暴れ牛と夜明けの唄 26『水渡し』
「その魔法陣は、2つでひとつになる仕組みになっている。つまり、お互いの手を合わせることで、発動するんだ」
「なんだ、ずいぶん簡単なんだな。もうやってもいいのか?」
「あぁ、危ないと思ったら私が引き上げる」
エーヴリルが背中に手をあてた。
なるほど、制御もしてくれるなら、そんなに難しくもなさそうだな。
アシェルは、普通に魔術を使う感覚で、サファに手を伸ばす。
「まって!」
その手を掴まれた。誰かと思ったら、エリュシオンだ。
「なんだよ」
「たぶん凄い広いだろうから、びっくりしないで」
「は? あぁ」
「お前は、水渡しした事があったな」
エーヴリルが言うとエリュシオンは頷いた。
「今はあまり時間もないから詳しく話さないけど、精神空間に入り込むんだ」
そこでは、欲しいと思ったものは思いのままらしい。それと、空間の広さは人それぞれで、魔力の量と関係しているようだ。
「それはいいが、そんなとこでなにすればいいんだ?」
ただ、手のひらを介して、グラスに水を注ぐ感覚でいたのに、そんなことを言われれば気になるじゃないか。
「それも、多分、人によって違うとは思うけど、入ると、何となく分かるはず」
少なくとも自分はそうだった、とエリュシオンは腕を離した。自由になった手を見て、一瞬だけ迷いが生じる。
「……不安を
「やめておくか?」
「いいや、やめない!」
アシェルは即答した。視線を感じて、振り向くと無表情のエミュリエールと目があった。
「俺はこの世で唯一、そこにはいれる人間なんだろう?」
不安はある。それに、一度やると言ったことをやめる引け目もあるだろう。だが、彼女の精神空間に入ることを許されたのは自分だけだという、強い優越感が迷いを覆い被す。
「よし! 行ってこい。頼むぞ!」
アシェルが頷き、今度こそ手を伸ばした。触れたそこは、ぽよぽよとして柔らかい。だが、この時期だというのに、恐ろしく冷え冷えとしていた。
2人の魔法陣が重なると、アシェルは、細く小さい入り口が開いたように感じ、目を閉じる。
「魔力を押し込んでみて」
耳元でエリュシオンの声がする。経験者がいるというのはありがたいな、とアシェルが微かに頷き、ぐっ、と魔力を押し出した。
なん、だ……これ。
すると、足元が急に抜ける。
「う、わっ!」
それは、口から出たのか、心で言ったのかも分からない。とにかく、突然のことにアシェルは叫び声をあげた。
落ちるっ!
落ちていく……
ただ真っ暗な空間を、ただひたすら。
それもしばらく経つと慣れてきて、ぐるりと周りを見回した。
横はどこまでも果てはなく、底はどこまでも深い。
これが、サファの精神空間か…………すげぇな。
それは、なんというか、およそ10歳の少女が見るものではない殺風景。アシェルはぶるりと身が震えた。
何百、何千メートルになったか。それは、ようやくたどり着いた底でも同じだった。
灰色の世界。いくつも浮かぶ歪んだ時計には針がなく、激しく打った波が、その形のまま止まっている。試しに、拳で軽く叩いてみると、コンコンと乾いた音があたりに響いた。
寒々しいのに、不思議と冷たさは感じられない。彼が見たのはその波の合間に続いている一本道だ。エリュシオンが『入ると、なんとなく分かる』と言っていた意味が分かった。
たぶん、あっちだろうな。
アシェルは思った。教えてくれる人はいないし、この空間の主も見当たらない。だけど、この先にいるだろう、と。
それにしても、だ。
不気味。それ以上でも、それ以下でもない。
まさか、魔物とか出たりしないだろうな。
不安を感じながらも足を進めていく。目的の場所に近づいている感じはしていた。同時に、周りがざわつく感じも。
これ以上進んでも大丈夫なのか。より一層ザワザワとして、寒気が走り、全身に鳥肌が立った時だった。
ヒュッ
もはや、体に身についてる条件反射だけで飛び退いた。
ガツ──ッ!!
おい……安全じゃないのかよ!
飛んできたものを見て、アシェルは苦笑いし、タラリと汗を流す。
尖った触手が地面に突き刺さっている。よく見ると、いつの間にかそれは進む方角に何本も現れていた。
来るなってことか……?
引いた方がいいか? 少し迷って。だけど、アシェルはやっぱり進むことを選んだ。もし、ここで引き返したら、間違いない、自分は後悔する事になる。
それなら、この道を抜けて行く方がいい!
走り出すと、構えていた
ガガガガガガガガ!!!!
丸腰じゃ危険だな。剣か何かあれば……
自分の愛剣を思い浮かべると、ポンッ、という音共に目の前それが現れた。
「出てくるのかよ!!」
アシェルは生き物でもない剣に向かってツッコミを入れ、その柄を握った。コレさえあればなんとかなりそうだ。
さらに奥へ。触手を避け、時に叩き斬りながら、アシェルは真っ直ぐ突き進んでいった。
…………
コツ。
ここが、最奥か?
向かった先の、止まった波で囲まれた広い空間。そこで足を止めた。ここまで来ると、もう、触手は襲ってこない。アシェルは息を吐いた。
どこだ?
……いた。
よく見なければ見落としてしまいそうな小さな人影は、今よりずっと幼い。巨大な波の中で、自分を守るように、サファは膝を抱えていた。
だけど、その姿に衝撃を受ける。
なぜなら、その四肢は鎖で繋がれていたからだ。
なんだよこれ!
どうしてこうなのか分からない。だけど、こんな小さい体に何をしているんだ、と
要はコレぶっ壊せばいいんだろ?
アシェルはその、硬い怒涛に思いっきり剣を突き刺し、そして柄から魔力を注ぎ込んだ。
────────
風が、吹いた。
どこからともなく飛んできた海鳥が、遠くで鳴いているのが聞こえる。
起きろ!
アシェルは魔力を注ぎ続けた。危なくなったらエーヴリルが引き上げてくれるんだろうから、遠慮はいらない。
やがて、目を開けたサファが、アシェルの姿に気づき、驚いて目を大きく見開いた。それは、段々と細くなり、あの時見せたようにふわっとした笑顔にかわる。
あ……
太陽の匂いがした。その陽差しで溶かすように、暗かった波が青く変わっていく。
ザッパッ────ン!
そして、それは、一斉に動き出した。
うわっ!
目の前いっぱいに広がる景色。それはもう既に、空なのか、海なのか分からないほど。サファの瞳と同じ、キラキラとした瑠璃色で、満たされて、溢れている。
波に揉まれ、溺れていくのに焦りはなく。確かな安堵、温かな気配に包まれていた。遠くで呼ぶ声は、
……エーヴリルだな。
まだ感じていたいのに。残念だ。
引き戻されていく。
性急に浮きあがるその感覚の中で……アシェルは、ありがとう、という声を聞いた気がした。
「アシェル! 大丈夫か?!」
「んぁ、戻ってきたのか」
どうやら寝かされているらしい。エーヴリルが覗き込んでいた。体には力が入らず、これは、だいぶ持ってかれたな、とアシェルは思った。
「食われるかと思った」
「深かった?」
「なんか、すげー広かった。ああいうもんなのか?」
気味が悪いというよりも、あれは……寂しさか。
「よくやった、水渡しは成功だ!」
エーヴリルが、子供にするようにポンポンと頭を叩く。こんな上機嫌な彼女を見るのは久しぶりだ。
横にはまだ眠っているサファがおり、その顔色は良くなって、呼吸も整っている。
「世界を救った達成感」
「なにそれ」
ヒョコッ、とエリュシオンが顔を出した。
「魔力を注いだら、真っ暗だったところが、真っ青な空と海に変わったんだ」
「へぇ、なにそれ、詳しく」
「お前ら、そういうのは元気になってからにしろ!」
と言ってエーヴリルが出してきたのは、魔力回復薬の瓶だった。しかも、2つも。
「早く飲んだ方がいい」
「えぇ……遠慮する」
だってそれ、凄い苦いやつだろ?
アシェルは青い顔で体を起こす。もちろん、逃げるために。
「ダメだよ? ガッツガツに減ってるんだから、飲まなきゃ」
「そう言うお前もだ。エリュシオン。かなり魔力を減らしてるだろう」
「……あはは」
エリュシオンは頭の後ろを撫でて、そろっとエーヴリルから目を逸らした。
「お前ら押さえておけ!」
「ちょ、やめっ」
さすがに見逃してはくれず、アシェルはアレクシスに、エリュシオンはエミュリエールに捕まえられていた。そうまですると、2人は観念したように口を開く。
そうして、薬が効き始めた頃、3人は討伐の事後処理のために、部屋を出ていった。
エミュリエールがベッドの側に座り、手を伸ばしている。
「よかったのか?」
その背中に、エーヴリルが声を投げかけた。
「あぁ。何故か迷いなんてなかった」
それは、諦めじゃない。そばに置いておきたいとか、どこにもやりたくないなんて言うのは、
「遅かれ早かれ、というのは、それなりに覚悟しているつもりなんだ」
彼は悲しそうに笑っていた。
「今は、死ななかった。それだけで十分なんだよ」
そう言った彼は、哀愁を含ませ、いつまでも、愛おしそうに、サファの頭を撫でていた。
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