青山を横ぎる雲のいちしろく
「よし、今日も指定席ゲット!」
授業はまだ始まらない。
竜平は、音楽室の窓にへばりついて、30メートルほど離れた第二棟を見下ろした。
その両脇を挟むようにして岡田と栗山が、竜平のまねをするみたいに、同じ格好で階下を見下ろしていた。
自転車置き場と用具庫の向こうに二つの小さな花壇がある。その先にあるのは、竜平の憩いの場、生物室である。
週に一回しかない音楽の授業が好きだった。
音楽というものに特別思い入れはないのだが、音楽室が好きなのだ。
竜平の通うこの学校の校舎は全部で4棟あり、そのうち3棟が平行に並んでいる。
音楽室のある第三棟は、生物室のある第二棟の南側に平行して建っていて、音楽室は生物室と同じく校舎の一番東端にある。
つまりは、音楽室の北側の窓際に座ればそこから生物室が見えるというわけだ。
その距離およそ30メートルほど。音楽室は二階、生物室は一階なので、上から見下ろす形となる。
ここから窓越しに高槻の姿が見えるかどうか、それが竜平の音楽の授業の楽しみ方であった。
音楽の授業は席が決まっていないため、竜平はいつも早めに移動して、一番いい席を取る。最近では既にそれは定番となっており、多少遅れて行こうとも、ここは竜平の指定席とでもいうようにクラスメイトたちは避けて座るようになっていた。
けれど、もちろんその理由まで知っている人は隣にいる二人以外にはいない。
この時間、授業のない高槻はたいてい準備室にこもっている。少しでもその姿が見られればと、乙女チックな淡い期待を抱いてここにいることなど、いったい誰が想像するだろう。
「毎度のことながら、毎日授業後に会ってるとは思えない健気さだよね」
感心しているのか呆れているのか、岡田がぽつりとつぶやいた。
「いいじゃん、少しでも見たいの」
こうして高槻の知らないところでこっそりと見ているというのが、なんとなく楽しいのだ。
この角度からだと、高槻が窓際に寄るか、花壇のところに出てくるかしなければその姿を見ることはできない。そんな見えるか見えないかの状況を、賭け事でもするみたいに楽しんでいる。
「こんなところから見てるなんて、先生も気付かないだろうしね、なんかドキドキするじゃん」
無邪気にはしゃぐ竜平を、栗山は横目で冷ややかに見た。
「江森ちゃん、それってストーカーの心理じゃねえ?」
「うわ、ひでー」
「毎回それにつきあってる僕たちも、まあ、被害者にしてみたら共犯かなあ」
両側からからかわれ、竜平はぷうっと頬を膨らませた。
「別につきあってくれなんて言ってないよ」
「まあまあ、共犯者は大切にしときなさい」
企み顔でにんまりした栗山にぐっと肩を抱かれ、3人は内緒話でもするように顔を近付けた。
「あ、ほら、先生じゃない?」
生物準備室の窓が開き、煙草をくわえた高槻の姿が視界に飛び込んでくる。
いつもの白衣で、いつもの眼鏡で、いつものボサ頭の、「先生仕様」の姿だから、二人に見られても問題はない。二人とも、最初の頃は高槻のくわえ煙草に意外性を感じていたようだが、それも最近では見慣れてしまったようだ。
こんなところからこんな風に見られることもあるのだから、準備室にいようとも用心を怠ってはいけないな、なんてことを少し思う。
こんな、景色も良くないところを覗こうと思う人はあまりいないと思うけれど、ましてや竜平のいる授業後には、こんな場所に人がいることの方が稀だろうけれど、それでも人に見られては困ることをしていることもある身分としては、過剰に警戒してしまう。
「あーあ、嬉しそうな顔しちゃって」
「ほっといてよ」
高槻は煙草に火をつけると、机の上に手をついて、身を乗り出すようにして窓の外を覗いた。
何やら花壇の方を見ているようだったが、やがてその視線を上に向けた。
「あらま、気付かれちゃった」
偶然だったのか知っていたのかは分からないが、その目はまっすぐに音楽室を見上げていた。
「ストーカーと違うのは、気付かれても問題ないとこだな」
岡田も栗山ものんびりとそんなことを言っていたが、竜平だけは少し焦っていた。
内緒事がバレてしまった気恥ずかしさと、密かな楽しみが公然のものになってしまう切なさとで、ここから逃げたくなるような、何か言い訳をしたくなるような、そんな気分に苛まれていた。
わかっていれば、いつもこうして覗いてくれるかもしれないけれど。
それはそれ、これはこれで、残念な思いが残るのも確かだ。
(でも、まあいいか)
竜平はまだこちらを見上げている高槻に向かって、小さく手を振った。
煙草をくわえたままの高槻の口端がほんの少しだけ上がった。
そしてすぐに、高槻は奥の方の見えないところへ行ってしまう。
「なんだ、つれないの。気付いたのに行っちまったぞ」
「先生、冷たい…」
二人はそう言ったが。
「いいよ、笑ってくれたもん」
多分、あれは、栗山たちがいたから気恥ずかしくて逃げたのだ。
竜平の稚拙な行動に照れたのだろう。
あの、去り際の薄い笑みで、竜平には分かる。
今頃きっと、見えないところで額を押さえているに違いない。
「うそ?」
「どこが?」
両脇から沸き上がる声に竜平は驚いた。
「あれ?わからなかった?」
高槻の、微妙な表情の変化に、二人は気付かなかったらしい。
「あの先生、いつもポーカーフェイスだから、僕よくわからないんだよね」
「俺にもさっぱりだ」
「そう?」
自分だけが高槻のことをわかるのだという優越感のようなものが沸き起こる。
本当の高槻を知っているのが竜平だけだというのはわかっていたが、同じものを見ても感じ取れるものが違うのだということに感動を覚える。
「あ、何得意げな顔してんだよ。俺は別にあいつの感情読み取れなくたって困りゃしないんだよ」
「へへん、負け惜しみ」
「何も負けてねえっての!」
そんなことをやり合っていると、ポコンという音と共に頭に軽い衝撃が走った。
「こら、そこ、何やってんの。授業始まってるわよ」
いつの間にか背後に立っていた音楽の先生に、丸めた教科書で叩かれる。
チャイムが鳴ったのにも気付かないぐらい夢中になっていた。
(もしかして、授業が始まったから向こう行ったのかな)
表情が読めたなんて勝手に思っていたけれど、違ったかもしれない。
授業が始まったからいつまでも見ているなと、そういうことだったのだろうか。
席に座って、始まった授業をぼんやりと聞きながら、竜平はもう一度ちらりと窓の外に目を向けた。窓際に立たずとも、少しは見えるのだ。だからこそこの席を選んでいる。
思いがけず、準備室の窓に高槻の姿が見えた。
くわえ煙草のまま、真剣な表情で、音楽室を見上げていた。
(うそ…)
なんだか妙にドキドキして、それ以上見ることができなかった。
あそこから、竜平の姿が見えるのだろうか。
ずっと、見ているのだろうか。
何となく、もう一度確認することはできないでいた。
ただ、あの目を思い返すだけで、鼓動が早くなる。
何だろう、この感覚は。
微妙な距離が織り成す不思議なときめき。
ただそんなことで、こんなにもドキドキするなんて。
その日の音楽の授業は一切頭に残っていなかった。
<終>
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