雨と物音と

 昼過ぎからぽつりぽつりと降り出した雨は、一日の授業が終わる頃には本降りになっていた。

 帰るまでにはやむだろうか。

 高槻は生物準備室の薄汚れたガラス越しに、灰色の空を見上げた。

 なんとなく、雨が降ると気分が重くなる。

 植物たちには恵みの雨なのだろうけれど、高槻にまとわりつく湿気は、全てを鈍らせるようだ。

 重たいため息を吐いて、煙草に火をつけた。

 雨が入り込まない程度に細く、窓を開ける。

 ほんの少し開けただけなのに、雨音は途端に大きくなり、さらに憂鬱な気分が増した。

 こんな日は、あの太陽みたいな少年が恋しくなる。

 白い煙を吐きながら、高槻は時計に目をやる。


「今日は、来ないのかな」


 いつもならば、もう駆け付けている頃だが、今日は来る気配がない。

 別に約束しているわけではない。

 竜平が来たい時にここへ来て、高槻はただそれを受け入れるだけ。

 待っているわけでもないのだけれど。

 たまには待ち望む日もある。今日のように。


「タイミング悪いな」


 まだずいぶん残っている煙草を、いらついた仕草で灰皿に押し付けた。

 遠慮なく湿気を取り込んでいる窓を閉めようと手をかけたその時、カタンとかすかな物音が聞こえた。

 風だろうか。

 音は外から聞こえたようで、風で何かが動いただけかもしれない。

 けれど妙に気になって、高槻は部屋を出た。

 生物室へつながるドアを開け、すぐ右手のところに外へ通じる扉がある。

 そこから少し、外を覗いてみようと、そう思った。

 だがドアは思ったように開かず、途中で何かにぶつかって止まった。


「いたっ…」


 声がして、そこに人がいるのだと認識した。


「竜平?」


 それ以外に思い当たる人物はいない。


「開けるから、退きなさい」


 雨の中、いったいこんなところで何をしているのか。

 屋根もないそこで、中に入ろうともせずに。


「おい、竜平?」


 どうやら扉の前に座り込んでいるらしい竜平は、高槻が声をかけてもそこから動く様子がない。


「ったく…」


 すぐ近くの窓を開け、高槻はそこを乗り越え、外に身を翻した。

 雨が容赦なく降り掛かる。


「こら、竜平!」

「…せんせ…」


 ひざを抱えて丸まっていた竜平は、驚いて顔を上げる。

 いつからそこにいたのか、全身ずぶ濡れで、目と鼻が真っ赤になっていた。


「先生、濡れちゃうよ?」

「馬鹿、お前の方がびしょ濡れじゃないか」


 冷たくなった手を引っ張ると、竜平は素直に立ち上がり、促されるままに校舎の中に入った。


「どうしたんだ?」


 準備室に連れていき、戸棚の中に置いてあったバスタオルで竜平の濡れた頭を拭いてやる。

 水が滴り落ちるほど濡れてしまっている制服も脱がしていく。

 大人しくされるがままになっている竜平は、うつむいたままじっと高槻の手を見ていた。


「あんなところで何を泣いていたんだ?」

「泣いてない。雨だもん」


 竜平は、ぐっと唇を噛む。

 強がるその姿がたまらなく愛らしく、ついつい笑ってしまう。


「今日の雨はずいぶん手厳しかったようだね、目も鼻も色が変わってる」

「酸性雨なんだよっ」

「そう」


 何があったのか知らないが、こうして高槻に強がってみせるのは、不本意な涙だったのだろう。


「男の子だなあ」


 濡れたものを脱がしていたら結局全裸になってしまい、高槻はバスタオルをそのまま竜平の体に巻き付け、椅子にかけてあった白衣を羽織らせた。


「先生も拭きなよ、ハゲるよ」

「ああ、そうだった。今日の雨は酸がきつかったんだったね」


 高槻も、タオルを頭にのせるが、竜平と違ってさほど濡れてはいない。


「俺の頭はどうでもいいけどさ、おまえ、どうやって帰る気?」


 脱がせた制服を絞って吊るしてみたが、乾きそうな気配はまるでない。

 今の時期、ストーブも置いていない。

 助けを求めるように上目遣いで見つめてくる目に、高槻は小さくため息をついた。


「車で送ってやるよ。その代わり、わけを教えなさい」

「…友達と、少し喧嘩をしたんだ。それだけ…」

「そうか」


 恥ずかしそうに呟いた竜平の頭をくしゃくしゃと撫でる。

 高校生にもなってそんなことで涙するなんて、きっと本人はとても腑甲斐無く思うのだろう。

 けれど、高槻はそんな竜平が輝かしく見えた。

 喜怒哀楽が、ものすごくストレートなのだ。それは、すごいことだと思う。

 偽りなく自分を表現できる、竜平の強さだ。


「俺の家で服を乾かしてから帰りな。このままじゃ、親御さんが心配するだろう」

「うん、ありがと、先生」


 まだ泣きはらした顔のままで、竜平はうれしそうに微笑んだ。

 なんて愛らしい生き物なのだろう。

 高槻は、衝動のままに竜平をきつく抱きしめた。



<終>

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