モノクローム5
翌日、午後の最後の授業を終えた高槻は、生物準備室に戻ると椅子に深く腰掛けた。
背もたれに体を預けると、古い椅子は嫌な悲鳴をあげる。
メガネを外して机の上に置き、代わりに煙草と灰皿を引き寄せた。
トントンと箱を叩き、一本を取り出す。
唇に挟み、ライターを手にしたところでふと窓の外に目をやり、動きを止めた。
そこに見えているのは、いつもの風景。
高槻の育てている花たちが咲き誇っている花壇が、ここに座っていると綺麗に見える。
昨日の事を思い出した。
まさか、竜平がこんな所にいるとは思わなかった。
高槻は竜平を覚えていたが、竜平が高槻を覚えていることはまずあり得ないだろう。小学生のただ一日の記憶などさほど鮮明に残るものでもない。たとえ覚えていたとしても、高槻の見た目がこれだけ変貌を遂げていれば、同一人物であるとの判断は難しいだろう。名前だって告げていない。
授業中にも、何か気付いているような、そんな素振りは全く見られなかった。
それなのに。
なぜ竜平が、高槻の目の前に立っていたのだろう。
あの時、平静を装っていたけれど、どれだけ驚いたことか。声をあげそうになるのを必死で堪えた。
自分が竜平を見つけたその日に、偶然にしてはタイミングが良過ぎる。
そもそも、ここは偶然辿り着くような立地条件ではないはずだ。
あの後、戸締まりをしていると、生物室から外へ出るドアの鍵が開いていた。ということは、竜平は外から辿り着いたわけではなく、生物室から外へ出たのだろう。
生物室に一体どんな用があるというのか。
(俺に会いに?)
一瞬そう考えた自分が滑稽で、苦笑する。
一度授業をしただけの生徒が自分を訪ねてくることなど、あるわけがない。
何かの拍子に迷い込んでしまったとでも考えるのが一番妥当であろう。
また、見に来てもいいですか?
迷いのない真直ぐな目でそう言っていた竜平を思い出し、高槻は外したメガネをかけなおした。
そして再び苦笑する。
昨日の今日ですぐに訪ねてくるとは思えない。
何か、竜平に期待している自分がいる。
何を?
一体どんなことを期待するというのか。
高槻は煙草に火を付け、大きく煙を吐き出した。
綺麗ですね。
自分なら思ってもとても口に出さないような言葉をさらりと告げた竜平がとても印象的だった。
すごいね、と、過ぎし日に高槻に言った少年と、まるで変わらない。
どうしたらそんなに飾らずに真直ぐに育っていけるのだろう。
このままでどこまで大人になるのだろうか。
眩しいまでに自分に正直な竜平に、少し憧れを覚える自分がいた。
自分を守りたくて、自分を偽り続けている高槻とはまるで正反対だった。
扉をノックする音が小さく聞こえて、高槻は煙草を灰皿に揉み消した。
遠慮がちに細く開けたドアの隙間から顔を覗かせたのは、今し方、昨日の今日では来ないだろうと思っていた竜平だった。
「こんにちは」
しかも、花壇の方ではなく、こちらに来るとは思ってもみなかった。
「あの、先生?入ってもいいですか?」
つい呆然としてしまった高槻に、戸惑ったように竜平が声をかけてくる。
「ああ、どうぞ」
手招きをすると竜平は嬉しそうに破顔した。
(可愛い…)
ふとそんなことを思ってしまった。
まるで、自分に懐いている子犬みたいだ。
竜平は真直ぐ高槻の隣に来ると、そこから見える窓の外の景色を眺めた。
「ここから綺麗に見えるようになってるんですね、花」
「花が、好きなのか?」
昨日もずいぶん熱心に花壇を眺めていた。
今時、女の子でもそんなに花に興味がある子はいないというのに、高校生の男子がそうそう花壇に注目することはないだろう。
「花が好きっていうか、植物を育てるのが好きなんです。みんなには変な奴だって言われるんですけど」
少し照れたように笑ったが、竜平の目は今日も真直ぐだ。
もしかしたら、あの四年前の夏の日の出来事が、少年に植物への興味を覚えさせたのだろうか。
そんなことを、ふと思った。
自分の言葉が、自分との出会いが、彼の人生に影響を与えたというのなら、これほど嬉しいものはない。
もともと好きだったのかもしれないし、高槻以外のきっかけがあったのかもしれないけれど。
それでも、些細なきっかけの一つぐらいにはなっているのかもしれない。
「そうなのか。先生も、植物育てるのは好きだな」
「ですよね。あの花壇を見てそう思いました。だから、先生と、もっと話がしてみたくて来たんです」
「話?」
「はい。俺なんか適当にやってるだけで知識とか全然ないし、どうやったらあんなに綺麗に咲かせられるのかとか教えてもらえたらなと思って」
「そう。いいよ」
それは高槻の願いでもある。
まさか竜平の方からこんなにも早くそれを請われるなんて思いもしなかった。
こんなに、トントン拍子に都合良い展開でいいのだろうかと、少々不安になってしまうぐらいである。
「それから…」
竜平は躊躇って、視線を少しだけ下に落とした。
「花の事だけじゃなくて、普通の話もしたいです」
「普通の話って?」
「ええと、なんか、普通に。先生ともっと仲良くなりたいっていうか…」
もごもごと、恥ずかしそうにしながらも、ストレートに気持ちが言葉になって高槻に届く。
驚きと、嬉しさと、戸惑いが、一度に高槻を襲った。
ぶつかってくる竜平の心に、まっすぐ向かい合うことが出来ない。
どうしたらいいのかわからない。
素直に受け止めればいいのだろうけれど、それを出来ないのは過去のトラウマからなのか。
「先生なんかと仲良くなっても良いことは何もないよ?」
そんな予防線をはってしまう自分に、たまらなく嫌気を感じながらも、そうする自分を止められない。
テンションの下がる、嫌な返事だと我ながら思う。
竜平にも申し訳なく思う。
きっと、嫌な先生だと思われるのだろう。
いつに間にかこんな生き方しか出来なくなっている自分を呪った。
けれど竜平は、あの日と同じ笑顔でこう言った。
「そんなの、なってみないとわからないですよ」
お話聞いてあげる、と言ったあの日と同じ、純粋で、そしてどこか達観したような優しい目で。
「…ああ…そうだね」
単純なことが見えなくなっている自分に気がつかされる。
四年前と同じだ。
成長していない自分が嫌になる。
「いつでもおいで」
「はい」
曇りのない竜平の笑顔に、目の奥が熱くなる。なぜだか涙が溢れ出しそうになり、奥歯を噛んで堪えた。
昔も今も、高槻の心を溶かす、不思議な少年だ。
竜平が傍にいてくれれば、歪んで凍り付いた日々も、変えられるかもしれない。
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