第三話
その次にもう一度端末を覗いた時には、もう四時を回っていた。相変わらず課長からの返信はないままだった。実際、もう私の要件はとっくに済んでいたのだけれども、珍しくガスタン氏がコーヒーをご馳走してくれるというので、私たち三人は二階のカフェテリアでこうして座っていたのだった。
「ははは、まあ、何とかこれで、仕事になりそうですから、まあ、いろいろとありましたが、万事めでたしですね」とガスタン氏が口ひげを指でちょいちょいと撫でながら言う。
〈それはあなたが勝手にかき回して、話をややこしくしただけでしょ…〉と思いながら、私はこの、なかなかいけるコーヒーを音もなく一口すすった。
ガラス張りのカフェテリアでは、もう客入りの多い時間は通り過ぎてしまっていて、どことなくゆったりとした時が流れている。そばの大きな窓からは、先ほどタクシーで乗り付けた門がよく見える。そして、時折、そこから訪問客がぱらぱらと出ていくのが視界に入るのだった。
「ジェレーナ、何か困ったことがあったら、気軽にウッドさんに聞きなさい。この人は見かけによらず頼りになるから」
見かけによらず、と言う部分はさておき、ガスタン氏はこれまでの無礼を、こんな風にたった一言でもって返上してのけた。この意外な出来事には、思わず私の喉が鳴ったくらいだった。
「とんでもない。もう何度も同じようなことをみてきましたから、そんなに大したことではありませんよ」
ここで謙遜しない手はない。私は心底からそう思った。言葉の通り、これは本当に何もたいしたことではなかったのだけれど、せっかく彼がジェレーナの前でこんな風に持ち上げてくれるのだから、それを断る理由もまたないわけで、ここを去る前に良い恰好を彼女の眼に残しておくのも、正直悪くない考えだと思った。
「じゃあ、またすぐに取り付けの件で、色々とお聞きすることになると思います。この先は、私自身の判断がはっきりしていない状態では進められませんから…」
「もちろんです。私としても確実にお使いいただいて、引き続きイグナイトさんの製品開発のお役に立てれば幸いですから…。はい、何かあれば何時でもお電話ください。名刺の番号はこの端末につながりますから、すぐに対応できると思います」
私はテーブルを挟んで向こう側に並んだ二人、とりわけジェレーナ・レドムの顔色の微細な変化に注意しながら、仕事柄すっかり口に馴染んでいた口上を述べてみせた。これにはガスタン氏もかちゃんとカップを降ろして、思った以上に感心を表していたし、ジェレーナからも、お返しにしっとりした微笑みを引き出すことが出来た。
「あ、サイトーちょっと」
すると、ガスタン氏はこんな風にして唐突に、トレーを持って歩いていた一人の男性を呼び止めた。この男性はガスタン氏とは対照的になで肩の細い体を少々ふらつかせながらこちらに回して、どこか不本意そうに「…あ、はい」と返事した。
〈ああ…。そろそろ出ようかと思ったらこれだもんなあ〉
私はこのサイトー氏に友好的な構えを表明していながら、内心ではそうやって、控えめにいっても正直うんざりしていたのだった。
「あのさあ、もしかして今朝サイトーがお客さんに聞かれたのはオメガ産業ってところじゃないか?」
りんりんと目を輝かせたガスタン氏は何か面白い事でも閃いたと言わんばかりにそう言った。サイトー氏はその声にびくついた。というのも、ガスタン氏は大抵必要以上に声を張る傾向があるからで、おそらくこのサイトー氏がトレーを持ったままで、こんな風にそれ以上近寄ろうとしないのも、推測するにこの発声によるものと思われた。
「え、あ、そうですね、オメガ産業っておっしゃいました。でもどこにあるかは分からなかったもので…。それがどうしたんです?」
ガスタン氏がこちらを見て手のひらを上に向けると、サイトー氏も私を見ながら不思議そうにしているではないか。なるほど、ガスタン氏がここに私を連れてきたのも、もしかしたら、オメガ産業の所在についての関心が彼の中で密かに芽生えていたからなのかもしれない、と私はこうも考えた。
「サイトーさんもお客様にそのことを聞かれたんですか?それは何と言うか、奇遇ですね。ちょうどね、私もこちらのウッドさんに同じことを聞かれたんですが、どうしても分からなくて…」
それどころか、ジェレーナ・レドムの方もこんな風に、ガスタン氏と同じくして、このオメガ産業に対して明らかに興味を抱いているような話しぶりではないか。こうなると、私がそう無関心にはしていられないような気もしてきた。
私は空いていた席に置いていた鞄を床に降ろすと、その異常な重みが形成した窪みにサイトー氏の尻が納まった。本意とは言い難かったのだけれども、私自身のこの手が着席を促したのだ。ともすれば、それは課長に投げかけた質問の回答が一向に得られない不満への当てつけのようにも思われた。
「…ということは、ウッドさんもこれからオメガ産業へ?」
サイトー氏は血走った目でこちらを見ていた。私は落ち着かなくなって、思わず椅子に掛けなおした。ちょうど、こんなボードゲーム風にイグナイトの社員に囲まれると、そうやって少しばかり不愉快になったとしても全く仕方がない事だった。
「ええ、でも肝心の場所の方が…。メールを送ったんですが、上司からの返答も未だでして…。ただ、住所はクラール通りの―」
「―一三一三…ですか?」
サイトー氏は手慣れたようにその先を答えた。そして、私がそうだと言うと、少しばかり満足そうに頷いた。どうやら彼もマップ上で随分と探し回ったらしい。
「これで出ないんじゃあ、もう後は実際にこの場所に行ってみるしかなさそうですね。…でも、ネットで検索できないっていうのは今どき珍しいもんですよね」
サイトー氏はゆっくりとカップを混ぜながらそう言った。
「なんかさ、案外すごいものをつくっているのかもしれないよ。軍事兵器とかさ…。だから、それであんまり情報を載せてないのかもしれませんよね」と、ガスタン氏はぐりぐりと鼻を擦りながらサイトー氏に話していたのを急に止めて、出し抜けに私の方を見たのだった。
「さあ、どうでしょう。まあこの後で上司に電話してみますから、その時に聞いてみますよ…」そう言ってイグナイトの面々をいなして口を閉じようとしたとき、もう一つ私が特別疑問に思っていたことが思い出された。
「あっ、ところでですね、そのお客さんって因みにどこから来られた方でしたか?…ああ、いえ、差し支えなければ、でいいんですが」
ジェレーナとガスタン氏はそろってサイトー氏の方を見やった。ちょうどその時、彼は口の端に垂れたコーヒーを慌てて拭う所だった。
「ん、ああ、あの人はザルファーの人ですよ。うちの製品の採用を検討しているそうで」
「え?そうですか、私もザルファー計測の者ですが、ふうん、親会社のザルファーから…」
ザルファーは、その名前こそ何度か変更してはいるものの、創業五百年以上、さらに、諸説あるなかで一番長い説では千年ともいわれる老舗企業で、現在では電子機器の他に金属、樹脂素材や、物流を含む様々な事業を展開しながら、過去には旧資源採掘を主に主要なビジネスとしていたことで世界的に有名だった。ちなみに私の会社、つまりザルファー計測の方は、電子計測器のメーカーとして、自慢じゃないが業界ではそれなりに信頼を置かれているのだった。
「…そういえば、その人は、入門の時に、セキュリティにザルファー・マテリアルからかと尋ねられたとおっしゃっていましたよ」
「ザルファー・マテリアルといえば、同じグループ企業の一つですね。なんか、名前のとおり素材系の会社ですけど、あまりうちとは接点がありませんから、詳しくは知りませんが…」
私はこう続けざまに自分と同じザルファーグループの従業員がこのロベルトンの地に集結しているという話を聞いた時、不意に、たしかに好奇心と呼べる感情が、この腹の奥でふつふつと沸き起っていることに気が付いたのだった。
もしかすると、そのザルファー・マテリアルからやって来たという人物も、オメガ産業を訪問する予定があったのかもしれない。この可能性が、この言いようのないじれったさをもたらす原因に違いなかった。
「それじゃあ、その人もオメガ産業へ行ったかも…。いや、まさかですけど」
私がその仮説を頭の中でしたためている内に、うっかりジェレーナに先を越されてしまった。日が当たっている彼女の額には薄っすらと汗が滲んでいるように見えた。
「本当にそうだったら、ちょっと面白くなってきますね。何しろ誰もオメガ産業の事を聞いたこともないし、それを同じ日に同じ企業グループの方々が探しているわけですから」などと、ガスタン氏は兎に角私に何かを促すようにそう言ったのだった。
そして、彼の額にもまた粒になった汗が、もう、こめかみの方へ滑り落ちかけていた。
少しの静寂の後、突然にばたり、などと大袈裟な音がしたので、皆が急に目を覚ましたような顔になった。何なら、このテーブル周辺の人たちでさえ、その音に反応させられたくらいだったのだ。
「あ、これですね…。鞄が倒れた音です」と言って、私は自分の鞄をまた窓ガラス側へ立て掛けた。
「あ、もしかして、ウッドさんも何か重たい物をお持ちじゃありませんか?」
「え?」と私とジェレーナは声を重ねた。ガスタン氏一人だけが、その時だけ全くの部外者のようにそこに佇んで居るようだった。
「実は、ザルファーからお越しになった方も、すごく重たそうな鞄をお持ちでしたから、気になったんですが、それが何なのかは聞けなかったんですよ。急いでらしたので、そんなことに時間を割くのは失礼かと思いまして…」
ガスタン氏はついに一人だけ部外者のような気分に耐え切れなくなったのか、そうサイトー氏が話す間中、ジェレーナ・レドムの肩をつついていた。
「そ、それはウッドさんも…」とジェレーナは私に合図した。私はやれやれ面倒だなと思ったのだけど、これを話さないことには先に進めないし、何よりも、ここに座って間もない頃に、分からない時はいつでも聞いてください、などと、思い切り格好をつけてしまった経緯もあって、何やらこの説明はどうにも避けられない責務のようにさえ感じられた。
「…そうなんですよ。出かける時に上司からこの重たい茶封筒を預かったのですが…。その、オメガ産業へ届けるようにとだけしか聞かなかったもので、それで、ちょっとレドムさんに尋ねたわけです」
正面に顔を上げた時には、すでにガスタン氏はどこかへ電話をかけようとしていたところだった。サイトー氏がどうしたのかと聞こうとすると、彼は人差し指を立てて、これを制止した。
「…はーいどうも」といって一度電話を切り、そしてまたどこかへかけなおした。彼の額にたまった汗はもうとっくに顎の方まで落ちてしまっていた。
「ああ、どうも開発のガスタンですけども、そうそう、この間はどうも。うん。それで、ちょっと聞きたいんだけど、今日ザルファー・マテリアルさんからお客さんがあったと思うんですけど、ああはい、もう帰られたんですね。…うん、えー…、すごい!…いえちょっと調べもので、でその方、オメガ産業っていう会社を探していらっしゃったりしなかったです?あーいや、こちらにザルファーの方がお見えになってるんで、お知り合いかなと、ええ、それだけなんですけど。はい、はい、ありがとうございます…」
私たちはそれぞれの顔を見合わせながらガスタン氏が話すのを、ただ黙って見守っていた。誰もが皆、電話が切れるのを今か今かと待ち構えていた。気づくとサイトー氏だけではない、ジェレーナ・レドムの、あの可愛らしかったはずの瞳にも、どこか狂ったような色が生じて居るような感じがした。そんなことを思いながら、私は私で恥ずかしげもなく生唾を飲み込んだ。
「ええと何だっけ、ランダーさんという方が来られたそうで、オメガ産業については尋ねなかったみたいですけど、やっぱり重そうな鞄をもっていたそうですよ!」
それを聞いた瞬間、この場の全員、少なくとも私は大いに鳥肌が立った。そして、この脇に置かれた鞄の中に眠っている茶封筒の気色の悪さを、散々ぶら提げて回って、今日初めて認識したのだった。
我々ザルファーグループの三名は、どうやら似たような何かを持ち歩いているらしい、そして、少なくともそのうちの二人はオメガ産業という何かしらの企業らしい場所にそれを届けようとしている。もしくはもうすでに、もうその誰かはそれを達成したかもしれない。
「何だかちょっと不思議な感じがしますね」などとジェレーナは簡単な感想を述べたが、これはもはや不思議という部分を通り過ぎて、不気味の帯域へと踏み込んでしまっている、という表現をあえて避けて居る風にしか聞こえなかった。
その頃にはもう、皆が皆、この話題の茶封筒の事について興味津々という感じだったのだけれども、流石に他社のコンプライアンスに関わる問題なので、ただただ、私の顔を覗き込むようにして、何かを懇願する他に方法は無いわけであった。
どすん、とテーブルが音を出した。茶封筒はさながらスポットライトを浴びるかのように、ガラスの向こうから好き放題に降り注いでいる、この日の光で輝いて見えた。まさか、たかだか茶封筒の膨らみに対して、こんな風に夢中になれる大人たちが他にどれくらいいるのだろう。彼らは恐る恐るそれを指で押してみたり、揉んでみたり、或いは擦ったりもした。しばらくそうやって、そして、最後には皆が諦めたようにため息をついた。
そして、また皆が一人ずつ持ち上げて観察しているのを傍から眺めながら、私は早いところ課長と連絡を付けられないかと、内心ではやきもきしていた。
「ああ、重たい。何か長方形で表面はつるつるしていますけど、何でしょうね」
最後に手に取ったジェレーナは腕を振るわせながらブツを置いて一言そう言った。
しかし、私もそう長くここで油を売っている訳にはいかない。この茶封筒のブツが何であろうと、それからオメガ産業とやらがクラール通りのどこだろうと。
けれども、イグナイトの面々もしつこいもので、さっきからやたらと、聞かないと分からない、とか、上司の方は忙しいのでしょうかなどと、私にこの場で電話をかけさそうと躍起になっているのだった。
私はついに観念して、端末を取り出すと、それを耳に当てがった。イグナイトの皆さんはそれをじっと見守ってくれている。兎に角何よりも明らかなことは、この不気味な茶封筒が顧客との距離を異常なほどに縮めてくれたことに他ならなかった。このサイトー氏などは、普通であればこの先も全く私との接点などあるはずもなかっただろうから、本当に人生何があるか分からないものだと思った。
「…うん出ませんね。もうこの時間は大抵自分の席に戻っているはずなんですが、はあ…。あ、留守電だ」
発信音の後に何か言い残す前に、私は端末を耳から離していた。テーブルにはそれぞれ枯れたカップの底が覗いている。皆の顔は稀に見る落胆に染まって、さらに赤みを増してきた夕日のせいか、この場は尚更悲壮な情景を漂わせているのだった。
「じゃあ、そろそろ行かなくては。今日は何だか色々とお世話になってしまいましたね。本当にありがとうございました」
「それじゃやっぱり、これからその住所の場所へ向かうんですね」とガスタン氏は少し大げさそうにそう言った。
「もしよければこちらでタクシーを手配できますよ。提携しているタクシー会社があるので、随分安くなりますし…」
ジェレーナは私の返答を待たずに、早速端末を取り出すと、何やらぽてぽてと始めた。
「それじゃあ、私はお先に、この後面談があるもんで…。それじゃあお気をつけてウッドさん」そう言ってサイトー氏はトレーを持つと案外あっさりと去って行った。
いや、それともこれくらいが普通なのかもしれない。ここまでの盛り上がりが少々特殊すぎて、冷静に今を分析できなくなってしまっていることに、私はようやく気が付くことが出来た、ということかもしれない。最初はあれだけ目を血走らせていたサイトー氏だったのだけれど、最初にこの一時の無意味な熱狂から目を覚ましたのも、また彼だったのだろう。
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