暴れ牛と夜明けの唄 24『水涸れ 後』
エーヴリルはモヤモヤして、紙にペンで、いくつも点をつけていた。何をしているかというと、この前、サファを再循環した時のことを診療録にまとめている。
この型、誰だったか。
適合者が居たはずなのに、診療録を片端からひっくり返してみても見つからない。なんとも、気分が悪い。
今回、起こるとすれば水涸れ。いや、まずはそうならない事を願っているのだが、万が一になってしまったとして、助ける術は限られる。
それが、『
頼むから、無事に帰ってきてくれよ。
そんな事を思うほど、親しい訳でもないのに、とエーヴリルは渋く笑った。何故だろうか、珍しい髪の色をしているからでもなく、トラウギマギアを使えるからでもない。あの美しい瞳か、違うな。
首を振った。
気になるのは、彼女の生い立ちだが。それも、今は置いておこう。とにかく、不安定で危なっかしく、それを本人が自覚していないところが、どうにも放っておけない。
エミュリエールはもっと重症だな。
はは、と笑い声を出したところで、紙飛行機が飛んできて、ついていた肘を掠めた。差出人はアシェルか。悪い予感がしながらエーヴリルは手紙を開けて、そして深くため息を
『サファが水涸れを起こした。連れていく』
短い文章に、眉間の溝が深くなる。願いも虚しく、予想していた事は現実となってしまった。
とにかく、探さなくては。
頭を抱えている場合ではない。エーヴリルは棚からまとめて診療録を取り出すと、ドサリ、と机に広げ、ひとつひとつ確認し始めた。作業に正確な彼女も、この時ばかりは見落としであればいい、と思っていた。
※
体を揺すられ、重くなっていた瞼を持ちあげる。あれから、何度か吐いたところで、疲労と息苦しさで、サファは目を閉じていた。
「起きたな」
ここは……お城?
寝ていた訳じゃない、と言いたくもあるけど、何か言ったら吐いてしまいそうなので黙っていた。薬の匂いと、エーヴリル様の声。正直、目はあまり見えてないけど。帰ってきた、それが分かり、少し力は抜けた。
「エミュリエールを呼べ! それと、早く寝かせろ!」
「うん……ごめん」
酷く沈んだ3人にムチを打つかのように、エーヴリルが大声を張りあげた。ベッドに降ろしてもらいながら、チラリと目を動かし、俯いている彼らの姿をみる。
可哀想。ぼんやりとした視界のせいか、それが、親に叱られている子供みたいに見え、わたしは、悪い事をしたな、と思った。
錆びついた口の中が気持ち悪い。ベトベトになったタオルは綺麗なものと取り替えられ、いい匂いのするそれに顔を埋めて目を閉じた。
「しっかりしろ、まだ寝るんじゃない!」
それは治療の為なのだろう。彼女にも同じ事を言われた。
確か、確率は低いって言ってたと思うけど。大丈夫なんだろうか。
サファは、覗き込むエーヴリルの顔をじっと見あげて、どうにか焦点を合わせていく。
普通なら身の置き所が分からないほど、もがき苦しむと言うのに。エーヴリルは、じっと自分を見ているサファに異様さと、余裕を感じた。
「痛くないのか?」
そう、疑ったほど。
「痛いです」
んな、バカな。
ゴホッ!
同時に、血が吐き出されると、エーヴリルはサファの背中を撫でて、「確かに……水涸れだ」と言いい、落胆して息を吐き出した。
「一体、何があった!!」
吐いてしまえば、しばらくは楽になるけど、間隔は徐々に短くなっている。後どれくらい繰り返さなければいけないのかを考えたら、恐怖、というより、憂鬱が勝っているだろう。
説明した方がいいのか。口を開きかけると、椅子に座って頭を抱えていたアシェルがポツリ、ポツリと話し始めたので、サファは耳を傾けることにする。
それは、ファクナスの討伐の時に、トラウギマギアを使った事。それと、その後の魂送りも成功したという事。そこまでは順調だったと。
「そこまで出来て、なぜ水涸れになるんだ?」
エーヴリルは腕を組み声のトーンを落とした。わたしが無理にやらされたことじゃない、という事が分かったみたいだ。
そう。あの時までは、感じたことのないワクワクした気持ちと、達成感みたいなものがあった。
だから。
わたしも、彼らも、少し気が抜けていたんじゃないかなと思う。彼らのことを言うなんて、そんな立場じゃないか。
目を細めた。そうだ、あの場所で例外だったわたしに、3人は確かに寄り添ってくれていた。そして、それをいいことに、勝手なことをして、暴走まで起こしてしまったのは。誰でもない、自分。
だから、苦しくても、誰かのせいになんてしたくない。
俯いたエリュシオンの姿が頭に浮かぶ。苦しさよりも、自分のせいで誰かが責められる心配が、チクッと痛みを生み眉を
見上げているはずの天井が、ぼんやりとして、やけに白くて雲の中にいるみたい。本当に、死んでしまうのだろうか。
それなら……甘んじて、受けよう。
誰にも告げずに、サファはそう心に決めていた。
「……適合者が居ないと助からないぞ」
静かに息を吐いたエーヴリルが、ぽふりとサファの頭を撫でて見おろす。彼女は微笑んでいながらも、適合者が誰か探しきれず、悲しい表情を浮かべている。そんな時だった。
重々しい空気の中で、慌ただしい足音が響き、それは大きくなって近づいた。
「サファ!」
扉を勢いよく開けたエミュリエールが、アシェル達に目もくれずベッドに駆け寄る。急いできたのか、息を切らし、髪も下ろしたままだ。
その様子が、見たこともないほど焦っているからおかしくて。サファは、フッと笑みを漏らした。
「水涸れ……なのか?」
もう、エミュリエール様もそんなこと言うんだから。
エミュリエールがエーヴリルを見ると彼女は頷いた。
「私もそう思ったが、間違いない。痛みに強いのだろうな」
「……なんてことだ」
「エミュリエール様」
そう言って伸ばした手は、もう痺れているけど、握り返してくれた彼の手の方が震えていた。
3人は、エーヴリルに言われ、部屋から出て行ったようだ。また、ジリジリと込み上げてきているから、伝えるなら今しかない。
タオルで口を押さえたまま、サファは、きょろりとエミュリエールを見あげ、一度瞬きをした。
「エミュリエール様……最後のお願いがあるんです」
「そんなこと言わないでくれ。なんだ? 何でも聞く」
最後の、だなんて。ホントにずるい。そんな事を言われたら、やさしい彼に、嫌と言わせないのも同然なのに。
エミュリエールの返事を聞いて、サファは吸った息を静かに出した。
「怒らないでください」
「それは……」
できない、と言いたいだろう、と後ろで聞いていたエーヴリルも思っていた。
「分かってるのか? 死ぬんだぞ」
そっか。やっぱり、死ぬんだ。せっかくもっと色んなことを知りたいと思ったのに。それは、少し残念かな。だけど、そうなら伝えなくちゃ。
サファは、内臓が焼ける痛みに奥歯をかみしめ、目をつり上げた。泣くなんて、今はしている場合じゃない。
「エミュリエール様は怒ると怖いですから! アシェル殿下達には、本当に良くしてもらっ……ゴホッ! ゴホッ!」
「喋らなくていい!!」
丸くした背中を、優しい手が摩ってくれる。見るに耐えないのか、顔に
「連れて帰る……寝かしてやってくれ」
「ちょっと待て!」
このまま昏睡させれば、『水渡し』は出来なくなる。
もう少しで探せそうなのに。それが、惜しくて堪らない。
エーヴリルはつま先をトントンと鳴らし、額に手を当てていた。
「もう、助からないのは分かった」
そうだと決めてしまった彼は、もうペガサスを召喚し、サファを抱えようとしている。決めたら行動の早いやつなのだ。どうにか止めなくては。エーヴリルは思わずエミュリエールを引っ張り、胸ぐらを掴んでいた。
「適合者がいたはずなんだ!」
「……どういう事だ?」
「この子の魔力の型は前に見た事がある。だが、見つからない!」
普段、綺麗に収められている診療録は、今は机に積み重ねられていた。エーヴリルが空になった棚を見ると、エミュリエールも同じようにそこを眺め、目を細める。
「……その棚じゃないんだろう?」
そしてポツリ、と当たり前のことを言った。
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