことに、この不思議な好奇は私の両足を知らず知らずのうちに、一歩また一歩といった具合で、この建屋の方へ手繰り寄せていくではないか。
もうそれこそ、この耳が何かの、それっぽい物音一つでも拾ったなら、簡単にそこの玄関らしいガラス張りのドアまで自分から寄って行って、悪くすると、そのままこの中へするりと溶け込んでしまいそうにさえ思えた。
「あ、オメガ産業…。やっぱりこれだわ」
ちょうど入口の脇に置いてある台車の取っ手のところにオメガ産業と書いてあるのを見つけた。やはり、ここがそのオメガ産業に違いない。
その時、案の定ガタン、などという刺激的な物音が、どこかから、それも確かにこの建屋の中から届いたのだった。それは、重たくて硬い何か、その何かしら同士がぶつかり合ったような音だった。
そして、気が付けば、こんな風に私はもうちゃっかりと玄関の前まで来てしまっていて、さながら、この次の合図を心待ちにしているとでもいうように、全身の感覚をその入口の奥へと向けて研ぎ澄ませていた。
寂しい静けさの中に何処か遠くからサイレンの音が断続して投げかけられたりしたものの、ちょっぴり残念なことに先ほどまで感じられたあのタクシーのアイドル音の方はもうここまでは届かないようだった。
すなわち、もうここらが私にとってのポイント・オブ・ノーリターンらしい。そう少しばかり酔ってクライマックスを気取ってみたのだけれど、どうにもやっぱり急に寂しくなって端末を取り出していた。
〈ああ…。もう本当にため息が出る…〉
何なら、さっきのジェレーナの名刺にある番号にでも電話してやろうか、などと、何故だか少し自棄を起こしているくらいなのだった。
兎にも角にも、次の合図は私がもう一つ何か行動しなければ出ないと見えた。となれば、この取っ手を押したり引いたりして様子を伺ってみるのが良案だろう。ぽっかりと空間をこしらえていた頭の中に、何処からともなくそんな少々風変りな提案が浮かんできた。
私は不意に「あ…」と言って、少し後ずさりしてしまった。というのも、予想外なことにこのドアは施錠されていなかったからで、そんな訳でちょっと驚いて、小躍りするように、その場でうろうろしてしまった。
〈はあ、もういい…。一度戻ろう〉
そう思って、いよいよ怖気づいてしまった私は、あれだけの好奇心にあっさり別れを告げると、玄関を背にして、ずるずると元来た道を辿り始めたのだった。
ところが間もなく、小道の途中で私はあることに気が付いてしまったのだ。
「あ、あれ?」
私はそう言いながら、背中を丸くしたままぎゅっと目を細めていた。あの煙草の赤色は見えないし、その上さらに心細いことに、そこでじっとしてみても、エンジンの音が全く聞こえてこないではないか。
〈あっ!あの嘘つき〉
そして、私はなりふり構わず速足でぶらんぶらんと、この鞄を揺らして小道の入口まで駆けて行った。
やはり居ない。どこにも。確かに狭い国道だから、ここに止めていると他の車の邪魔にはなる、確かにそれはそうなのだが…。そう思って、どこからか、あのタクシーが戻らないものかと期待しながら、少しばかりその場で待ってはみたのだけど、一向に車一台さえ通る気配はない。
不安からか、無意識のうちにまた端末を握りしめていた。誰に向かって言うでもなく、〈ジェレーナ・レドムへかけてもいいのか!〉などと、一瞬ではあったが、狂った脅し文句のようなものが頭を過った。
それでも、とにかく気を取り直して会社の方へもう一度かけてみたのは良いのだけれど、今度は誰も出やしない。弊社は一体どうなってしまっているのか。普段、この時間なら、ちょうどみんな自分の席に戻って来て報告書なんかをまとめている頃だというのに。
そうやって不思議がっていると思ったら、仕方のないことに私はまたこの小道に戻って来ていたのだった。見てみると、やはりオメガ産業は沈黙の中に、ただ影の塊とでもいう風に佇んで居る。
〈もしかして、今日はもう全員退社したか、それとも何かの、ほら、例えば創業何周年記念とかいうやつで休業しているのかもしれないじゃないか。ああ、そうだ、それならば仕方ない。今日は一旦出直すほかなさそうだな、もう、絶対その方がいいはずだ〉
思いつくすべての言葉が、それぞれ別の形をとって訪問拒否を表明したがった。確かに来るだけは来たし、それに担当者も何も、その社員全員が不在らしいのならば、もう帰るしかないではないか。
「…帰ろう」
そう呟いて、またもやくるりと小道へ向き直すと、タクシーを捕まえるために端末を取り出した。そして、とぼとぼと駐車場を横切ろうとした、その時だった。
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