加被害者

第3話 サヨリ

 三十二歳、生真面目に生きてきた結果が独身を貫いている。

 規則正しい起床、寝起きの始めに飲む一杯のミネラルウォーター、毎日同じサケのムニエルと豆腐とネギの味噌汁と白米。

 朝食を終えたらすぐに歯磨きをして顔を洗う。

 スーツに着替えてメイクをして姿鏡の前で無愛想なビジネススマイル。

 何ら変わらない日常。

 流石に私だって焦っている。

 月に一度連絡をとる母親からは必ず結婚の相談をされる。既に一人前の主婦となった友達からのランチの誘いも日に日に劣等感に苛まれる。

 勤勉な私でも、誰かと恋をしたいと思っている。

 恋がしたい。

 こんな三十路ではあるが、若い頃に燃やす筈だった熱いものを。

 解き放ちたいの。









「あのー、間栗(かんぐり)さん」

「何でしょうか」

 可愛らしい後輩が緊張した声色で私に声をかけてきた。

 いつもは和らいだ状態で質問や世間話をする娘なのに、どうしてまた。

「今晩の予定って、空いていたりしないでしょうか………?」

 珍しい質問である。彼女は私のプライベートを尋ねてくるような娘(こ)ではないのに。

「………」

 彼女の真意を探っている沈黙に勇気を奮ってまた娘は口を開く。

「あの。今夜、合コンをするのですが、女性側の人数が、少し、足りなくてですね……それで、その………」

 彼女の言葉にやっと理解する。

 成程、私は人数合わせとして誘っているのか。

 よくよく目を凝らせば彼女の背後で両拳を握って鼓舞している子と、了承してほしいと祈る年の若い新人社員が物陰から窺っていた。

「良いですよ」

「あぁぁ!すみませんっ!……………え?」

 了承したのに、彼女は思考の中にあるネガティブなものを現実と錯覚したようだ。だが、すぐに彼女はゆっくりと頭を上げて私の顔を見る。

「あ、い、良いんですか?」

「はい。偶には、そういう事にも挑戦するべきかと思ったので」

「わ、ぁ、ありがとうございますっ」

 彼女は歓喜のお辞儀をする。その様子を見て後ろの合コン参加者であろう二人もガッツポーズをして、喜ばしそうに跳ねる。

「場所はもう決めてあるんですか?」

 物忘れはしない方だが、こういうイベント情報はキチンと記録をしないと私の気が済まない。

「はいっイタリアン料理のお店なんです。一人三千円なんですけど、大丈夫そうですか?」

「大丈夫ですよ。何時から開始ですか?」

「十九時開始予定です。なので、今日は早めに終わらせようと考えています」

「営業終了時間から考えて余裕だと思いますよ。不安ですか?」

 そう言うと彼女はモジモジしながら答えた。

「いや、だって、お色直し…したいじゃないですか」

 大分緊張感が解けたいつも通りの後輩に少しの安堵を覚える。

「四時間の間に美容室へ行っておめかしするんですか?気合十分ですね」

「い、一応、私おムコさん探しで参加しているんですっこれは作戦なんですよ!間栗(かんぐり)さん」

 おムコさん探し。作戦。三十路になって二年が経過した今、若い後輩から結婚の近道を聞けて、私は幸せ者ね。






「良いですか?間栗さん、これは戦争なんです!女性は皆恋敵なんです!間栗さんも同等ですからね!」

 この合コンにそれ程の熱を費やすのならば、日々の業務にも配分してほしいところはあるが、それを言っては彼女の戦意が半減してしまいそうだ。

「私はただの人数合わせなんですから、透明人間だと思って気にしないでください」

「えぇ!?そんなこと言われたら、私、恥かいた時助けてくれる人が居なくなるじゃないですか!」

 彼女は本気で私を透明人間になるとでも思っているのだろうか。

 焦った顔をして、味方でいてくださいと縋る。

「間栗さぁん、ワタクシ雪ノ下ユキは一生間栗さんの下っ端として働きますからぁ!フォローしてくださいぃぃ……」

「わかりましたよ」

 合コン会場前で、ようやく彼女と一緒に入店する。

 営業を終えて残業しちゃうと嘆いた彼女の仕事を手伝い、点々と戦闘服と装備を仕込まれたので、もう私は疲れている。

「ごめんなさいぃ。これで揃いましたよっ!」

 若造ばかり、小娘三人の中に一人だけ異色の私。

 合コンなんて、来るものではなかったかもしれない。

 ……………はぁ、帰りたい。



「ネェ間栗(かんぐり)さん」

「何でしょうか」

 合コンの空気が温まってきた二十時半に、運命が降りてきた。

 若造の中に紛れていたらしい均整のとれた色男。

 緑色の瞳に吸い込まれる。長く伸びた茶髪の前髪が揺れる。

「失礼な事聞くけど良い?」

「………構いません」

「本当に三十歳?」

 砕けた口調から紡がれる優しいカシスオレンジみたいな声。

 爽やかで、弾けたハリのある素敵な声。

「…はい。そうですが」

「嘘だぁ、だって俺姉貴が居るんですけどね、そんな綺麗じゃないスよ」

「いやー、綺麗だ」

「間栗(かんぐり)さん本当にキレイ。ヤバい」

 私は血迷っているのか、それともこれが奇跡なのか。

 この年下の男に落ちている。

 私の結婚相手の条件は収入の安定した年上の男性。ダンディで、エキゾチックな愛情を与えてくれる男(おのこ)だったのに。

 こんな、雪ノ下がいう爽やかイケメンの若造に魅了されているだなんて。私、そんなに結婚を焦っていただろうか。

「ネエ間栗さん、もう一つ失礼な質問していい?」

「構いません」

「料理してるでしょ?得意料理教えてよ」

 断言出来るこの男の洞察力に、その異色の目にゾクゾクする。

「魚…です」

「ヘェ俺ムニエル好きなんだ。シャケの」

「……私の好物です」

「嘘でしょ?これってもう奇跡じゃん。間栗さん」

 もう、彼のテンプレートな会話に予想がついた。

「失礼な質問ですか?どうぞ」

「エスパー?!間栗さんスゴイよ」

「で、その失礼な質問なんだけど、連絡先交換しませんか?」

 彼の失礼な質問は私を高揚させてくれる。

「構いません」

「やった!アリガト。QRで良いスか?」

「どうぞ」

 携帯端末を取り出すと、彼はアッと呟く。

「俺とおソロッスね。間栗さん本当にスゴイや」

 凄いのは、貴方のほうですよ。

「お名前、もう一度教えてもらえませんか?すみません、ど忘れしてしまって…」

「いいよ。俺栗山(くりやま)太一(たいち)」

「よろしくお願いします。栗山さん」


 人生の絶頂期を私は三十二歳にして体験している。人生の絶頂期は二十歳だと私はずっと思っていた。綺麗な振袖に腕を通した成人式の日。

 そんなつまらない華やかな思い出がソレだと思った。

 でも神様はつまらない人生を生きた私に祝福をくれた。

 そうなの。

 コップ一杯のミネラルウォーターがこんなにも美味しいなんて感じた事ある?

 鼻歌交じりに朝食を作った事ある?

 カラフルなお弁当箱を白いテーブルに並べた事ある?

 いつもは食べない食材を焼いて、煮て、炙って、蒸して、揚げた事ある?

 私は無いの。

 今日が初めてなの。

 こんなに幸せな朝を迎えた事なんて一度だって無いの。

 太一君が私を変えてくれたの。

 こんなオバさん同然の私を綺麗と褒めたの。

 私の出会いを奇跡と謳ってくれたの。

 それだけなの。

 それだけで私は彼に落ちたの。深い所まで落ちて逝きたいと強く願っているの。

 人生って何があるか分らないわね。

 母さん、もう少ししたら、私のフィアンセが出来るよ。




「間栗(かんぐり)さん、最近ニコニコしてますねー、おムコさんみつかったんですか?」

 この可愛い後輩は今では私と太一君を引き合わせてくれたキューピッド。どんなにお礼をしてもし足りない程に。

「今日のランチ、一緒にどう?」

「もぅ!また答えてくれない!そうやって私を太らせようとするんですから間栗さん!」

 最近お昼に誘うのを理由に彼女は少し頬がふっくらしてきた。彼女は膨らんだ頬が気に食わないのかぷりぷりするが、逆に今の方が、愛嬌があって私は好ましい。それに、彼女はそう簡単に私の誘いを断ったりはしない事を私は知っている。

「でもケーキは好きなんでしょ?」

 彼女は甘党だから、ケーキ屋、ケーキバイキング、カフェのデザートに目がない。だから、彼女は大きな声で好きですと言う筈。

「好きです!」

 ほらこの通り。

「決まりね」

「一生ついていきます♪今日は、トロトロフォンダンショコラのお店にしてください♪」

「フォンダンショコラ?なにそれ」

「美味しいですよー?まだ食べた事ないんですけど、中がトロトロチョコレートなんですっしっとりケーキ生地も、雑誌や写真で見る度涎が出そうになるんです…♡」

「そう。なら楽しみにしててね」

「はい!」

 私も、無限大の楽しみがあるのだ。

 それは彼女よりも大きくて深くて、愛しいもの。

 嗚呼、楽しみね。今日は、彼と何を食べようかしら。









「いらっしゃいサヨリさん」

「お邪魔します」

 若いのに新築マンションに住んでいる太一君は私の自慢の人。

 私の恋人。

「今日はサンマの味噌煮でいいかな?」

「うん、俺サヨリさんの魚料理大大大ッ好き。肉も好きだけどやっぱり魚が一番美味い!」

「ふふっ、ありがとう太一君」

 私は幸せね。こんなに、外見も中身も綺麗な男の人と愛を育めて。

「あ。ゴメンサヨリさん来週はウチに来ないでほしいんだ」

「……え?」

 幸せな時間に急なブレーキ。

 どうしてなの?

「どうして…?」

「うーーーーーーーーーん。ゴメン言えない」

「今日のサンマ高かったんじゃない?いつもアリガト美味しいご飯を毎週いただいて、おまけに毎日お弁当くれて。もう、幸せ眼福だよ」

 話を逸らされた。

 何故?

 急な不信感が私を襲う。

 お付き合いして三ヶ月にして、唐突な危機感。

「太一君…?」

「あ、今日は日曜日じゃんね。泊まってよ、そしてしようよ。ネエ」

「…………………………………………………………新しくないから駄目」

「間が長かったね。それでもいいよ、あ、じゃあ今日はスケスケガラスのお風呂でエッチしようよ」

「……そういう問題でもないんだけれど」

 不信感が強くなる。

「イイよ。特別だから」







 不安が募る。

 不安の泉がずっとずっと下腹部で湧いている。

「来週……」

 来週に悲劇が起きる。

 私は、ただそれをいつもの様に待つばかりでいいのだろうか。

 嗚呼、でも怖い。

 万が一、万が一。太一君が私以外に見せる顔を目撃したら。

 私は、きっと壊れる。

 三十路の恋路を邪魔した女を恨み、それに誑かされた太一君を最悪軽蔑してしまうかもしれない。

 私は、それが怖い。

 怖くて仕方がない。

「今日は一緒にランチに行けそうにないわ」

「えぇ!?私、今日ケーキ食べる気満々で、ダイエットしていたのに!」

「今の方が可愛いよ」

「んぐぅ……でもボンキュッボンって体系を手に入れたいんです!」

「頑張って」

「………今日は、元気ない感じですか?」

 いつも通り会話しているつもりだったのに。分かってしまった?

「もしかして、おムコさんとケンカですか?」

「……秘密」

「んもぅ!…ん?おムコさん見つけたんですか?」

「秘密」

「え、教えてくださいよ間栗(かんぐり)さん」









 来週、今週、今日。

 今日になってしまった。

 私も知りたがりね。

 太一君が、騙されています様に。

 どうか神様、私に少しだけの不幸をください。







「…………」

 ミネラルウォーターの変わらない味、気分を変えて食べる挽肉料理。

 私別人みたい。

 少し、ドキドキする。

 太一君、太一君。

 太一君。

 太一君。駅に居た。

 女と二人きり。女、女が隣に居る。

 若い女。

 太一君、どうして。

 嗚呼、どうしてやろうか。

 太一君の笑顔があの時と重なる。

 あの女と私は同じなの?いいえ、私は下なのね。

 許せない。許さない。

 どちらも恨めしい。

 許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。

 私の恋路を邪魔した女も、私を誑かした男も。

 私の幸せを奪って。

 許さない。







「嗚呼。女ァ……」

「ひっ…!」

 あの女よりも太一君が許せない。でも、見られたから仕方がない。

 この女も殺そう。

 女。泥棒猫。

 八つ裂きよ。

 それなのに、私ったら体力がないわね。

 すぐに見失った。眼鏡は暗い視界では輝きはしないし。

「当然よね」

 このままじゃ私犯罪者ね。

 母さんにフィアンセを紹介したかったのに。

「あーあ。…あ」

 こういう時の携帯端末って便利よね。検索が出来て。

 近くに井戸のある神社もある。

 別にいいか。

 もうこれ以上不幸になる事なんてないだろうし。

 これで良いの。私の人生はこんなので。

 嗚呼、楽しかった。悔しかった。惨めだった。幸せだった。嬉しかった。辛かった。

 でも、殺人なんて経験出来れば、後世は聖人君子ね。

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