季節はずれと日常の小さな出来事をまとめました。
氷室緑
雨の日の幸福
大雨がやんだ直後の、あるくもりの日のことだった。
当時まだ子どもであった私は独り路傍にたたずみ、道行く人々をただぼおっとながめていた。生みの親から引き離され、兄弟とも別れることになった私には行くあてもなかったのだ。寒さにふるえる私を気にかけてくれる人はだれもおらず、ただそっとこちらに目を走らせては気まずそうに視線をそらされるばかりだった。
時が過ぎて陽は沈み、再び雨が降り出して体から水滴が滴り始める。アスファルトの地面に次第に形成されていく水たまりをぼんやりとしながら、ただひたすらに見つめていた。
そんな時、街灯のわずかなあかりに照らされていた私にふっと影がさした。見上げると、そこにはひとりの少女が、自分がぬれるのもいとわずに私に傘をかたむけてくれていた。持っているスクールバックと制服から察するに、中学生だろうか。その名も知らぬ少女は何もいわずにそっと私を抱え上げた。突然のことだったが、なぜか敵対心も湧いてこない。そうして私は彼女に抱えられたまま、その場をあとにした。
どこへ連れていかれるのだろうかと思っていると、ふいに少女の足が止まった。彼女は私を抱えていないほうの手でやりにくそうに傘をたたみ、ドアの横にたてかけた。そして肩に持っていたスクールバックの中から銀色に光る鍵をとり出して鍵穴にさし込む。そう、私が連れてこられたのは彼女の家だったのだ。
「ただいまー」
家の中に向かって発されたその言葉が私がはじめて聞いた彼女の声だった。透き通った女性特有のソプラノボイス。何の変哲もないように思えるそれに、私は一瞬にして心を射抜かれてしまっていた。
私がぼーっと聞き惚れている間に、少女は靴を脱ぎフローリングに上がっていた。あわててそれにならおうとして躊躇する。なにせ、私の体は泥や雨水にまみれ、とてもそのまま家の中に上がれる状態ではないのだ。どうしようかとためらっていると、先ほど私をここまで連れてきてくれたように少女が再び私を抱え上げてくれた。
ほっとしたのも束の間、自分の体が彼女に密着しているのに気づいて慌てる。このままでは彼女の服が汚れてしまう。このままではいけないと身をよじって逃げ出そうとするが少女もなかなか力が強く、子どもの私ではとうていけることはかなわなかった。あきらめて身体の力を抜き、彼女に身をゆだねる。と、そうしても揺られている問におかしなことに気が付いてしまった。さっき彼女が言った「ただいま」に返事をする者がいなかったのだ。両親、家族はどうしたのだろうか。もしや、共働きというものなのか?考えている間に少女が止まり、ひとつのドアを開けた。部屋の中をのぞくとそこには洗面台、シャワーヘッドに、湯船がある。水の気配に本能的にあとずさろうとした。
――が、空中に抱えられている身ではそれもできず、器用にもで服を脱いだ少女と一緒にお風呂に入ることにしてなってしまったのだった。
*****
猫を拾った。
雨の帰り道、月一回の委員会活動でくたくたになりながら歩いているときのことだった。
家まであと十五分ほどといったところで、視界の端になにか違和感があったのだ。振り向くと、そこには段ボール箱に入れられ、毛なみが雨水で乱されたまだ幼い子猫の姿があった。
今も雨に打ちつけられふるえる様子はとても寒そうで、思わず傘をかたむけていた。猫の代わりに自分がぬれてしまったが、なぜか気にならない。気が付くと私は猫を抱え上げ、ふたたび歩き出していた。
家に着き、靴を脱ぐために猫をいったん床におろした。フローリングに上がっていつものように家の中に向かって声をかける。
「ただいまー」
返事はない。あるわけがなかった。私が幼いころに両親は死に、叔父夫婦に引き取られはしたものの彼らは両親の遺産をとれるだけとって私のことは完全に放置しているのだ。遺されたこの家に私は一人で住み、生活費や学費は毎月私の口座に振り込まれている。そのことにはとうの。昔に慣れ、もはや感傷もわかなくなってしまっていた。
視界の端に小さな影が動いた。猫だ。足を段差にかけてはためらうようにおろすというなんとも不思議な動作をくり返している。何をしているのだろうと首をかしげるがわからない。まあいいかと考えるのを放棄して猫を再び抱え上げた。
家まで連れて来たときとは違ってあばれる猫をおさえつつ風呂場に向かう。雨でぬれて冷えた体をあたためたいし、まずはこの猫をきれいにしたいのだ。むかしペットで犬を飼っていたことがあるのでブラシやペット用のシャンプーはそろっている。唯一の心配が猫は水が嫌いなのではないかということだったが、すでに雨でずぶぬれなのだから今更だろう。そんなことを考えつつ、片手で服を脱いでバスルームに入った。
しっかりあたたまってから湯船から上がり、部屋着に着替えてタオルを首にまく。一階のキッチンにおりて夕食の支度をしつつ足元に寄ってくる猫を観察した。黒の毛並みに足先だけくつ下をはいたように白くなっている。瞳の色はきれいな蒼。なぜあんなところに棄てられていたのだろうと思うほどに美しい猫だった。
そんなことをしている間に夕食を終え、ソファで猫とたわむれはじめた。ちなみに猫のごはんは家にあったベビー用ミルクをうすめたものである。人間用のそれを猫に飲ませて大丈夫だろうかという懸念は一瞬ではらされた。
ひざの上に猫を抱き上げ、その毛に手をすべらせる。フワフワとしていてとても気持ちが良い。
「私の名前は小金井美里。あなたはなんて名前なの?」
何となく話かけてみると、ゴロゴロと甘えたような声の返事がある。
「ふーん、まだないのかー。じゃあ私がつけてあげる。レイン、とかどう?」
雨の日に見っけたからレイン。もう一ひねりあってもいい気がする。何がいいだろうか。
――あ。
「マタル、とか」
雨の日の幸福、という意味を持つ言葉だ。文学好きの友人が言っていたのだから間違いないだろう。いや、でも猫の名前としてどうなのだろうか。考え直そうかと思うと、猫が前足で私のお腹をポンッとたたいた。
「え?もしかして、マタルがいいの?」
ポンッと一回。
「いやでも、なんか変じゃないかな…」
抗議するようにポンポンポンッと連打される。
「わかったわかった。じゃ、よろしくねマタル!」
本人?というか本猫がお望みならそれでいいだろう。明日は土曜日だし動物病院に行かなきゃねーというとポンポンポンポンッと四回たたかれる。嫌じゃないっ、ポンポン。そんなくだらないことをしているうちに夜は更けていった。猫の名前はマタル。本当に幸福を得たのはどっちだろうか。家族がいる感じって悪くないなと、ガラス窓に打ちつける雨音の中、そう思った。
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