もうひとつの恋物語
いつものように授業後生物準備室に直行する竜平を見送った栗山は、竜平に向かってあげた手をそのまま隣に立つ岡田の肩に乗せた。
「俺らも帰るか」
「だね」
二人とも、学校の方針で部活動に所属はしているものの、ほとんど顔を出した事がない幽霊部員であり、授業後の予定は特にない。
付き合うようになってからは一緒に帰って、途中で寄り道をして遊んだり、というのがほぼ日課となっている。
とは言っても、家まで徒歩約15分の岡田と、最寄りの駅から電車通学の栗山とでは、岡田が駅前まで回り道をしてそこらで遊んでいくぐらいしかないのだが。
まるで、初めて付き合った中学生のデートのようだと、栗山は情けなくなる。
女性とならば今まで遊んだのも数知れず、同世代の男より経験は豊富な方だと自負している。
が、岡田を相手にするようになってから、なぜか恋愛初心者のようになってしまう自分が歯がゆかった。
相手が男というだけで、こんなにも、どうしたらいいのかわからなくなるとは思わなかった。
男だから、ではなく、岡田だから、なのかもしれないが。
当の岡田はいつもと変わらずニコニコと、この関係を楽しんでいるようだ。
些細な事にも動揺しまくっている栗山と違って、どこか余裕があるようにも見え、案外岡田の方が男らしいのではないかと思わされる。
「今日はどうする?」
下駄箱で靴を履き替えながら、岡田はいつもの調子でのんびりと言う。
正直、行く所も尽きてきたなあと思う今日この頃。
何か他に、もっと深く付き合える事がないだろうかと思案する日々だ。
悩みつつ、栗山は自分の靴に手を伸ばす。
「あ?」
しかし、手に触れるものが何もない。
当然そこにあるべきはずの、栗山のスニーカーが、そこには存在していない。
「どうしたの?」
「靴がない」
「誰か間違えた?」
「いや、俺のサイズ、需要ないだろう」
栗山は、180を超す身長に比例して、足のサイズも人一倍大きい。
間違えて履いたならば、まず気付かないことはあり得ないだろう。
見た所、同じようなサイズを使用しているクラスメイトは、今隣にいる岡田ぐらいしかいない。
「じゃあ、どうして?」
「知らねー」
質の悪い、子供じみた嫌がらせか。
「何か、した?」
「あー…」
思い当たる節は、あり過ぎて思い付かない。
基本的に、敵は多いタイプだと思う。
明らかに悪そうなこの見てくれに、傍若無人な態度。自ら喧嘩を売って歩く事は滅多にないけれど、売られた喧嘩はきっちり買うタイプだし、今はしていないけれどつい最近まで派手に女遊びもしていた。
悪く思う人の方が明らかに多いだろう。
「したかもしれないな。けど、こんなちんけな悪戯して返すような小さい奴は記憶に残らないよなあ」
「うわ、思い当たる事たくさんあるんだ」
本当は驚いてなどいないだろうに、岡田は大袈裟に驚いてみせた。
「しゃーねーな、このまま帰るか」
学校指定の趣味の悪い緑色のスリッパを見つめてため息をつく。
せめてもう少しマシなデザインと色にして欲しかった。
これで電車に乗るかと思うと、かなり気が滅入る。
「栗山君、靴のサイズいくつ?」
「28.5だけど?」
「28でよければ僕の履いていきなよ。僕は近くだからスリッパでもいいし」
「いや、いいよ」
5ミリの違いなんて大した事はないし、岡田の靴でも履けるだろうが、それはさすがに申し訳ない。
自分の素行の悪さが招いたトラブルに、岡田を巻き込みたくはなかった。
こんな悪戯を仕掛けるぐらいだから、その辺で栗山が困る様子を見ているかも知れない。
そうすると、あっさりと助けてしまった岡田に今度はその刃が向かないとも限らない。
そんな面倒な事にだけはしたくなかった。
それに、こんなダサスリッパで岡田が歩いていたら、それこそ虐められてますと宣伝して歩いているようで、気分が悪い。
栗山みたいないいかげんな男が履くのとはわけが違う。
「じゃあ、僕ん家おいでよ。靴貸してあげるから。それならいいでしょ?」
「え…あ、まあ、そりゃ、ありがたいけど」
学校から歩いていける近さなのに、岡田の家にはまだ行った事がない。
なんとなく、行ってもいいかと聞けずに今日までいた。
「いいのか?」
「いいよ。ついでに今日は、うちでゆっくりしようよ」
どんな真意で誘っているのかと、少し深読みしてしまう。
相手が女性の場合、付き合っている相手を家に連れていくという事はどういうことなのか、察する所もあるのだけれど。
目の前の相手は男で、そして靴を貸すという大義名分もあって、更にいつもと同じ和やかな表情で。
よくわからない。
無表情ではないけれど、ポーカーフェイスなのだ、岡田は。
どんな時でもたいがいニコニコしていて、心の中がわからない。
本当に心穏やかなのか、それとも笑顔の裏に様々なものが隠れているのか。
未だに栗山には、はかりきれていない。
けれど、岡田の真意はどうであれ、それは栗山にとっては願ってもない嬉しい申し出である。
そうして栗山は、スリッパのまま約15分の道のりを、岡田と肩を並べて歩いた。
面倒でみっともない事はしたくない栗山と、真面目なわりには大雑把な岡田。
なくなった靴を探し出そうという考えは、毛頭ない二人である。
しばらく歩くと、絵に書いたような、一軒家の立ち並ぶ住宅街が広がっていた。
駅方面とは違うため、栗山がこの辺りへ来るのは初めてのことだった。
閑静で良い所だ。立派な豪邸率が多いので、金持ちの多いところなのかもしれない。
もしかして、岡田もお坊っちゃんだったりするのだろうかと思ったが、あそこだよと岡田が指差した先に見えた家は普通サイズで少し安心した。
「あっれ~?」
岡田が指差した一軒手前の家の庭から声がしたかと思うと、低い塀の向こうから男の顔が覗いた。パーマのかかった髪は黄色に近いぐらいの軽い色に染められており、綺麗に整えた眉に、耳にはピアス。こんな落ち着いた住宅街にはまるでそぐわない青年だった。
もっとも、見た目の派手さに関しては、栗山も似たようなものであるのだが。
「めっずらしいねえ、ノリくんが友達連れてくるなんて」
多分、年は栗山たちよりだいぶ上だろうと思われるのに、同年代みたいな軽いノリで手を振ってくる。
キリッとしていれば男前だろうに、へらへらした表情がずいぶんマイナス点を加算している。
「へえ、ノリくんもとうとう……そっか~」
むふふと嫌らしく笑うその男に、少しムカッとする。
なんなんだ、この男は。
隣人なのだから当たり前なのかもしれないが、岡田に対しての馴れ馴れしい態度が癪に触る。
無意識のうちに睨み付けてしまっていたが、男は特に怯む様子もなく、栗山を値踏みするように見ていた。
「コウちゃん、余計な事言わないの」
どちらが年上だかわからない落ちついた調子で岡田は男を諌め、何事もなかったように家の鍵をあける。
「栗山君、気にしないで、入って」
「あ、ああ」
気にはなったが、人の家の隣人をどうこう思ったって仕方がない。
玄関の重い扉が背後で閉まると共に、彼の事も忘れてしまった。今大事なのは、それよりも、目の前の事。
「家の人は?」
家の中に人の気配はなかったが、一応聞いてみる。
いきなり親と対面なんてことにはならないようで、ほっと胸を撫で下ろす。
さすがに僕の彼氏ですなんて紹介される事はないだろうと思うが、岡田の事だからそれに近い事ぐらいはやるかもしれないと、少し危惧していた部分もあったのだ。
「ああ、いないよ。うち、共働きだし、僕は一人っ子だし」
「そうなんだ」
階段を上がっていく岡田の後をついていくと、こざっぱりした部屋に案内された。
机とベッドと本棚とオーディオコンポ、それ以外には余計なものが何もない部屋だ。
「岡田の部屋?」
「そうだよ」
なんでもない事みたいににこやかに岡田は答えるが、栗山の心臓はドクドクと脈打っていた。
今まで、こんなふうに完全に二人きりの空間になったことは、実の所、ないのだ。
もちろん、学校の一角などでひととき二人きりになる事ぐらいあるけれど、そこはいつ他人がくるかもわからない場所だ。
誰にも邪魔されず、二人きりの時を過ごすなんて、これが初めてである。
ドキドキせずにはいられない。
これからどうしようか、頭の中でいろいろとシュミレーションしてしまう。
そんな事は露程も考えていなさそうな岡田は、いつも通りのテンションで、机の上に鞄を置き、くつろいだ感じにベッドの上に腰を下ろした。
自分だけが妙にがっついた感じなのがどうにも情けないのだが、岡田といると終始こんな感じだ、今更嘆いたって仕方がない。
「ノリ」
雰囲気たっぷりに呼んでやると、岡田は珍しく素で驚いた表情を見せる。
「え、それって、僕の事?」
「そうだよ、お前、則史だろう?」
「うん」
いつも名字でしか呼ばないから、いつか名前で呼んでやろうと思っていたのだ。
名前を呼ばれて嬉しいのは、きっと男も女も同じだ。
「キス、してもいい?」
そう言って栗山が、岡田の隣、とても近い距離に並んで座ると、岡田はくすりと笑う。
「ねえ、それ、いつまで聞くの?」
「ああ、なんか、つい癖で」
「いいに決まってるじゃない」
岡田の両腕が、栗山の首に絡み付く。
とても気持ちの良い岡田の唇に、触れた。
更にその先へ、と、シャツのボタンに手をかけた。
その時。
「うわ」
栗山は岡田を突き飛ばすような勢いで、体を離した。
「ど、どうしたの?」
「ごめんな。いや、なんか、窓の向こうから見られてる」
窓の向こうに見える隣家の二階の部屋、お互いに中が丸見えになるぐらいの近い距離の窓から、男がこちらを見ていた。
先ほど、家の外で出会った、あの男だ。
隠れるでもなく堂々と、明らかにこちらを見て楽しんでいる。
「コウちゃん…」
げんなりとため息を吐いた岡田は、けれど奴に文句を言うでもなく、気にしないでと言った。
「気になるだろ!」
「なんていうか、まあ、あの人の場合、どうにもならないから」
「意味わかんね」
「栗山君、人に見られるのダメな人?」
「は?」
確かにこんなナリをしているだけに、人の視線だとか何とかは気にしないタイプの人間だが、かといって見られて燃える趣味を持っているわけでもない。
しかも、あんなにもあからさまに興味津々な顔で見つめれては、さすがにやりにくい。
栗山は頭を抱えた。
あそこで見ている男もそうだが、平然と気にしないでと言う岡田にもだ。
「そうだよね」
しょんぼりと、岡田が呟く。
「やっぱり僕ん家はダメか。じゃあ、今度、栗山君の部屋に行かせてよ」
「ん、ああ」
悄気ている岡田を見て、何だか自分がとても悪い事をしたような気になってくる。
けれど、どうしようもないまま、重い空気が流れた。
不意に岡田が立ち上がり、窓に近付く。
ガラリと勢い良く窓ガラスを開けると、その向こうで男がにこやかに手をあげた。
「コウちゃんのバカ!」
岡田は、今までに聞いた事のない大声で一言怒鳴って、ピリャリと窓を閉めた。
「ごめんね、栗山君。うち、変な環境で」
「びっくりした」
「だよね、あの人、僕の幼馴染み…っていうか、10コも年上なんだけどさ…」
「じゃなくて、おまえに。あんなふうに怒鳴る事、あるのな」
どんな状況下だって、穏やかな口調しか聞いた事がない。いつでもそうなんだと思っていた。
激情する事が、あるのだ。
そんな当たり前の事に驚いた。
それだけでも十分な今日の収穫と言えるほどに。
「やだな、恥ずかしい」
岡田は苦笑いを浮かべながら、再び栗山の隣に座った。
さっきのが平気でこんなのが恥ずかしいなんて、おかしな奴だ。
「だって、栗山君と、したかったのに」
そんなストレートな事をさらりと言われて、思わずぎゅっと抱き締めた。
けれど。
相変わらず窓の向こうで、ニヤリと笑ったあの男と目があってしまい、やっぱりこの男の視線に耐えながら初めての行為を行うのは無理だと感じる。
正直な話、まだやり方だってよくわからないのに。
「ところでさ」
岡田には悪いが、栗山は白々しく話題を変えた。
「俺、相変わらず栗山君とか呼ばれてるんだけど、まさか俺の名前知らないって事はないよな?」
「え?あ、あー…かず…とし?」
「疑問形かよ!案外つれない奴だな」
「ご、ごめ、だって、栗山君のこと下の名前で呼ぶ人なんて、見た事ないし」
柄にもなく慌てる様がどうしようもなく可愛くて。
もっと。
いろんな顔が見たいと思う。
「明日、俺ん家来る?」
「行く」
即答する岡田に満足しながら、部屋を片付けなければと思い、ぞっとした。
こんな綺麗な部屋に住んでいる岡田にしてみたら、栗山の散らかった部屋は驚愕ものだろう。
どんな顔をするのか一度見てみたい気もするが、やっぱり僕の部屋でと言われても困るので、頑張るしかない。
それから。
非常に不本意ながら、隣人のあの男のことを岡田から詳しく話してもらい、本日のデートは終了した。
<終>
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