梅雨と紫陽花と人見知りなわたし

 ――六月。梅雨の候、雨中に映える花。紫陽花は、それを植える土壌の性質によってつける花の色が変わることから、「移り気」「無常」「浮気」と不名誉な花言葉を付けられている。でも、雨上がり。虹が出た空の下、大地を彩るこの花は。花びらから滴る水も相まって、地球上の、どんな宝石よりも美しい輝きを魅せるのだ。



 梅雨の時期は空気中の湿気が多く、髪はベタつきをまた蒸し暑いこともあって、多くの人に忌み嫌われる時節である。それでも。わたし――三河心春は、そんな梅雨が好きだった。

 小さい頃は沖縄に住んでいて、梅雨という言葉は知っていても実際に経験したことはなかった。でも、小学五年生のときに東京に引っ越して来てからは、この季節が大好きだ。

 そういうと、いつも訝しげな顔で「なんで?」と聞かれる。まあ、毎日雨が降っていると洗濯物は干せないし、外出すれば服は濡れるしでいいことなんてないように思えるから不思議がるのも無理はない。

 じゃあ、なんでわたしはそんな季節が好きなのかっていうと。ただ単に、「人見知りだから」という結論に落ち着く。

 なんで、「人見知りだから」と「梅雨が好き」がつながるかって?それは簡単。雨が降っていると、散歩やジョギング、家の外で作業をする人は少なくなる。だから、学校の行き帰りの時に家の周りでご近所さんに会うことがいつもより減るのだ。わたしの家は一戸建てだけど、周りにもたくさんの家がある大規模な住宅街にあるから、普段は庭で庭仕事をしているお隣さんや子供と公園に出かけようとしているご近所さんたちに会ってしまうことも結構ある。そういう時に挨拶されてもとっさには返せない性格だから、自己嫌悪に陥ってしまうこともしばしば。だけど雨の日はガーデニングも、公園で遊ぶこともできないからほとんど誰にも会わなくて済み、とても気が楽なのだ。

 そのことをこの間沖縄の友達に電話で話したら、「その性格、どうにかしたほうがいいよー」とケタケタ笑いながら言われたので、もうこれ以上この理由を誰かに話す気はないのだけれど。

 まあ、そんなことはどうでもいい。わたしは人見知りで、特に用がない限り、休日に外へ出ることは滅多になかった。そして、今年は梅雨が長い。六月に入る前――五月の終盤から、今(今は六月終盤)に至るまで、毎日雨が降り続けている。

 つまり、何が言いたいのかというと…。

 この、長い一か月に渡る用の期間。わたしは、新たな休日の過ごし方を見っけてしまったのである。



 はじまりは、約一か月前。梅雨に入ってから、五日ほど経った日のことだった。

 その日は日曜日で学校は休みだった。授業で出された宿題をこなそうとファイルからプリントを取り出す。それは理科の宿題で、『身近な植物を観察して、その花のつくりを描きとろう』というものだった。

 うん、そういえば、この間花のつくりの授業をやった気がする。がくやらめしべやらおしべやら、いろいろなものがあったはずだ。

 授業の内容を思い出しつつ、窓の外を見る。空は灰色の分厚い雲に覆われ、雨はしとしとと降り続けている。

 止む気配は、無い。

 改めてプリントに目を戻す。右上に印刷されている提出〆切の日付は…明日。思わず外と手元を見比べた。この雨の中観察しに行けと、と?生憎我が家の庭に花は一切植えられていない。ということは、近くの公園まで行って、花を摘んで来なければならないのか。はあっと息をついて、重い腰を上げた。わざわざ出けるのはめんどうだけれど、宿題をサボって成績を落とすのもいただけない。濡れないようにプリントをチャック付きのファイルにしまい、それとシャープペンシルを持って部屋を出る。ちょっとそこまで出るくらいなら、わざわざ着替えなくても大丈夫だろう。急な訪問があっても良いように、一応人前に出られる程度にはコーディネートしてあるのだし。一階に降りて、クローゼットを開け上着を取り出す。そんなに寒くもないだろうし、パーカーを羽織る程度で大丈夫だろう。玄関で靴を履き、銃を手に取って家の中へ声を掛けた。


「ちょっとそこまで行ってくるね」


 パタパタをフローリングにスリッパを鳴らしながらお母さんが出てくる。


「あら、心春が休みの日に出掛けるなんて珍しいわね。車には気を付けなさいよ」


「はーい、わかってる」


 外へ出ると、頭のうしろでカチャリと鍵が閉まった。溜め息をつき、傘を広げる。わたしの親は基本放任主義だから、一々説明しなくていいのがありがたい。もし事細かに聞いてくるタイプの人だったら、もっとめんどうな気持ちになっていただろう。と言っても今もそんな気持ちでいっぱいなのだが。


「さっさと済ませて、帰ろ…」


 最寄りの公園への道をひたすら歩く。念のため、と持って来たプリントが非常に邪魔だ。しょうがないかとあきらめて、肩をすくめる。傘に打ち付ける雨音だけが、わたしの心をなぐさめてくれた。

 無機質なアスファルトばかりを映していたわたしの目に、ふいに鮮やかな青が入ってきた。知らぬ間にうつむいていた顔を上げると、あふれんばかりのアジサイが庭一面を埋めつくしている。この家の主が育てているのだろうか。雨の雫がその花びらに垂れ、滑り落ち、非常に幻想的な雰囲気をかもし出している。ふと、一つの考えが頭をよぎった。わざわざ公園まで行かなくても、ここの花を摘んでしまえばいいじゃないか。いやでも他人様の花だし…。大丈夫、こんなにあるんだからバレやしないって。心の中の天使と悪魔のせめぎ合いをぼうっと聞いていると急に声をかけられた。


「それにするなら気を付けろよ」


 ビクッと肩が跳ねる。おそるおそる振り返ると、そこに居たのは一人の男子。


「み、宮崎くん!?」


 わたしと同じ私立中学に通う、クラスメートだった。


「おう。三河が持ってるそれ、理科の宿題だろ?そのアジサイを摘んでもいいけど、気を付けろよ」


 びっくりして目を見開いているわたしに分けられた言葉に思わず突っ込みを入れたくなってしまったけれど、まずは一つ。今の言葉から察するに、まさか…。


「まさか、ここって宮崎くんの家なの?」


「?ああ、そうだけど」


 なんと、同じ中学のクラスメートはご近所さんだったようだ。


「っていうか、知らなかったのか?小学校、一緒だったろ?」


「えっ、嘘!?」


 それは初耳だ。


「あ、そうか、お前転校生だったもんな。同じクラスになったことはなかったし、覚えてなくても当然か。オレはほら、小五のとき、学年集会で紹介されてたろ?それで覚えてたんだ」


 なるほど、恥ずかしさしかなかったあの学年集会にも一応意味はあったのか。ふーんとあいづちを打ちつつ、自分が普通に話せていることに気が付く。宮崎くんとはほぼ初めて話すはずなのに。驚きで人見知りがふっ飛んでしまったんだろうなと苦笑を漏らした。


「そういえば、『気を付けろよ』ってどういうこと?」


 小首をかしげて、疑問を投げかける。アジサイには特にかも毒もなかったはずなのだが…。


「ああ、宿題のことだよ。アジサイの花びらに見える部分が花弁なんじゃなくてがくなんだ。花弁はがくの真ん中にあるやつなんだとよ」


 ま、これ全部じーちゃんの受け売りなんだけどな、とニッと笑いかけられわたしもほほ笑み返す。


「じゃ、また明日、な。花は摘んで帰っていいから、かぜ引くなよ」


 そう言って家に入っていく彼を見送りながら、そっと一輪、アジサイの花をちぎり取った。



 それからというもの、わたしは毎週、日曜日に散歩に出かけるようになった。ルートはいつも家から最寄りの公園まで。途中宮崎くんに会うこともしょっちゅうで、三週目から彼は雨合羽を着せた犬を連れるようになっていた。


「こいつ連れて散歩するのがくせになっちまってな。あの日も、落ち着かなくっていつものコースを歩いてたんだ」


 心なしか恥ずかしそうな彼にわたしはクスクスと笑いをこぼす。

 雲間から太陽がのぞき、虹が雲の切れ目を彩る。紫陽花の花についた水滴が、キラキラと光を反射する。私の人見知りは、どうやら梅雨の雨と共に、どこかへ流れ去ってしまったようだった。

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