オメガ産業

SI.ムロダ

第一話

 くたびれてきた左手から右手へ鞄を渡すと、しばらくぶりに私は前方へと視線を伸ばした。スロープの先にはちょうどオレンジが滲んで、安堵を味わっていたり、苦虫を噛んでいるようだったりの種々雑多な表情が時々それを遮りながら流れていく。


「…ふう」

 

 差し込んでいるオレンジを追うと、ついさっき持ち替えたばかりだというのに、もうふるふると右手が不満そうに訴えている。


〈不満なら課長に言ってくれ〉


 何しろこの私もその見慣れない大型の茶封筒の中身が一体なんであるのかは知らないのだから。

 

 その上、誰の仕業なのか、とにかくびったりと端から端まで糊を塗ってあるものだから、これっぽっちも覗き見てやろうという気にはならなかったのだ。

 

 思い返してみると、たしかに課長もこれを何とか産業とかいう、ある住所へ届けろと指示しただけで、何だか詳細な説明を避けていたようにも思えてきた。

 

 それとも、ただエレベーターですれ違いざまに頼んだことだったから、案外大したものでもないのかもしれない。当然、私がいつもロベルトン駅周辺へ営業に回っていることも知っている訳だから、そのついでにでもそこへ寄って、この忌々しいブツを渡して来いと、きっとそういうわけなのだ。


 ロベルトン駅で電車を降りて、西口へ出るのはもう何度目だったか分からないのだけれども、電車揺られながら、この茶封筒の届け先の文字列を眺めて考えてみたところで、いまいちピンとこない訳なのだ。


「…オメガ産業ね」


 私はようやく右手の訴えを聞き入れて鞄を下した。じんわりと熱っぽくなって震える、この頼りない指先で端末をつついて、課長が言うオメガ産業とかいう会社を検索してみた。


 すると、出てくる出てくる。出てくるのは良いのだけれど、残念なことに、この住所と一致するオメガ産業だけがどうやっても見当たらない。


〈まあ、いいや〉


 私の方は何もこのブツを届けるためだけに遥々ロベルトン界隈までやって来たのではないのだ。そんなことはさておき、お馴染みのお得意様方が私にあれこれと要求する機会を首を長くして待ってらっしゃるという訳だ。けれども、一旦そう思い始めると今度は急に足元の辺りが重たくなってきた。


〈あの件のことを聞かれたらどうしよう…。それとも、あれを黙っていることに気が付かれたら嫌だな。…ああ、もしかしたら、あれも、それも見透かされているのかも…〉


 そんな風に少し考えただけで、さっきまで静かに納まっていた不快が溢れ出そうと蠢いているではないか。


 なんとかそこに蓋を被せると、私は左手にまたこの重りをぶら下げて、逆らうようにしてこの煌々としたオレンジの光へ向かって行った。


 駅前は相変わらず埃っぽい風が、まるでそこら一帯だけを執拗にかき混ぜているとでもいうように乱暴に舞い続けていた。


 そうすると、なんとも感じの悪いことに、乗り場のレーンへ進入するタクシーの軌道も、その風と横暴にシンクロしている様子だった。何だかもう、それを目の当たりにしただけで、私は少し嫌気がさしてしまうもので、思った通りその一台目をそのまま行かせてしまった。


〈まあ、いいさ。次だ、次を拾おう〉


 そうすると、またすぐに埃っぽいボンネットのタクシーが舞い込んできた。指先をひらひらさせると、運転手はそれに誘われるようにゆっくりとこちらへ近づいた。


 私はやはり埃っぽい後部ドアのフレームをくぐって深く腰掛けた。後部座席は日を吸ってほんのりと温かい。その一方で、薄ら寒い窓の外には愛想のないカビっぽく古ぼけたビルが並んで、揃ってこちらを覗き込んでいる。


「どちらまで?」


 薄い頭の運転手は条件反射的にそうつぶやいた。彼は目の下を大きく膨らませて、さながら悪徳な商人といった風貌で、私がどう答えるか、意地悪く試しているようにも見えた。


「あ、イグナイトまで」

〈ああ、この人はおしゃべり嫌いなタイプかな、たぶん…〉


 経験上、この手の運転手は最小限の会話で済ませるのが得策だろうと考えた私は聞かれたことだけにただ淡白に返答したのだった。


「ああ、はいはいイグナイトね。今日はお客さんでもう四人目なんですよね、イグナイトまで行くのはね」


「え?あ、そうですか」


 私の読みが外れていることを指摘するように運転手がそんなことをいうものだから、私の方はまだ、最小限会話モードのままで、あっけなくそう返してしまった。


「イグナイトってさあ、あれつくってるんでしょ?…ほら、あのぉ、あれだ―」


「―バッテリー、ですね」


 私はついつい待ちきれずに先に答えを言ってしまった。


「ああ、そうだ、そうそうバッテリーね、うん。バッテリーだ」


 運転手の目はその下の膨らみよりも細く縮こまった。彼は何やら見かけによらず気さくな人物のようであった。信号が変わって走り出した今でも、まだうんうんと一人で頷いている。その上、面白いことに細い綿毛のような髪の毛がそれに合わせてふわふわと揺れているのだった。


「私ももう何度かお邪魔させてもらってますよ。年に何度かはロベルトンでタクシーを使いますけど、運転手さんは初めてですね」


「ああ、私はね、まだこの辺では新人なんですよ。前はローデックの方で走ってましてね」


「へえ、ローデックで?えらく都会の方から来られましたね」


「都会ってもね、お客さん。やることはどこだって同じですから、うん。それでもって大変なんですよ歓楽街なんか回すと。たしかにね、売り上げの方は良いですよ。それはたしかに」


 運転手はローデックの話をする度に、少し自慢げに、そして饒舌になった。我々は何度か長い信号に捕まったが、その度に運転手はこちらへ振り返ってローデックやタクシーのうんちくを披露した。


 タクシーが大きく揺れた時、鞄が私の方へ倒れてきた。それを再びドア側へ寝かせながら、私はふと例のブツの届け先、オメガ産業のことを訪ねてみることを思いついたのだった。


 運転手が今度はちょうどロベルトン周辺のうんちくを話し始めたらしかったので、この辺りがまさにちょうど良い頃合いのように思われた。


「あの、オメガ産業…。この辺でオメガ産業っていう会社、ご存じないですか?」


「オメガ産業?…ああ、はい、何かローデックの方にいた頃は時々聞きましたけど、この辺じゃちょっと知らないですね。たしかにこの辺りのオメガ産業?あのね、オメガ産業ってのは珍しい名前じゃないですからね」


 運転手はローデックにならオメガ産業でも何でも揃っているとでもいう風に、自慢のような、相談に乗っているような、私の望んでいた正解にはなり得ないらしい返答をこんな風にして寄こしたのだ。


「そうですか…。端末のマップでも出ないんですよオメガ産業。住所はね、これなんですよ。ええと、クラール通り一三一三」


「クラール通り?ううん、一三一三というとね、それはあれかな、工業団地の方だと思いますね。うんうん、はい。恐らくそうですね」


 運転手は何度か何かを思い返すように頷いて、とうとう結論した。ウインカーがチカチカと鳴って、老人が横断するのを今か今かと待ちわびている。


 私はおもむろに例の茶封筒を鞄から取り出して、中身が見えやしないかとタクシーの窓に当てがってみた。ちょうどよく日が当たるところへ、何とかこの重いのを持っていったつもりだったのだけれど、さっぱり中が見えないし、振ってみても何ら手掛かりになりそうな音一つ立てやしない。


 そして今度は手で揉むようにしてその形を探ろうとするのだけど、これとった進展といえば、角をとった長方形をしていることがようやっと分かったのと、どうやらこれは書籍の類でもないらしいということであった。


「何です?その大きな封筒は。…いやね、重そうに鞄もってらしたからね、大金でも入っているのかとおもいましてね…。いえ、失礼しました。ええ、あの冗談です。はい」


 バックミラーの中で運転手がおどけながらそう言った。そういえば、彼は時折ミラー越しにこの鞄を気にしていたようにも思えた。


「…ええ、上司にそのオメガ産業の…、担当者にこれを届けてくれと言われたもので―」


 私はその時、肝心の担当者の名前をうっかり課長から聞き忘れていたことに気が付いた。


「―ああ、中身はね、私も知らないんですよ、出かけるところで急に頼まれましたから。でもかなり重さがあるんですよ、長方形の…、なんでしょうね…。一体」


「音はどうです?」


 そして、また信号が赤になってタクシーはその揺れを止めた。運転手は再び目を細めて、二人してこの茶封筒を見つめていた。


「ええ、振ってみても何も」


「ちょっと、ほらドアをノックするみたいに、何と言いますか、コンコンとやってみてはどうでしょう?」


 彼は最早私以上にこの茶封筒の中身に興味津々といった様子で、図々しいことに、私にこのブツを検めさせようという意図が堂々とそこへ表れてすらいたのだった。


 そうは言っても、私の方もこうして大事に持ち歩いてきた訳で、この中身が一体なんであるのか知りたいという気持ちは、決してこの運転手に負けているとも言いきれなかった。


 運転手の額に日が差している。彼の眼は半ば必死そうにこのブツに向けられていたが、これだけの眩しさから、恐らくほとんど機能していないように見えた。


 信号が青になって、運転手がバックミラーの中に戻ってくると、私はそれを待っていたかのように、コンコンと音を立てた。


「ん?なんだろう?」


「どうです?空洞ですか?それとも何か…、こう、詰まっているような感じですかね」


 わからない。私は何度かそれを繰り返してみたのだけれど、空洞のようで、詰まっているような、何とも判定し難い感触なのだ。


「ノックする場所を変えてみてはどうです?端の方とか、どこか感じが違う所はないですかね」


〈そんなことは言われなくてもわかっている。ちょうど今からそれを試してみるところだよ〉


 私は茶封筒をここで取り出したことを実は少し悔やんでいたのだ。まさかここまでこの運転手が馴れ馴れしくこちらに指図するとは思いもよらなかったからだ。


 何処かでホーンがなった。その時、いっその事、事故でも起きて、それを理由に別のタクシーに乗り換えられないか、とさえ考えたほどだ。


 そんなことを澄まし顔の下に隠しながらコンコンとあらゆる場所を丁寧に点検していった。


「ふうん…。どこも同じように感じますね」


 運転手は赤信号を待ちわびているような様子でハンドルを指でとんとんと小さく叩きながら、ミラー越しにこちらを窺っている。


「たしかですか?どこも?同じ?」


「空洞ではないようですよ。…たぶん」


 ふと窓の外へ目をやると、見覚えのある建物が見える。それがイグナイトだった。なかなかモダンデザインを気取っていて、古いビルが多く残っているこのロベルトンでは少しばかり和を乱しながらここへ仕方なしに突き立って居るような印象を放っている。


 運転手はとうとう諦めたように、両手でしっかりとハンドルを握って門の方へタクシーを回した。そして、バックミラーに映っている目元はどこか寂しさを呈しているのだった。



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