モノクローム16

「先生、タオルある?」


 竜平は顔から水を滴らせながら、生物準備室へ入っていった。


「ああ」


 高槻は取り出したタオルをそのまま渡そうとしたが、竜平の顔を見ると、それを広げて頭からすっぽりと包み込むように被せた。

 竜平の顔を隠そうと、気を遣ってくれたのかもしれない。

 滴っているのは水道の水だけではなく、そこには堪えきれなかった涙も混じっていた。

 誤魔化すようにびしょ濡れのままで来たけれど、きっと高槻にはまるわかりだったのだろう。

 何も言わずにそうしてくれる高槻の優しさを噛み締める。

 優しさが、嬉しくて辛い。

 ごしごしと、タオルで顔を拭っても、滴る水はなかなか拭いきれなかった。

 手を繋いだ時の態度も、好きだと告げた時の反応も、竜平にとって色良い返事がもらえないことを示唆していた。

 ゆっくり話そうと言ったのも、きっと、何とか竜平を諭そうということなのだろう。

 どんな形であれ、失恋するのはまず間違いなさそうだ。

 そう思うと、涙が溢れた。

 せめて、いつも通りの関係でいられるように、それだけを祈る。

 切実に祈る。


(泣いてちゃ駄目だ。逃げちゃ駄目だ)


 気まずいままの関係にはなりたくないから。

 中途半端にすることは、傷付かない代わりに大切なものを失うことだ。

 どんなに深い傷を負おうとも、失いたくはない。


 竜平は、もう一度顔を拭うと、睨み付けるような強い視線を高槻に向ける。

 涙はもう、零さない。

 高槻の言葉を、気持ちを、しっかりと聞いて受け止めようと思う。


「お前は強いな」


 少し口元を緩めた高槻の大きな掌が、竜平の頭を撫でた。


「悪かった。泣かせるつもりはなかったんだ」


 優しい声色が竜平を包む。

 引き寄せられ、抱き締められる。

 暖かい腕だった。


(あ、れ…?)


 想像していた展開と、まるで違う。

 今からふられようというという状況ではあり得ない行為だ。

 何がどうしてこのような状況になっているのか、竜平にはわからない。

 けれど、疎まれていないことだけは確かだ。

 好きだと言った自分を、拒まれていない。

 なんて、心地よい温もりなのだろう。

 なぜこんなにも、優しくしてくれるのだろう。


「先生…?」


 顔をあげると、いつの間にか眼鏡を外した、遮るもののない視線が絡み合う。

 先程までの、竜平から目を逸らそうとする高槻とは全然違う、迷いのない顔をしていた。

 一体、何を言われるのだろうか。

 竜平はごくりと唾を飲んだ。


「竜平、男と付き合うのがどういうことかわかってるのか?」

「え?…あ、まあ…なんとなく…」


 可でもなく否でもなく、話の展開がまるで読めない質問に、戸惑う。

 ただ好きという気持ちが先行して、付き合うとかどうとか細かいことはあまり深く考えたことはなかったが、それが一体どうしたというのか。

 わけがわからず呆然としていると、高槻の顔が近付いて、竜平の唇の端、頬の所にその唇が触れた。


「せんせ…?」


 いきなりキスをされた。

 唇に、ではないけれど。

 なぜ?どうして?

 頭の中が混乱する。


「わかってるのか?」


 諭すように静かに、けれど力強く、高槻はもう一度そう言った。

 男相手にキスをしたり、それ以上の事をしたり、そんな覚悟があるのかと、問われているのだろうか。

 それは、もちろん、ある。

 でなければ、好きだなどと伝えたりはしない。

 わかっている、と、言葉には出さなかったけれど、揺るぎない視線できっとわかってもらえるだろう。


(俺の覚悟があったら…何?)


 男相手にキスまでして、伝えたいことは何なのか。

 結論を出すのを避けているみたいに、遠回しな話をする高槻が歯がゆくて、竜平は高槻のTシャツを掴んだ。


「俺は、もともとそういう性癖の人間だ」


 竜平に促されるように、高槻はぽつりと告げた。

 何でもないことみたいにさらりと口にしたが、それはかなり爆弾発言である。


「え?」


 それはつまり、男相手に恋愛するのは問題ないということ。

 だから竜平にキスなんて、平気で出来たのか。

 男を好きになっても辛いだけだと、そう教えるために。


(そうか、やっぱりふられるんだ)


 拒まれていないと感じたのは、自分の都合のいいように勝手に解釈していただけだったのだ。

 ただ、慰めるために優しくされていたのだ。

 今さらながら、がっかりした。

 ふられるとわかっていてここに来たのに、いつの間にか期待をしていた。

 なんて馬鹿なのだろう。

 竜平は俯く。

 けれどその顎を、高槻が強引に引き上げる。

 外した視線は再び絡み合った。


「だから、俺がどんな気持ちを抱こうと、お前を引き込んじゃいけないと思ってたんだ。まさかお前が男の俺を好きになるなんて思ってもみなくて、自分の思いを抑えることしか考えたことがなくて、どうしたらいいかわからなくなってた」


 高槻は、何か吹っ切れたように、いつになく雄弁だった。

 ゆっくりと、答えが明確になってくる。


(…おかしい。これは…もしかして…ふられる展開では、ない…?)


 高槻が竜平に抱く思いとは何なのか。

 それは、もしかして。

 それでも尚、期待してしまう。恋とはそういう代物なのだ。


「俺も」


 高槻の言葉が、スローモーションのように感じる。

 その先を、まだかまだかと待ちわびた。

 そして。


「竜平が好きだったよ、ずっと」

「うそ…」

「お前が泣く必要なんて、本当は何もないんだ」


 本当に、竜平の妄想ではなくて、それが高槻の答え。

 意外な、これ以上もない、高槻の答え。

 先程までの態度からはまるで及びもつかなかった。


「こんなこと、お前に言う日がくるとは思ってなかったけどな」


 照れ隠しをするように、高槻はそう付け加えた。

 無意味に竜平を泣かせてしまったことを悔いているのかもしれない。

 複雑怪奇な高槻の心は未だによくわからないけれど、単純明快な高槻の言葉は竜平にもすぐに理解出来た。

 竜平の事を、好きだと言う。

 それだけで、十分だった。

 嬉しい。

 両思いだったなんて、夢のようだ。

 この喜びを伝えたいのに、感激のあまり、言葉が出て来ない。

 もっと、もっと、大好きだと伝えたいのに。

 気のきいた言葉なんて、見つからない。


 だから竜平は、背伸びをして高槻にキスをした。

 先程は故意に外された唇に今度はしっかりと触れさせて、竜平は自らの覚悟を示す。

 思いは上手く伝わったのか、高槻はやわらかく微笑んだ。


「へたくそ」


 囁くような声で微かにそう告げた高槻は、一瞬意地悪な顔をして、仕返しでもするように竜平にくちづける。

 それは、深く官能的な大人のキス。

 執拗に絡み付いてくるその感覚に、立っていられなくなる。

 高槻の腕が竜平の体を力強く抱き締めて支えた。


「…ずるいよ、先生…」


 息も絶え絶えに、竜平は縋るような目で高槻を訴える。

 なんて上手なキス。

 大人であることを見せつけられた。

 立ちふさがる障害は、男同士ということだけじゃない。年だって十以上も離れているし、立場的にも問題ありだ。

 生半可な覚悟では、後で泣くことになる。

 多分、高槻がこだわっているのはそういう部分なのだろう。


「竜平に、辛い思いをさせるかもしれない」

「いいよ。先生が愛してくれたら頑張れるから、俺は」


 高槻は、竜平の頬を両手で挟み、その思いを確認するようにじっと竜平の目を覗き込んだ。

 そこには、しっかりと、竜平の覚悟が見えているだろうか。

 何があっても高槻が大好きだと、きちんと見えているだろうか。

 そこから高槻が何を読み取ったのかわからないけれど。

 高槻はまるで誓いでも交わすみたいに、竜平の左手の甲に静かに自分の唇を押しあてた。







「せーんせっ!」


 生物準備室に入るなり、竜平は高槻の背中にダイブした。


「うわっ」


 高槻は体当たりの勢いに前のめりになる。


「あっぶねー」


 火のついた煙草を持った左手を咄嗟に遠くに避けて、高槻は大きく息を吐いた。


「こら、竜平。火傷したらどうするんだ」

「ごめんなさーい」


 前にも似たようなことがあったなと思った。

 あの時も同じように怒られた。

 まだ、高槻のことを好きだとすら気付いていない頃の事だ。


「だって、先生の背中、好きだもん」

「時と場合を考えなさい」


 まだそんなに短くなっていない煙草を、高槻は灰皿にもみ消した。


「消さなくてもいいって言ってるのに」

「煙草よりもこっちのほうがいい」


 後ろからしがみついていた腕をぐいと引っ張られ、高槻の唇が竜平の唇に重なる。

 ほろ苦く、煙草の味がする。

 けれど、甘い甘いくちづけだった。





 窓の外、あの花壇に花が咲き誇る頃には。


(俺は、どうなっているだろう)


 もっと強く、繋がっていたい。

 もっと深く、愛していたい。

 もっと。




<終>

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