第4話 アカネ

 駅で弟と久し振りに待ち合わせた。

 ここ数年実家に帰って来ることなんてなかったのに、どういう訳か私に連絡を寄越して夕食をしようと言ってきた。

 断る理由もなくそのまま夕方を迎えて、作った事のない北海道の郷土料理石狩鍋を作ろうと材料を買わされた。

 そこまで普通だった。

 極々普通の日常生活って過ごしていたのに。

 太一のマンションに入った途端、それがおかしくなった。

 まず冷静な言葉で答えると、太一が殺された。

「う………、あ゛…」

 太一が呻き声を上げて、眼鏡を掛けた女性に包丁で滅多刺しにされた。

 女は仕事帰りのOLさんで、ダークグレーのスーツを太一の血液で汚した。

 私は騒ぎもせず、その修羅場を呆然と見た。

「嗚呼。女ァ……」

「ひっ…!」

 動かなくなった太一の次は当然私で、持っていたビニール袋と食材を放って玄関を飛び出した。

 赤い女は包丁を常に私に向けて走る。

私は走る。必死に。

 死に物狂いで。筋肉が断裂するまで、冷汗を掻いて、脂汗を掻いて。

 走る。走る。走る。

 走った。

 女は居なかった。あの恐怖の時間は終わったのだ。

 それを知った途端、私はその場でへたり込んだ。

 だって、あんなに命を掛けて駆けた事なんて一度もなかったんだもの。

 疲労が凄い。睡魔が私を襲う。

 太一が、警察に……伝えなければ………いけないのに。

 いけないのに。

 太一が。
















「———さん。————お姉さん」

「ん…………。————え?」

 気がついた時には私は眠ってしまっていた。しかも知らない民家で眠っていたらしい。

「あ………し。失礼しました!」

 すぐにその場から離れて町看板を探す。

 何処なのここ。

「…!ケーサツ」

 我に返って110番通報をする。コールガールの定型文に落ち着けと暗示をかける。

「あの。弟が、殺されました。犯人はスーツを着た女性です。眼鏡もかけていました。私も、追いかけ回されたので……場所は、マンション…いや、今私の居る場所は、分らないです。走っていて、何も思い出せません」

 数十分して、近くの番所から来た巡査が私は保護された。

保護された私は水と一食分のおにぎりを頂いてから、事情聴取を受けた。刑事さんは疑わしい目で私の話を聞いてくれた。

「成程……。分りました。我々はその犯人である女性を捜索致します。今回は自宅にお返ししますが、まだ貴女の疑いが晴れた訳ではありませんので、行動には気をつけてください」

「…はい」

 男の威圧感はいくつになっても怖い。だが殺意を握った女性の方が何よりも怖いというのを学んだので、少しぞくっとくる程度に感じる。

「……もしもし、母さん。アタシ、アカネ、うん。…………。あのね、昨日ね、太一が殺されたの。……うん。…………。それでアタシ、どうしたらいいかな。警察には私疑われてるし…、会社にはこれから連絡するんだけど…うん。うん、近いうちに帰って来るね。うんそれじゃあね。うんバイバイ」

 警察から出てすぐに母に連絡をした。

私の気持ちが少しでも軽くなるかもと思ったから。やっぱり、母親の声を聞いたら、少しは落ち着く。

「………太一。…、あ、立花さんおはようございます。はい、栗山です。本日は無断欠勤してしまい、誠に申し訳ございません————」

 上司からはこっぴどく怒られた。

 事件に遭ったと説明しても有給はないみたい。

「はぁ…………」

 午後から出社して会社に貢献する人間だってアピールは出来たけど、わざわざ会社に行く気になる程私は社畜ではないし。

 まだ、弟の唐突な死に耐えられない。

 太一が殺されて一日が経った今日。折角買った即席ラーメンも残してしまった。

 いつもはぺろりと食べて、アイスも食べて一睡出来るのに、出来なかった。お腹が空かない。

「当たり前…かなぁ」

 風呂にも入らずベッドに横になった。

 




 走る。走る。走る。

 後ろで包丁を持った女が走る。

 私を追いかけて走る。

 私は逃げる。

 赤い影、赤い人、赤い足跡、赤の全てから。

 赤い女は私の背中を追いかけて包丁を振り下ろす。

 私は逃げ切ることも避けることも出来ずに刺される。

 背中を刺される。

 それはとてもとてもとてもとても、とても、痛い。

 太一がそれを体験した。私の目の前で。

 女を見られながら。

 今度は私の番。

 私の番、私の番私の番私の番私の番私の私私私の私の番私の番。

 走る走走走走走走走る走るる、走る走る走る走る。

 赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤私赤赤の赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤走る赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤番赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤走走走走走赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤走走赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤私赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤———————————————————————

















「ああぁ!」

 目覚めの悪い夢を見た。また見た。

 何度目かの悪夢。

 私を責める太一の目、私を襲う女の手。

 もう、何もかも嫌になる。

「………会社に行かないと」

 気を引き締めないと。

 顔を洗って、歯を磨いて、笑顔を作って。

 今日も、会社に貢献するんだ。




「君の契約更新出来なくなったから、今月で栗山さんは会社来なくて良いですよ。弟さんの事もありますし、それが良いと思いましてね。それまでは、ここで働いてもらうんですけれどね。頑張って下さいね」

「…………はい」

 笑顔は、キチンと作れているだろうか。取り繕えているだろうか。

 この上司は噓吐きだ。私はあと三ヶ月までここで働いても良いと言っていた。先月言っていたのだ。正社員が大勢居るこの場で言ってくれたのだ。それなのに、どうして。

 どうして。どうして?



「栗山サーン」

 誰だろうかこの女性社員は。気が動転している。マズい、思い出せない。目の前の女性の顔が誰とも一致しない。名前も浮かばない。どうして。

 どうして。

「大変ですネー。おとーとさん殺されちゃって。オマケにブチョーの保身の為に切られたなんて。ホントーかわいそ」

 誰なのこの人。

 失礼な言葉をよく本人に言える。肝が据わっている人…?いや、見た目の華やかさから、この人の言葉はどれも軽かった。

 この人は、そう。他人のネガティブな出来事が好きな人だ。

 私は彼女の餌だ。

 どうして。どうして。どうして。

 どうして!!!

「被害者の栗山太一さんを殺害した女性、身元確認した所、間栗サヨリ、年齢三十代前半、銀行員である事が判明しました。そして、その間栗サヨリは貴女が通報した民家近くの神社の井戸で水死体で発見されました。それに関して、栗山さんは何か。隠していることはありませんか?」

 嗚呼、その目はもう怖くないわ。でも、どうしても怒りで声が出ない。

「………何もありません」

 絞り出したとて、この刑事さん達にとって、私は疑いの目で見られるのは当然なんでしょう。

「そうですか。ならば結構です。貴女はシロです」

「……え?」

「マンションの防犯カメラに間栗サヨリが合鍵を使って被害者の自宅に侵入するのを記録されています。勿論栗山さんが追いかけられたという記録も。そして、肝心の彼女からは栗山さんの指紋、血液、DNA検査に必要な証拠は一切付着しておりませんでしたので。今回の事件は犯人の自害で終わります。お疲れ様でした」

「待ってください……」

 どうして。

「事件は…これで収束するんですか…?あの女、あの女の罪はとても、許せないものなのに…!どうして!」

「死んでしまったからにはしょうがないでしょう。遺族を居ないようですし、それに」

 どうして。

「マスコミはお姉さんを犯人に仕立てあげたくてなりを潜めているので、ここで被害者として公表された方が、よろしいでしょう」

「…………え?」

「次の事件がありますので、それでは」

 どうして。

 私は、注目を浴びたい訳ではない。

 太一の罪を誰かに晴らしてほしいだけ。

 太一を殺した女に報復したいだけなの。

 どうして。こんなことになるの?

 嗚呼、上司はこれを予測して私をクビにしたんだ。

 眩しい。東京の光は、私には眩しすぎる。

 どうして……嗚呼、どうして。













 田舎の空気はとても美味しい。

 ゴミの臭いがしないし、ケバい香水をつけて歩く人もいないし、何より、眩しい光はない。全て自然だ。

「母さん、ごめんね。仕事はすぐに見つけるから、安心して」

「そ…お腹空いたよね。ミカンおコタにあるから、食べなさい」

「うん。…ありがとう」

 母は私の噂を聞いたのだろうか。父はニュースを見て私について何も話さないのだろうか。

「……」

 なんか、安心して帰って来たのに、こっちにも不安がやって来たみたい。

「ちょっと、外行って来る」

「そ。気をつけてね」

 台所の勝手口から抜ける自然界は昔のままである。

 私の身長は案外伸びていて、伸びきっていた背高草を難無く歩いて、山へ登った。

 懐かしい。ここの獣道は私と太一と良く行った道だ。

 父に危ないからと怒られながらも冒険したこの道の先には舗装された石段がある。その先には、かつて栄えた神社がある。

 懐かしいものにはすぐに惹かれてしまう。

 一段一段上がる石階段。

 寂びれた赤い鳥居。

「寂しくなったな」

 小さくなった神社。ここも私と太一の懐かしの場所。

 この神社の裏には、井戸がある。

 神様が眠る井戸なんて、言って触らないようにしていた古井戸。

 今見ると、誤って落ちたら子供でも助けられなかったっていう事と、大人に知らせるまでに、太一、もしくは私が死んでしまってるかもしれなかった。

 その神様の眠る古井戸に顔を覗かせる。

 真っ暗。水なんてないのではと思うが、水があるのか確かめたくなった。



 重りが私の背中にやってきた。

 なにこれ、え?私、え…?何が起きたの?何が起きたの?何が起こったの?一体何が?

 なに?

 落ちる、落ちてる、井戸の中、神様の井戸。

 どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。


 母さん!!!!!!!!!!!!!

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