第二話

「―はい、ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております。はい」


「いやあ、どうも。またここが終わったらすぐタクシーを拾うんですがね…」


 私がそう言うと、運転手は急に元気を取り戻したようになった。それは、その腫れぼったい目が精いっぱいの開口を見せたことからも窺うことができた。


「はあ、そうですか?でしたら、今キャンペーンやってましてね。これ私のコードですけど、一日に二回以上利用すると、少し安くなるんですね。まあ、私この周りを走っていますからね、お時間が合えばですけどね、またこのコードで呼んでもらえば二回目ということで十五%ほどお安くなります」


「へえ、十五%も!それはお得ですね。じゃあ、またこのお客さんが終わったら試してみます。どうも」


 私は右手にぶらりと鞄を垂らして外へ出た。運転手はもうすっかり茶封筒のことに踏ん切りをつけてしまっていたらしく、その後はこの右手へ視線を向けることもなかった。


 受付は思いのほか空いていたので、セキュリティブースの警備員もすっかりと和んだ様子で、丁寧に訪問者説明を述べてから担当を呼び出してくれた。


 このブースの周りには何かの記念と称して樹木やら花やらをそこら中に植えてあった。これらは定期的に追加されていくようで、そこの花壇にも、前に来た時には無かった花がまた増えているような気もする。この辺りだけ見ると、さながら植物園か何かの様な雰囲気で、太陽に暖められた花々からはもわもわとした自然が漂って鼻先を刺激している。


 私は上着に薄く残っていた粉埃を払った。こう少しばかり気を働かせたのも、どうやら担当者が変わったらしいからで、それもジェレーナ・レドムなどという、まるでそこの花壇に咲き乱れている種の一つとでもいうような、今風の軽やかなスペリングが、いとも簡単にそれをやってのけた訳だった。


 セキュリティによると、そのジェレーナは第三棟の玄関で迎えてくれるという。そういうわけで、しばらくの間この茶封筒の中身のことで頭を一杯にする余裕はなさそうだ。さらに有難いことに、第三棟というのは門からそうは離れていないので、鞄を何度も持ち替えなくても済むらしい。


 大きなガラス張りのスロープが付いた入口が見えた。軽いスモークがかかった、ガラスの向こう側に確かにそれらしい人影がある。その配色から、女性であることは明らかであったのだけれど、〈ジェレーナ・レドムって感じじゃないね〉失礼ながら密かにそう思ってしまったのだった。


 「ようこそ、イグナイトへ。開発のジェレーナ・レドムです」


 やはり、彼女がジェレーナ・レドムその人だった。こうして直接名乗ってもらうまでは、何とも信じきれなかったから、たとえイメージと違っていたとしても、なんだかこう言われてすっきりした心地になったのは間違いない。


 「どうも、初めまして、ザルファー計測のボーエル・ウッドです」


 私たちは軽く握手して、それぞれの名刺を交換したりした。それから私は時々、右手の鞄の持ち手をぎゅうぎゅうと鳴らしながら、彼女に連れられてグレーの廊下を進んでいった。


 「前に来られた時は、担当はガスタン…、でしたでしょうか、私は彼の後任なんですが、任されたばかりで、正直まだあまり慣れないもので―」


 「ああ、大丈夫ですよ。ガスタンさんとは何度も話をさせて頂いて、もうしっかり機種の選定も済んでありますから、あとは、具体的な使用方法なんかを私の方から説明させて頂くだけなんです」そう言いながら私は彼女のほんの少し後方を行きながら、鞄を左手に持ち替えた。


 ところで、私は心底安堵していた。というのも、担当が変わったとはいえ、このガスタン氏が同席されると、大変面倒なことに成りかねないからで、そして、駅で陰鬱だった原因の一つにはこのガスタン氏の存在があったからでもあった。


 「ガスタンからは、…その、相当の質問をお受けになられたでしょう?」

 ジェレーナ・レドムがそう言うと同時に、我々の足音は止んだ。


 〝開発第二〟と書かれたドアへカードらしきものをかざすと、どこかしらが小さくかちゃりと鳴ってドアがスライドした。


 「…あ、そうですね。それは慎重になって当然でしょう。何しろ予算を要求するのも二つ返事にはいかないでしょうし…」


 ジェレーナ・レドムはガスタン氏に対しての不満を共有しようとするように、あるいはガスタン氏の執拗さが外部の人間にはどのように映るのかを確かめるとでもいうように、少し困り顔気味にこちらへ微笑んだ。


 「あ、鞄はそちらにでも…。でも、何だかとっても重たそうですけど…」


 可笑しなことに、例によって彼女も少し多めに重力を受けているとでもいうような、この鞄に飛びついたのだった。


 私は彼女をジェレーナ・レドムと認識することに、もうすっかり抵抗を無くしていた。それどころか、彼女こそがジェレーナ・レドムと名乗るに最もふさわしいようにすら思えてきたほどで、地味だと思っていた風貌もじっくりと観察すればするほど、例えば、メガネの奥の瞳二つとっても、何となく品があるような気がしてきたのだった。


 「ああ、これはですね、いやあ重たいですよ…」


 「それで、…その、何が入っているのかお聞きしても差し支えないでしょうか?エントランスでお会いした時から、あまりにも重そうに提げてらっしゃるから…」


 彼女はなかなか好奇心が強い人物らしい。…それとも、これをぶら提げて歩き回る私の姿がよっぽど滑稽に見えるのだろうか。


 しかし、残念ながら―

 「―しかし、残念なことにですね、えー…、私も中身が分からないんですよ、これが」


 「…え?」


 「…ああ、ただほら、重いのは…。よっと。この封筒です」


 作業台の上にどてんと音を立てて、例の茶封筒が寝転がった。


 「会社を出る時に、上司にこれもついでに届けるように頼まれたんです。でも、肝心の中身の方は何なのか私も知らないんです」


 「なるほど…、中の物についての説明もなかったし、ウッドさんも特に尋ねなかった、ということですか…」


 ジェレーナが瞳を丸くしてこちらを見ているものだから、私は不意に自分の間抜けさがありありとそこに浮かび上がって、とうとう恥ずかしくなってきたのだった。


 「ええ、すれ違いざまでしたし、何より私もその時は時間が無くてですね、はい」


 「何も書いてないんですものね。あ、オメガ産業…?」


 私は何故だか見られてはいけないものを彼女に見られてしまったような気がして、密かにドキッとした。けれども、よく考えてみると、何も困ることなどないし、むしろちょっぴり楽天的に、オメガ産業なる企業について、彼女が何か知っているかもしれないとすら考えたのだった。


 「その会社が届け先なんですが、ご存じないですか?ええと、確か住所は…あ、クラール通り一三一三」


 彼女はしばらく考え込んでいた。細い指で唇を優しく押さえる仕草は、この計測機械だらけの無機質な一室では思いのほか色っぽく映えた。


 「クラール通りというと、たぶん工業団地の近く、…だと思いますけど、その辺りはあまり詳しくなくて…。ごめんなさい、お力になれなくて」


 「いえいえ、上司に確認すれば済むことですから、大丈夫ですよ。こちらこそすみません、関係ない話を長々と…。さて、ああ、こちらがガスタン氏と話していた製品です」


 私は鞄の内側のポケットから、ガスタン氏にあれこれと詳細な仕様について疑われ続けていた、あるセンサーデバイスを取り出すと、これまで抱えていた、一切の後ろめたさから解放されたという風に、目の前の何も知らないいたいけな担当者を相手にして堂々と操作説明を始めることにしたのだった。


 「ああ、わかりました。思っていたよりも意外と…、操作もですし、何より軽くて小さいので、取り付けもしやすくて良い感じですね」


 それはまさに私がこの数週間ずっと待ち焦がれていた感想そのままだった。


 「これはまだ新しいタイプなんです。これからは誰でも簡単に計測を行って頂けるように、ご家庭にある電化製品を扱う感覚で使えるようにと、はい」


 私が自社のパンフレットの中で読んだ覚えのある、文章の一部を引用すると、ジェレーナは静かにこくりと頷いた。


 私は内心、最早ジェレーナ・レドムには感謝の念を抱きすらした。さらに、ジェレーナ・レドムというと何だかグラマラスな少々濃い造形を想定していたのだけど、そんなことは私の全くの勘違いで、こじんまりとしたこのおしとやかな振る舞いこそが、真にジェレーナ・レドムを冠するに値するのだと、いよいよあからさまに信じ込もうとしていたのだった。


 自分でやってみます、と言って、彼女がケーブルを他の計測器やうちのセンサーに接続してゆくのを私は黙ったまま見守っていた。 


 肩くらいまで伸びた明るいブラウンの髪の毛をうつむく度に耳に掛ける姿は、私にとってある種の絶景のようでもあった。


 「ウッドさん、接続はこれであってますか?ちょっと見てくれます?」


 鑑賞中の芸術が、自らの額縁の装飾について私に尋ねているとでもいうような、ふわふわとした錯覚を覚えた。


 「はい、どうかな…、ええと」


 〈問題なく繋がっているな、うん〉などと感心しながら端から順番に確認していった。けれども、やはり、このセンサーの取り付け角度のところで手が止まってしまった。そして不運なことに、私はそこに訪れた沈黙に、入口の方からかちゃりと鳴った音が差し込まれた事実に気が付いてしまった。


 「ああ、どうもウッドさん」


 スライドしたドアの向こうには何やら厚めのファイルを抱えたガスタン氏が立っていた。大袈裟に言うと、これはまさに血の気が引くというやつで、ちょうど、この取り付け角度についてはガスタン氏から散々指摘を受けていたので、私がこうして調整をしている最中に彼が現れるという偶然が、想定し得る限り最低最悪の状況とも言える訳だった。


 「…どうも、お邪魔しております」


 第一声はまるで、この乾いた唇から放たれるることを拒んでいるようにも聞こえた。

 「あ、どうですか良い角度で付けられますか」


 それは、付けられるものならやって見せろと言わんばかりの発言のように思われた。彼はその厚めのファイルを私の鞄の隣に置くなり、足早にこちらへ近づいた。口ひげを生やしたずんぐりむっくりが、いつにもましてしげしげと私の手元を覗き込んでいる。


 「あー…。でしょう?やっぱり上手く良い位置にこないですよね」


 見ると、ジェレーナ・レドムはこの不愉快にむっくりした尻の向こうで、心底申し訳なさそうに苦笑いを浮かべている。


 「あ、ええ、ちょっとですね、ここはなかなか合わせ難いですね」


 ガスタン氏が私に背を向けて、彼女の方へ何かしらの無言の合図を送ったことが、ジェレーナの表情から読み取れた。


 私はセンサーを指先でぐいぐいと押しながら適切な数値が保たれる角度を必死で探した。しばらくすると、先ほどから頭を締め付けていた不快が不意に取り払われた。


 「…あ、ここだ。いいですね。これです」


 「お、出来ましたか?でもセッティングがなかなか難しいから、私らで大丈夫ですかね」


 ガスタン氏は、私が上手く角度を合わせてしまったことに大層不満そうに、こう言った。パンフレットでは取り付け簡単と謳っているのに、実際は手間がかかるじゃないかと文句を付けていた、先日のことが思い出される。これを口実にもう少し安くしろなどと交渉してきそうな、妙に軽いトーンで話をするのだ。


 「いや…、この数値を見ながら、指で押していけば、案外簡単ですよ。大体は一発なんですが、形状によってはこんなこともあるでしょうけど、どこの製品でもそれは似たようなものです」


 不満そうなガスタン氏の後ろではジェレーナが手を口元へやって何かを堪えている風だったが、すぐにその手を解き放った。


 「あ、ガスタンさん。オメガ産業って知ってます?」


 「うん?…オメガ産業?あのローデック支社の近くのやつのことを言ってる?」


 「いいえ、ロベルトンです。この辺にオメガ産業ってありませんか?」


 「うーん…。でもどうして?」


 ガスタン氏は少し考えて、何かに気が付いたようにジェレーナ・レドムの方へ向き直した。そうなると、私はとうとう堪らなくなって、そこへ割って入ることにした。


 「ああ、私が今日そこへ伺うことになっているんです。ただ場所をご存じでないか、レドムさんに尋ねてみたんです」


 「へえ、この辺にオメガ産業ね…。他に何かヒントないですか?」


 私とジェレーナはちらと目を合わせた。すると、私が動くより先に「クラール通り一三一三が住所だそうです…。ね?」と言って、口を半分開けた私の方を見た。


 「…あ、はい。端末のマップでは見つけられなかったのですが…」


 「クラール?クラール…、というと、工業団地の方だね。番地までは分からないけど、…まあ、工業団地があるくらいだから、会社は多いんじゃないかなあ。ええ、その辺りにもオメガ産業というのがあったかもしれません」


 ガスタン氏はもう長くこのロベルトンで暮らしているらしく、頭の中で街並みを隅から隅まで再現しているような口ぶりで話すのだった。


 この街の人々によると、どうやらこのオメガ産業とやらが、そんなにぱっととしたものではないらしいことは確かなようだった。少し前に、課長にもメールを送って、詳細を寄こすように催促しておいたのだけれども、あれから端末が震えた感触は依然としてなかった。


 内容は、オメガ産業はわかったのだけど、それで一体誰にこれを渡せばいいのか、といったもので、そのついでに、というよりも、個人的にはこちらの方がよっぽど本題のように感じているのだけど、それは当然、このやけに重たい茶封筒の中身は一体全体何なのかということについてだった。

 

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