天雲のたなびく山の隠りたる

 生物の授業というのはそんなに数があるわけではなく、授業のない時間帯というのがわりとある。今日は今から二時間続けて空いていた。

 そんな時間には授業以外の仕事をこなしたりするのだが、今日はなんとなくやる気が湧かずに、ぼんやりと煙草をふかしていた。

 今やらねばならない仕事はこの時間の頭に終えてしまった。それ以外に仕事がないわけではないけれど、別に今やらなくても問題ないようなものばかりだ。

 火のついた煙草を唇に挟んだまま、窓の外を眺める。

 今日はいい天気だなとか、今日も俺の花壇はきれいだなとか、そんなとりとめもないことをぼんやりと思う。


 一本吸い終わったところでチャイムが鳴った。途端にザワと校内の空気が動き出すような気配がする。校舎の端のこの辺りまで、教室の声が届いてくるわけではないのだが。

 ぼーっとしていた頭に意識が戻ると、机の上のペンケースが目にとまる。高槻のものではない、シンプルな柄の缶ペンケースだ。

 昨日、竜平が忘れていったそれを手に取り、何気なく蓋を開けた。

 入っているのは黒と赤のペンとシャープペンがそれぞれ一本ずつに、消しゴムと定規。たったそれだけのスカスカのペンケースだった。

 その素っ気なさが竜平らしいと思う。

 忘れていたぞと電話をしたら、今日は代わりのものを持っていくから帰りまで持っていてと言っていたが、こんな中身ならばさして困ることもないのだろう。

 ただ一つ、困りはしないが不便はあるかもしれないと思われるのが、ペンケースの蓋の裏に貼ってある時間割。教室にも貼ってあるから、なくても問題はないだろうけれど。

 その小さな時間割を覗き込み、生物の時間に赤い枠が書き込まれているのを発見した高槻は目を細めた。

 なんて、可愛いことをするのだろう。

 普段は、男の子だなと思うことが多いのだが、時々こんな風に乙女チックな可愛らしさが存在する。そんなギャップがとても愛らしく、心揺さぶられる。

 今はどこで何をしているのだろう。

 高槻は今日の時間割を指でたどる。


 毎日この同じ学校内にいるけれど、一緒にいる時間はとても少ない。こんなに近くにいながら、竜平がどこで何をしているのか知らないのだ。

 先程の時間は竜平の苦手な英語。そういえば昨日、明日は当てられそうだからとここで少し予習をしていた。教えてと言われて慣れない英語の授業をしてみたが、正直あまり得意な方ではなく、ボロが出ないかヒヤヒヤだった。専門分野でないとはいえ、教師のくせに教えられないのでは格好悪い。昨日はなんとか教えられたが、今後のために少しは他の教科も勉強しておくべきかなと、そんなことを思ったものだ。


 そして、次の時間は音楽。

「音楽か…」

 そういえば、音楽室は向かいの棟の二階だったなと、校内見取図を思い起こす。

 ここから、見えるだろうか。

 音楽室自体は見えるだろうが、竜平の姿などまず見えやしないだろう。余程、窓際でこちらを覗いていない限りは。

 けれど、思い立ったら覗いてみたい気持ちが抑えられなくなる。生物の授業以外、学校での竜平を見たことがないのだ。

 自分以外の先生の前で、いったいどんな顔をして授業を受けているのか。

 気になりはじめたらたまらない。


 高槻は、言い訳でもするみたいに煙草を一本口にくわえ、窓を開けた。火をつけて、体を乗り出して花壇を見るふりをした。

 誰が見ているわけでもないのに、素直に眺められない自分が少し可笑しい。たとえ見られていたとしても、ただ窓を開け、音楽室を見上げることに、別段何の問題もないだろうというのに。

 やりたいと思ったことを素直にできない高槻の悪い癖だ。

 花壇を見る、そのついでに上を眺めてみたと、そんな演出をした後で、ようやく目的を果たした。

 そこには、窓際に並んだ三つの顔。真ん中が竜平で、その横はいつもつるんでいる栗山と岡田か。

 ばっちりと、竜平と目が合う。

 明らかに、あそこから高槻を見ようとしていたに違いない。

 高槻は気付かなかったが、もしかして、音楽室に行く時にはいつもああしてこちらを見ていたのだろうか。

 竜平は少し戸惑った様子で、こちらに向けて小さく手を振った。

 そのあまりの可愛らしさに思わず頬が緩んだ。


(やば…)


 竜平だけならば問題なかったが、隣の二つの顔もこちらをじっと見ている。高槻は慌てて顔を引っ込めた。

 向こうからの死角になる場所に隠れ、片手で顔を覆う。


(何やってんだ、俺…)


 いい年をして、竜平の子供っぽさに毒されている。

 こんな子供じみたことに動揺してしまうなんて、どうかしている。

 竜平の、ストレートな愛情表現が、胸にしみる。

 その行動、表情、言葉の一つ一つが、高槻を好きだと告げているそのことに、いつも嬉しさが抑えられない。


(俺も、もう少し、自分を表現するべきだろうか)


 あんな風に、相手の姿を探して密かに見つめていたり、してみたことはなかった。

 竜平のクラスの時間割すら、今初めて知ったぐらいだ。

 ここで待っているばかりでなく、もっと自分から出来ることもあるだろう。


 いつしか次の授業が始まっていた。

 再び訪れる、静寂。授業中の校内は特異な空気をまとっている。

 高槻は机の上の灰皿に長くなった灰を落とし、再びそれを唇に挟んでもう一度音楽室を見上げた。

 授業が始まっているため、もうそこに三人の姿は見えない。

 けれど。

 見えなくても、その窓を見つめ続けた。

 その向こうにいるだろう竜平を思って。

 たまにはこうして、見つめているのもいい。

 ただ竜平のことを思って、行動を起こすことも、必要なのかもしれない。

 待っているばかりでなく。


(俺も、竜平みたいに)


 自分と同じような喜びやときめきを、与えられるように。

 小さな不安も感じさせないように。

 全身で好きだと伝えたい。

 高槻にとっては難しいことだけれど、努力は惜しまずいこう。

 そんな決意を込めて、人影の見えない音楽室の窓を見つめ続けた。

 歌声の一つも聞こえないだろうかと耳を澄ませながら。



<終>

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