モノポリー
とある高校の生物準備室。
ここの主である生物教師の高槻宏斗は、窓際を向いた机に向かい、煙草を片手にパソコンのマウスを転がしていた。
いつものように冴えない洋服の上にだらしなく白衣を羽織り、けれどいつものセンスの悪い眼鏡は無造作に机上に置かれている。
それは、度の入っていないダテ眼鏡。高槻が他人との距離をはかるために用意したものである。
この部屋を使用するのは自分一人だけ。しかも校舎の一番端に位置するこの部屋は、一階であるけれど窓の外を人が通る事も滅多にないのだ。視力にも問題のない高槻には、ここで眼鏡をかける必要性はひとつもなかった。
左手に挟んだ煙草の先から、細い煙が伸び、申し訳程度に開けた窓の隙間から外へ消えていく。
灰が落ちそうになる頃、最後の一吸いをして灰皿の上に揉み消した。
ちょうどその時、背後から扉をノックする音がして、高槻は置いてあった眼鏡をかけ直した。
「はい、どうぞ」
いつものように、竜平がやってきたのかと思った。
この学校の一年生で、高槻の恋人でもある竜平は、可愛らしくも毎日のように授業後ここに顔を出しにくる。名前だけの存在である生物部の活動なのだそうだ。
けれど、開いたドアの向こうに見えたのは竜平ではなく、もっと懐かしい顔だった。
「やあ、宏斗。久しぶり」
「充…?ずいぶん突然だな」
細身で小さく、生徒と見間違うような童顔のこの男は、高槻の大学時代の友人で、恋人でもあった
「ああ、僕ね、今サッカー部の顧問をしてるんだ。で、今日はこの学校と練習試合。確か宏斗のいる学校だったなと思って」
「そうか。まあ、入れよ」
桜木も、近くの高校で生物教師をしていることは知っていた。そもそも、高槻が教師になろうと思ったのは、桜木が教師になると言ったからだった。それまでは、大学に残り、研究者にでもなろうと思っていた。生物と関わって生きる人生の道として教師という選択肢もあるのだと気づき、桜木と同じ道を進むのもいいのではないかと思ったのだ。今こうして教師をしているのも、生徒である竜平と愛し合っているのも、この男のおかげなのだ。
立て付けの悪いドアを閉めて入ってきた桜木は、あの頃と変わらぬ距離に近付き、高槻の顔を見つめる。
「なに、そんなださい眼鏡かけてんの」
「ああ、ちょっと、な」
高槻は肩を竦め、眼鏡をはずした。
眼鏡をかけるようになったのは教師になってからのことで、桜木相手にこれは必要無い。
「うん、相変わらずいい男だ」
妙な納得をして、桜木は近くの椅子を引っ張り出して腰掛けた。
「どういうことになったのか、なんとなくわかるよ。もともと宏斗は先生向きじゃないんだ」
「わかっていたんならもっと早く言ってくれよ」
「だって、あの時は嬉しかったんだよ、僕と同じ道を目指してくれるっていうのが」
ごめんねと、上目遣いに高槻を見る桜木の顔は恋人同士だったあの頃の態度とまるで変わらず、時が戻ったような錯覚さえ感じていた。
あの頃のような感情は、もちろんないのだけれど、別れた後も嫌いにはなれない。多分、お互いに。
恋人関係になる前は、長い間親友だったのだから。
授業後、竜平はいつものように生物準備室へ向かった。
別棟にある職員室に寄った後、近道なので外を通って行く。
生物室には通用口のような入口がついているから、そこから中に入ればいい。
校内の一番端に位置するこの辺りは、滅多に人が来ないようなところだ。あまり良くないと思うが、こっそりと上履きのままで土の上を歩いた。
こんなところにあって誰が見るのだろうという花壇の横を通り抜ければすぐに目的の部屋が見えてくる。
植え込みの隙間をくぐり、校舎の窓際に寄った。部屋に入る前に、窓から準備室を覗いてやろうと思ったのだ。
多分先生は窓際を向いて仕事をしているだろうから、きっとびっくりするに違いない。
そんな悪戯心でそっと窓の中を覗き込んでみた。
次の瞬間、竜平は慌てて窓の下にしゃがみ込み、身を隠した。
「…何?」
中の様子を一瞬見ただけだが、あり得ない光景だった。
あの高槻が、誰かと素顔で談笑していたのだ。
「なんで…だよ…」
それをできるのは、自分だけだと思っていたのに。
自分だけに許された、特別なものだと思っていたのに。
あれは誰?
先生とどんな関係?
いろんなことがぐるぐると頭の中を駆け巡った。
ちくりちくりと胸の奥が痛む。
あの眼鏡をはずすのは、あんな笑顔を見せるのは、心を許している証拠だ。
この学校では竜平以外に決して見せない顔だ。
相手は見た事のない顔だったし、校内の人間ではないだろう。
高槻の友人が訪ねてきたのかもしれない。
今まで話題にのぼった事もないが、高槻にだって友人の一人や二人いるだろう。
そうだとしても。
なぜだかそれを許せない心の狭い自分がいた。
それに。
ただの友人ではないような、そんな気がした。なんとなく、だけれど。
薄く開いた窓から時折漏れる笑い声。
竜平は両手で耳を塞いだ。
この場から離れる事も出来ず、ただそうして時が過ぎるのを待った。
嫌だ、嫌だと、こんな事ぐらいで思ってしまう自分がまた嫌だった。
何も出来ずにこうしている自分も嫌だった。
普通に入って行く事だってできるのに、追い返されるかもしれない恐怖に身動きがとれなかった。
(俺は、先生のことを何も知らない)
そんな現実だけが胸に突き刺さっていた。
目を閉じ、耳を塞ぎ、竜平は永遠にも続くような闇の中にいた。
そろそろ試合が始まるからと出ていく桜木を見送って、高槻はひとつ大きく息を吐いた。
先ほど、話の途中でちらりと窓の外に顔がのぞいたのを、ほんの一瞬だったが視界の端に捉えたのだ。
人影がよぎったのが見えただけだが、この辺鄙な場所で窓を覗くなどという事をするのは竜平以外にあり得ない。
そのまま入ってくる様子がないのは、来客に気がついたからだろう。
別に、相手は桜木だし、竜平を部屋に入れてもよかったのだが、新旧の恋人が対面するという事態はあまり好ましくないような気がして、そのままにしておいたのだ。
もう、どこかへ行ってしまっただろうか。
後でどのようにフォローしようかと考えつつ、窓を開けてみた。
念のために、机に身を乗り出して覗き込むと、すぐ下に頭がある事に気がついた。
「江森、いつまでそこにいるつもりだ?」
あれからだいぶ経つというのにまだそこで座っていた事に少し驚いたが、冷静な振りをして声をかけた。
けれど、反応はない。
状況をみれば、竜平がどんな事を考えてそうしているのかはだいたい想像がついた。
「入ってきなさい」
とりあえず話をしなければと、敢えてきつい声で言う。
「竜平」
下の名前で呼べば、竜平はぎくりとして立ち上がり、消え入りそうな小さな声で「はい」と返事をした。
おそらく、悪いのはどちらかというと高槻の方なのだが、叱られた子供みたいな竜平の態度に、失礼ながら笑ってしまう。それが、あまりにも、可愛らしくて。
竜平は、無駄に元気で生意気ないつもとは別人のようにしおらしく部屋に入ってきた。
「どうした?」
側に呼び寄せて優しく手を握ると、竜平はぽつりと口を開く。
「先生、今の、誰?」
「学生時代の友人だよ」
恋人だとは、あえて言う必要もないだろう。嘘をついたわけではない。友人である事もまた事実なのだ。
「あいつも教師をしていてな、今日はたまたまサッカー部の試合で来たらしい。4年ぶりに会って、つい話し込んでしまったよ」
言い訳じみたセリフだったが、素直な竜平は安堵の表情を浮かべる。
「ごめんなさい、先生。俺…嫌だったんだ、先生が普通に楽しそうにしてるのが。俺の勝手な思い込みなんだけど、そういうの、俺だけだと思ってたから」
申し訳なさそうに俯く竜平の手を、高槻はきつく引き寄せた。
どんな時でもまっすぐに自分の気持ちを口にする竜平が、愛おしくてたまらない。
心を隠すことでしか自分を守れない高槻には眩し過ぎるほどに、こがれてやまないのだ。
強く腕を引かれ、バランスを崩した竜平は高槻の膝の上に横向きに腰を落とす。
その体勢が恥ずかしかったのか、竜平は高槻の首に両腕を回し、顔を埋めた。
「眼鏡だってかけてないしさ。俺だけが特別なんだって思ってたのに」
「学生時代はかけてなかったからな」
「それでも…嫌だったんだ。そういうこと、思う自分も、嫌だった」
首筋をくすぐる竜平の声が、少し震えていた。
「悪かった」
高槻は、赤ん坊をあやすみたいに優しく竜平の背中を叩く。
「特別の印なんかなくたって、竜平は特別だから、心配しなくていい」
過去の事は関係ない。今はただひとり、竜平を愛しているのだから。
分かりやすい特別扱いなどなくとも、この気持ちは伝わるだろう。
「だから、泣くな」
「泣いてねーよ」
竜平は顔を上げて高槻を睨んだ。すっかり、いつものペースに戻っている。
きっと、高槻の言葉が嬉しかったのだろう。真直ぐなだけに、単純でわかりやすい。
可笑しくて、可愛くて、つい笑みを漏らすと、竜平はぷうっと頬を膨らませた。
「すぐにそうやって子供扱いする…」
「それは心外だな。子供だなんて思ってないよ」
耳元に唇を寄せ、そして息を吹き込むみたいにこっそりと囁く。
「子供相手に欲情なんかしない」
その耳が、化学反応みたいに赤く色を変えるのを楽しんでから、やわらかい頬に手を添え、深く口づける。
ごくりと上下に動く喉に指を滑らせると、竜平はくすぐったそうに身じろぎした。
唇を離すと、上気した潤んだ目が高槻をまっすぐに見つめていた。
竜平の両手が、高槻の白衣の胸元を掴む。
「俺は…先生の事、全然知らない」
「こんなに知ってるくせに、これ以上何が知りたい?」
「もっともっと、全部」
「欲張りだな」
「うん」
ゆっくりと、竜平の目が閉じた。
高槻は誘われるように再びその唇に触れる。
<終>
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