モノローグ

 いつも以上にしんとした人気のない校舎の一室、生物準備室で高槻は自分の唇の先から立ち上る紫煙を目で追うように天井を見上げる。遠くから時折うすく歓声が耳に届く。


 全校生徒がグラウンドに集まり、体育祭が執り行われていた。担任ももたず、他の教師との協調性もなく、アウトドア派でもない高槻に与えられる役は特になく、申し訳程度に電話番という名目はついているものの、ただこうしてひとり黙々といつも通りに自分の仕事を進めている。

 基本的に学校行事には出来るだけ関わりを持たずに過ごしている。どうしても役割を与えられてしまえば仕方がないが、積極的に何かに参加をする姿勢は見せずにいると、普段の人を拒絶した姿勢の効果もあり、たいした役回りにはならないのだ。忙しくしている教師たちを見ると申し訳なくは思うが、そうやって出来るだけ生徒と関わらずにやっていくのが高槻が作り上げたスタンスなのだ。そこは守るべき砦だと頑に拒んでいる。


 けれど先程から遠くわき起こる歓声にたびたび意識を持っていかれる。高槻はくわえ煙草のまま机の上に置いてある水色の紙を手に取った。一応事務的に高槻にも配られた体育祭のプログラムだ。二つ折りにされているそれを開くと、並ぶ文字を目で追う。


「そろそろ、かな」


 障害物競走に出るんだと楽しそうに目を輝かせていた竜平の姿を思い出す。そろそろその出番が近づいている時間だ。

 先生応援してね、とは言われなかった。おそらくこの手の行事に高槻が参加しないだろうことをわかった上で、言いたかったであろう言葉を飲み込んでいたのだ。そういう心遣いをする子だ。自分で自分を縛っている高槻が、自身を責めることのないように、そんな素振りさえ見せない。

 本音を言えば、誰の目も気にせずグラウンドで目一杯応援したい。竜平の勇姿を目の前で感じたい。けれどそんなこと自分の作り上げた偽りの自分のキャラではないし、崩すつもりもない。本当の自分は竜平と二人きりの時にしか出さないことを徹底したい。


(それでも、少しぐらい見たいな)


 自らの固い決意を揺るがす程に竜平に入れ込んでしまっている。

 自分が知らないことは何もないぐらいにずっと竜平を見ていたい。クラスメイトたちとどんなふうに盛り上がって、どんな声で応援して、どんな顔で笑っているのか、知りたい。

 年甲斐もなく学生特有の青い友情に嫉妬したりもする。

 いつだって隣にいたい。同じものを見て過ごしたい。

 けれどそんな甘酸っぱい思いは自分で叶えられなくしてしまった。今更そんな熱血教師にはなれない。

 きっと竜平だって楽しみを分かち合いたいとそう思っているはずなのに、それをねだることすら奪ってしまっている。

 せめてもっとワガママを言ってもいいのだと言える大きな器が自分にあれば良かったのに。高槻が抱える闇をも竜平に背負わせてしまっている自分が情けない。

 いつだって喜びを与えてもらうばかりで、ちっとも返せない。自分の方がこんなに大人なのに、ただ無駄に年を食ってその分いろんなものを抱えて雁字搦めになるばかりで、ちっとも大きくなんてなれていない。もっと、竜平を守れる存在になりたいのに。


 短くなった煙草をもみ消して、席を立つ。白衣のポケットにしまってあった眼鏡をかけると籠っていた部屋を後にした。

 校舎内には誰の姿もなく、ずりずりとだらしなくスリッパを引きずる自分の足音だけが妙に響き渡っている気がする。

 最上階まで階段を上ると、反対側の端まで廊下を進み、重い扉を押して渡り廊下に出た。思いがけず強い風が高槻の鬱陶しく長い前髪を浚い、白衣の裾をはためかせる。その風に乗って聞こえる体育祭の喧噪は、臨場感を伴って高槻に押し寄せる。

 少し遠いけれど、ここからならグラウンドが見下ろせる。こうして遠くから少しだけ応援をしよう。きっと目の前に夢中な彼らから高槻の姿なんて見えやしない。少しだけ、竜平が出場している間だけ。


 みんなが同じ体操服を身につけた中、この距離で顔の判別などほとんどできない。けれど、竜平が走り出したその瞬間、すぐにわかった。風に揺れる前髪と顔を隠す縁の太い眼鏡の下で自然と頬が緩む。


(がんばれ、竜平)


 心の中だけで叫ぶ。


(思いっきり楽しめ)


 学生のうちにだけ経験できるそれを目一杯体に心に刻み込んで欲しい。竜平のすべてを自分だけのものにしてしまいたいと思うけれど、広い世界でたくさんのものを吸収して欲しいと願う思いもまた真実だ。もっともっと、竜平にしか見つけられないものをたくさん見つけて欲しい。何にでも好奇心たっぷりで行動的な竜平はどこまででも羽ばたいていけるように思える。いつか自分の手の届かないところまで羽ばたいていってしまいそうな怖さもあるけれど、そうして眩しく美しく自由に飛び回る姿を見てみたい。殻に閉じこもる高槻とは正反対の道を進む竜平が眩しくて焦がれる。


(がんばれ)


 小さな体は身軽で、飛び跳ねるみたいに跳び箱と平均台で作られた障害を乗り越え、すばしっこく網をくぐり抜け、最後はぐるぐるバットで足元をふらつかせ転倒もしたけれど見事一位で走り抜けた。

 大きく飛び跳ねてガッツポーズをする姿が可愛くて愛しくてすぐにでも抱きしめたかった。けれどこんなところからではどれだけ腕を伸ばしたって届かない。

 歯痒さにぐっと拳を握りしめ唇を噛む。自分はいつまでこんなふうに殻に閉じこもっているのだろう。そのせいで欲しいものも手に入れられないのにそれでも頑に。大人になればなるほど臆病になっていく。世界は怖い。こんなにも竜平を愛しているのに、それでも乗り越えられない。


 重い扉を再び開けて校舎内に戻れば、歓声は急に遠くなり、風に揺さぶられることもなくなる。乱れたまま止まってしまった髪を整えもせず静かに生物準備室に戻り、高槻は古い椅子の軋みを響かせた。






 がやがやと校舎内にいつもの喧噪が戻る。


「せーんせ」


 いつもより少し浮かれた竜平がやってくる。まだ体育祭のテンションを引きずっているようだ。


「ねえ」


 背中に負ぶさるように背もたれの後ろから竜平が抱きついてくる。


「先生、俺が走ってるとき見ててくれたでしょ」


 耳元で、内緒話でもするように小さく囁かれる。


「渡り廊下のところにいたの、俺わかったよ」


 嬉しさを噛み締めるみたいに声を殺してクフフと笑う竜平に、心拍数が跳ね上がる。竜平がいれば途端にうじうじしていたことをすっかり忘れてしまうから不思議だ。竜平さえいればそれでいいと思えるぐらいに、心がフワフワと舞い上がる。いつだってずっしりと重りを付けて地べたに這いつくばっている高槻が、嘘のように軽く弾みだすのだ。


「先生がどこにいてもすぐわかっちゃうんだ、俺。すごいでしょ?」

「すごいな、ほんとに。絶対誰にも見つからないつもりでいたのに」

「他の誰も気付かなくても俺には先生のいるところだけ光って見えるんだよ。いや、マジで。俺超能力あるんじゃないかって思うぐらい」

「あんまり役に立たなさそうな超能力だな」


 興奮しだす竜平が可愛くて、腕を取り正面に引き寄せる。


「何言ってんの、超役に立つよ。これであと透視する力があったらいつでも先生のこと見ていられるのにな」


 眼鏡を机の上に放り投げ、可愛いことを紡ぎだす唇を塞ぐ。


「一位おめでとう」

「へへ、ありがと。俺のクラス、総合得点3位だったんだよ。一年で唯一の入賞だよ。すごいでしょ。栗山くんとかあれで超足早いの、びっくりだよ」


 興奮冷めやらぬ竜平が、それでも終わってすぐに自分の元へ駆けつけてくれることが嬉しい。クラスで盛り上がっている最中にも自分のことを思い、あんな遠くにいた自分を見つけてくれたことがとても嬉しい。ぎゅっときつく抱きしめると竜平はちょっと驚いた顔をして、それから幸せそうに破顔した。


 高槻の膝の上に座ったまま、竜平は机の上に出しっぱなしだったプログラムを手に取る。


「ひとつ心残りがあるとすればさ、部活対抗リレーに出たかったな。先生と一緒に植木鉢抱えて走るの」


 それはたぶん、遠慮がちな竜平の甘えだったんだと思う。一緒に楽しめないことへの不満をそんな形で口にする。


「仮に顧問の参加が認められたとしても、それでも人数が足りないじゃないか」

「そうなんだよねー。二人じゃリレー出れないの。残念」


 高槻が自分を責める形ではない明確な逃げ道があるとわかっているから言うのだ。なんていじらしい。


(俺は一体どれだけこの子に救われれば気がすむんだ)


 どちらが大人なんだかわからない。こんなに小さく可愛らしいのに器の大きさは計り知れない。


「竜平」

「ん?」


 振り向いた竜平に再び口づける。


「愛してる」


 唇が触れる距離で囁けば、竜平は真っ赤になって、少しどもりながら「俺も」と答えた。



<終>

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