子供の特権

 日曜の午後、リビングのテーブルの上にテストの答案用紙を広げて採点をしていると、ガシャンとキッチンから大きな音が聞こえた。


「うわぁ」


 続いて、高槻の愛しい恋人、竜平の可愛らしい叫びが響く。

 高槻は赤ペンでカリカリと頭を掻いて、苦笑いを浮かべた。

 日曜日に高槻の家に遊びにきた竜平を、採点中だから終わるまで少し向こうにいてくれと追いやったのだが、どうやらコーヒーでもいれてくれようとしているらしい。

 しかし、台所仕事なんてやったこともないらしく、さっきからなにやらおかしな音や声がしていて気になって仕方がない。


「竜平」


 胡座を崩して膝を立て、高槻は背をのばしてキッチンの方を覗き見る。


「ごめんなさい、先生。でも割れてないからね」


 慌てて弁解する竜平を笑顔で許して、軽く手招き。


「いいから、こっちへおいで」


 仕事はまだ終わらないが、このまま放っておいたら何をしでかすかわからない。皿の一つや二つ割れたって別にかまわないが、竜平が怪我でもしたらと思うと気が気でない。


「終わったの?」

「まだだけど、いいよ。俺の後ろで背中を向けて座っておいで」


 さすがに立場上、他の生徒の答案用紙を見せるわけにはいかないけれど、見なければそばにいたって構わないだろう。どのみちこうして生徒と付き合っているのがバレた時点でクビなのだから、隣にいるかいないかの差はさして大きいものではない。


「先生のためにコーヒー入れようと思ったのに」

「出来そうもないからいいよ」


 そう笑うと、竜平は思いっきり頬を膨らませ、幼い子のように「先生のバカーっ」と叫んだ。


「いいから、ほら、おいで」


 少し手を伸ばしてソファーの上のクッションを一つ取り自分の背中の後ろに置き、竜平の席を作ってやる。そいつをポンポンと叩いて誘えば、竜平は途端にうれしそうな顔をして駆け寄ってくる。

 背中と背中をちょこんとくっつけて、竜平は照れたようにえへへと笑った。

 つられるようにして、高槻も口元を緩める。

 こうして少し体温を感じるだけで、何とも言えない幸福な気持ちになるのはなぜだろう。たったそれだけのことで仕事にも急に身が入るから、我ながら単純なものだと思う。


「悪いな。明日までにやっていかないといけないんだ」

「俺が勝手に押しかけてるんだからいいよ。待ってる」

「どこかに連れていってやれると良かったんだけど」

「俺は先生と一緒にいられたらどこでもいいの」

「そうか」

「うん」


 竜平は、高槻の邪魔をしないようにと思っているのか、それっきりしばらく黙ってじっとしていた。

 しかし、そのうち飽きてしまったらしく、次第にごそごそと動き始める。小さな子供と同じで、長時間おとなしくはしていられないタイプなのだ。

 仕事の都合で竜平を我慢させているのがかわいそうになってきた高槻は、背を向けた竜平にも分かるように少し大げさにトントンと音をたてて煙草を取り出した。


「あ、煙草休憩?」


 竜平は待ってましたとばかりにすぐさま食い付いてくる。


「ああ」


 火をつけてから、近くの窓が開いていないことに気が付いたが、休憩と聞いて背中にもたれかかってくる竜平の体重が心地良くて、立ち上がる気にならない。


「ねえ先生?」


 くっつけた背中から声が振動となって響いた。


「ん?」

「最近俺、休みの度に先生んとこ来てるけどさ、先生約束とかないの?なんかほら、友達と会うとかさあ」

「竜平と会うより大事な用事なんてないよ」


 友達と言われて、学生時代の連れの顔を思い出したが、皆久しく会っていない。別々の道に進み、互いに仕事を持っていると、なかなか昔のようにはいかない。

 いつの間にか高槻の生活は竜平が中心で、友達と遊ぶなんていう習慣は消えてしまっていた。

 

「俺、先生の友達って、あの充っていう人しか知らないけど、他にもいるんだよね?」


 学校での他人を廃絶した高槻を見ている竜平は、少し遠慮がちに疑問を投げかける。もしかしたら友達いないのかも、なんて思ったのかもしれない。

 確かに、あの自分だったなら友達なんていないだろうと苦笑する。

 けれどあれは教師用に都合良く作られた人格であって、本当の高槻ではない。


「そりゃ、俺にも友達ぐらいいるよ。けど、学生時代のように毎日顔を合わせていつでも約束できる状況ではないからな。大人は約束をするのも一苦労なんだ。職場に友達がいれば違うんだろうけど、俺の場合、ああだし」

「そっか」

「だから、気にしなくていいからいつでもおいで」

「うん」


 竜平の中には、見た目と同じく実年齢よりもかなり幼い部分と、こんなふうに気を使う大人の部分とが混在する。竜平の年頃は、大人でもなく子供でもないというように言われるが、竜平は子供でもあり大人でもあるのだ。それは年頃などは関係なく、竜平という人間自体がそうなのであると思う。初めて会った小学生の頃も、多分この先大人になってからも。


「毎日たくさんの同年代の人間と顔をあわせる状況にあるっていうのは子供の特権だな。竜平はいつも早く大人になりたいって言うけど、子供にしかない特権はたくさんあるんだぞ。今のうちにしっかり使っておかなきゃ損だ」

「栗山たちとつるんでいられるのも今のうちだけ?」

「そうだな、たまにはあいつらとも遊んでやれ」


 そう言うと、竜平は少し黙った。

 彼らと遊ぶことを考えたのか、そうすると高槻と会えなくなることを考えたのか、あるいは恋人同士の栗山と岡田を邪魔してしまうのではなどということに気を回しているのか、竜平の心ははかり知れない。

 けれど何かを考えて、それからぽつりと呟いた。


「わがまま言えるのも子供の特権?」


 何か高槻にわがままを言いたい気分になったらしい。


「俺にわがままを言うのは、大人になっても竜平の特権だよ」


 竜平は変に気を使うところがあるから、わがままを言われるのはとてもうれしい。 

 竜平のわがままなら喜んで受け止める。いつだって、言いたいことを言ってほしい。やりたいことをやってほしい。竜平の望みは全て叶えてあげたい。


「俺はそっち向けないから、先生がこっち向いて」


 可愛らしいわがままに応え、高槻は体を反対に向ける。ひざを抱えて座っている竜平を背中から抱きしめると、竜平は満足げに笑った。


「仕事は後にしようよ」

「それは駄目」

「わがまま言っていいって言ったじゃん」

「仕事はやらないと、クビになったら困るだろ?」

「…それは困る。先生に毎日会えなくなっちゃう」


 本当は高槻だって仕事なんかよりこうして竜平を抱きしめていたいのだけれど。

 あいにく高槻はもう子供の特権を受けられない年齢だ。

 名残惜しく竜平を手放して、再び答案用紙に向かった。

 吸いかけの煙草を手に取り、深く吸い込む。

 火のつきかけた心を、そうして強引に押さえ込む。


「早く終わらせてね」


 もそもそと動いた竜平は体を横向きにして高槻の背にことんと頭を預けた。

 見えてしまわないように目をつぶったのかもしれない。気がつけば、そうして高槻の背中にもたれたまま竜平は居眠りをしていた。

 子供だと思っていると急に大人びて、大人かと思うととても幼くなる。

 そんなふうに自分を惑わす竜平に心惹かれてやまない。

 可愛くて、たまらない。



<終>

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