いくつもの欠片

「どうぞ」


 高槻が扉を開けると、竜平の目の前に、初めて見る高槻のプライベート空間が広がる。


「結構いい部屋に住んでるんだ、安月給のくせに」

「大きなお世話だ」


 後ろで高槻がドアを閉める音を聞きながら、竜平は靴を脱いで室内に上がった。

 普段の高槻のだらしない格好や、雑然とした生物準備室からは想像もつかないほど、すっきりと片付いた部屋だった。

 物が圧倒的に少ないのだ。入ってすぐのその部屋には小さなソファーと机、それからテレビがひとつ置いてあるだけだった。


「生活感のない部屋だね」


 左手にある小さなキッチンも、あまり使われていないようで、食器がいくつか置かれているだけである。


「何かちょっと意外だな」

「何が?」


 高槻は机の上に鍵を放ると、竜平の背中を軽く押してソファーへと促した。


「先生って、あんまり片付けられない人だと思ってた」

「ああ、片づけは苦手だな。だから何も置かないに限る」


 高槻も隣に腰を下ろし、机に唯一置かれた灰皿を手もとに引き寄せると、煙草に火を付ける。


「ほんとに何もないけど、どうやって生きてるの?」

「秘密だ」

「何それ」


 ここまで連れて来ておいてそれはないだろう。

 何となく悔しくなった竜平は、くるりと室内を見回した。


「ねえ、あそこの扉はなあに?」


 部屋に入って右手の方にドアが二つある。


「風呂とトイレ」

「ふーん、見てもいい?」


 返事は待たずに立ち上がり、玄関側の扉を開けた。

 小さな洗面台とトイレ、そして風呂。いわゆるユニットバスというやつだ。


「風呂もトイレもこっちにあるんだけど」


 それではもう一つの扉は何なのか。

 ドアノブに手をかけてちらりと高槻を見た。

 高槻は相変わらずソファーの上で煙草を燻らしており、竜平の行動を制限するつもりはないらしい。

 ただ一言、ぽつりと呟いた。


「そこは開けない方がいいぞ」

「そう言われると、開けたくなっちゃうじゃん」


 竜平はそっと扉を押し、その中を覗いた。


「うわっ」


 そこにはもう一つの部屋があった。

 中はまるで別次元の空間のように、びっしりと物が詰まっている。

 主な物は本と実験器具、そして鉢植え。生物準備室をさらにパワーアップさせたような空間だった。


「だから、開けない方がいいって言ったのに」


 いつの間にか竜平の背後に立っていた高槻の声が、耳をくすぐる。


「こっちで生活してるわけだね」

「俺のプライベートを覗いたね、竜平君」


 背中から、覆い被さるように抱きすくめられ、まるで現場を見られた殺人犯みたいに恐ろしげに囁かれた。背筋がゾクリとする。


「これは、ただでは帰せないな」


 やんわりと耳を噛まれ、竜平は思わず身を硬くし、目を閉じた。

 本当に恐ろしい気がしたのだ。きっと、高槻の、今まで知らなかった部分をいろいろと目にしたせいだろう。

 生活空間を見たというただそれだけのことなのだけれど、学校での高槻しか知らなかった竜平にとっては、急に奥深いところへ飛び込んだような気分なのだ。


「かわいいなあ、竜平は」


 堪えきれなくなったように、高槻がくすくすと耳元で笑い出す。


「何されると思った?」

「な、何って…」


 竜平の顔が、かあっと熱を帯びる。

 先ほどまでの恐怖にも似た感覚は、瞬時にどこかへ消えてしまった。


「初めてでもないくせに、初々しくていいね」

「なんだよっ」


 よしよしと頭をなでられ、竜平は噛み付く。


「褒めてるんだよ?」

「からかってるだけのくせに」


 高槻は否定も肯定もせず、あっちへ戻ろうと竜平の腕を引っ張った。

 引きずられるようにしながら、まだじっくり見ていないその室内に慌てて目を走らせる。

 結局、あんまり中を見ないように誤魔化されただけのように思えたのだ。

 見られたくないと思うならば、ぜひ見ておきたい。

 けれど、見られてまずいようなものは特に見当たらなかった。

 ただ一つ、目に止まったのは掛けられている服。


「ねえ、先生。あんなかっこいい服も着るんだ?」


 いつも学校で見るTシャツとジャージが重ねられたその横には、スーツからラフなものまで、竜平のタンスの中身とはずいぶん違う、タイトな大人のデザインの服が並んでいた。

 眼鏡と同じように、洋服もまたわざとセンスを隠しているのだ。


「普段からあの格好はヤバいだろ。まだ二十代の青年だぞ」

「ねえ、今度、ああいう格好でデートしてよ」


 引っ張られる腕にぎゅっと抱きついておねだりしてみると、高槻は思いがけず優しく笑った。


「いいよ。俺も私服の竜平を見てみたいしな」

「やったあ!」


 竜平は小さくガッツポーズをした。

 どこまでもついて回る教師と生徒という枷が、ようやく少し緩んだような気がする。

 もっと自由に自然に。

 もっともっと深く。

 もっともっともっと。

 この人と繋がっていたいと、そう思う。



<終>

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