エピソード2・空の教室

「悲鳴をあげることないだろう。まるで僕がなにかしたみたいじゃないか」

「秋田先生……」

「悪さしてたのか?」

 秋田はちょっと教師にあるまじき問いかけをした。

 しかたない、この学校の生徒なのだから。

 ロボットが普及してきた昨今、人間のできることは限られてきた。

 秋田は、もうすでに過去に生きる大人だ。

 未来に生きる若者を理解できそうにない。

 桜子は、バツが悪そうに、手元の本を閉じた。

「べつに……本を読んでいただけです」

「こんなに、薄暗いところでか」

「灯りがありますから」

 桜子は頭上を指さす。

(確かに。それにしたって、おかしな時間帯だ)

「家で読んだらいいじゃないか」

「……」

 桜子は困ったように口をつぐんで、ああ、と声を漏らした。

「先生は知らないんだっけ」

 諦めたような、自嘲のような表情で、顔をそむける。学校で見る彼女とは別人のようだった。

「なにを知らないって? 僕が」

「いえ……つい、読みふけってしまっただけです」

「春とはいえ、季節の変わり目は、体調を崩しやすいから、早めに帰りなさい」

「……ヤダ」

「なんだって?」

「私はもうちょっと読み進めてから、帰ります」

 秋田は怪訝そうに見て、これは説教すべきかと思案した。

 逢魔が時。

 物騒この上ない。

 と、桜子の両手指に目立たないキズテープが大量に巻かれてあるのが見えた。

(ん? リンチの痕か?)

 秋田が一向に動く様子がないまま突っ立っていたので、桜子の方が立ち上がった。

「もういいです。帰ります」

 そうしろ、と秋田は彼女の姿を見送った。

(むずかしい年頃か……)


 次の日から、3-2は空っぽになった。

 ただ一人、教室に顔を出していた桜子の存在がない。秋田はいよいよ焦燥感にかられた。

 教室が空でも授業はせねばならない。

 モニター越しに、出席をとるも、はかばかしくない。

 過疎どころではない。無人の教室でそれは、やるせなかった。

 秋田は、死んだような気持で宿題を集めた。

 単位をとりたいだけの生徒が、かろうじて若干名、提出していた。

 その中に桜子のものもあった。

 しかし、数日の間に、その桜子のメールが届かなくなった。

 接点のない状況では、どこでなにをしているのか、わからない。

 秋田は、前回と前々回の授業の録画配信で時間を稼ぎ、教室を出た。

 桜子がいない。

 胸の喪失感が、再びぽっかりと口を開いた。

 もう二度と、失いたくなどないというのに。

 秋田はかつて、失った大切な人を思い出し、いてもたってもいられなかった。

 たぶん桜子は似ているのだ。纏った存在感のようなものが。

 気がつくとそばにいるのに、追いかけると遠ざかる。

 逃げ水のような、しんきろうのような、彼女。

 顔はそれほど似ていないが、成長して大人の顔になったらわからない。

(女は化粧などしたら、別人になるからな)

 念のために校内の端末に接続して調べたが、学校そのものに登校した履歴がない。

 秋田は靴を履き替えると校外へ出た。


 しょんぼりと公園の木陰に、同化するように桜子は立っていた。

 秋田は初め、何かを見まちがえたのかと思った。

 桜子は学校の制服を着ている。ならばなぜ、登校しなかったのだろう。

(今、問いただそう)

 詰問するつもりで、言葉を吟味しつつ、静かに近づいていった。

 桜子は今にも消えてしまいそうな蒼い顔をしている。

 不意に秋田の口から出た言葉は、考えていたこととまるで違っていた。

「どうか、したのか……」

 桜子が見たこともない表情をしていたからだ。

 桜子はくしゃっと顔をゆがめて、額を預けてくる。秋田は無実を訴えるように腕を広げた。

 彼女を受け止めきれない両腕が、宙で行き場を失っていた。

「先生、私……」

 くぐもった鼻声に、秋田はぱっと切り替えた。

「どうした、悩み事か」

 生徒のお悩み相談室は初めてだが、放っておくわけにもゆくまい。

「私、小っちゃくなって、小っちゃくなって、消えてしまいたい」

「……ん?」

 応じる言葉を持たないまま、秋田は頭の中で思考を巡らせた。かけるべき言葉は? しかし浮かばない。彼女の悩みは根が深そうだ。

 であるのに、なぜいきなり秋田にもたれかかったりするのだろう? わからなかった。

 問わず語りに桜子はポツポツと話してくれた。

 父親が病に伏していること、その父親の後妻と腹違いの妹が、桜子をこっぴどくいじめること。

「父が病気になったのは、私のせいだって、継母と妹が……家に帰ると、家事一切を押しつけられて、私だけ仲間外れ……」

 まるでペローのシンデレラのようだった。

(今時、そんな子がいるんだな)

「虐待とは思いません。家の中のことは誰かがやらなくちゃいけません。だけど、父さえ倒れなかったら、と思うと」

 桜子は沈んだ調子で繰り返した。虐待ではない、と。

(いや、それは立派な虐待なんだよ)

「私はどこへ行っても一人ぼっち。となりに誰がいようとも」

「ちょっと待て」

 秋田は思わず、彼女との間に両手で壁を作っていた。

 桜子の目線は、うつろにそれを見ている。

(僕が、僕だったら、こんなとき、なんて言ってもらいたかったか――)

 記憶の底の思い出をたぐる。誰一人として理解してくれなかった過去の道のり。

 彼の父親もまた病んでいた。正確には精神を。

 だが、誰に言えよう。おまえの父親は気がくるったワーカホリックだと、ののしられるのは目に見えている。

 父には、よく荒れては手ひどく扱われたのを、秋田は憶えていた。

(よしわかった!)

 彼女が孤独に悩むならば、これしかないと思った。

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