ロシアンルーレット25

 二年生になった。毎朝の電車を一人で揺られるようになってもう2ヶ月以上経つ。そろそろ満員電車の中の蒸れた暑さが不快になってくる頃だ。


 千草のいない学校はとても味気ない。まるでモノクロの世界になってしまったように俺の毎日には何の彩りもなく、胸の中にぽっかり穴があいてしまったような喪失感が常につきまとっていた。勉強をしていても部活をしていても、昼ご飯を食べていても休み時間に友人とバカをやっていても、物足りない。満ち足りない。

 ため息をつく回数が多くなっている気がして、いけないなと自分でも思う。けれど、あの卒業式前日以来、千草には会えていないのだ。会えないどころか電話もしていないし、メールもだ。もちろん俺からは何度もメールを送ったし電話もかけた。だが千草は電話に出ることもなければメールの返事をよこすことも一切なかった。

 初めは千草も環境が変わっていろいろと忙しいのだろうと思っていたけれど、さすがにこれだけ完全に無視された状態になると、次第にメールを送ることも怖くなる。返事の来ないメールを送るのは勇気がいる。俺だって、迷惑かなとか一応考える。その場に千草がいるのなら突撃することをためらいはしないが、顔が見えないというのは俺も怖いのだ。反応がないのが一番怖い。叱られても詰られても構わないから、返事が欲しい。


(今になって金城の気持ちが痛い程わかるよ…)


 とにかく千草のそばにいることを選びたがった金城、そのストーカーじみた行動をずっと鼻で笑って来たけれど、こういうことだったのだ。離れてしまえばこうなると、金城は知っていたのだろう。


 電話番号をもらうだけで安心していたあの頃の俺を恨む。そんなもの、あちらが拒絶してしまえば何の役にも立たない。家の場所だって知らないし、あのピアノの先生の家の前で待ち伏せてみたこともあるけれど、大学に入ってピアノ環境も変わってしまったのだろうか、出会うことはなかった。

 離れる前にもっと本気で千草という人を掴んでおかなければいけなかった。それこそ金城を見習って、キモチワルイと蔑まれるほどに。


 そばにいない俺は、もう千草にとって必要のないものなのだろうか。

 電話もメールも迷惑なだけで、そもそも男のくせに千草を好きだという俺の存在自体が迷惑で、これは俺から逃れる絶好の機会だったということなのかもしれない。


 最後に話した時にはわりといい感じだったと思ったのだが、そんなものきっといつもの俺の都合のいい妄想にすぎなかったのだろう。いつだって千草は俺の妄想とは全然違ったじゃないか。


 もう、千草の中で俺の存在なんて消えてしまったのかもしれない。

 俺は、とても忘れられそうにないのに。忘れられるわけがないのに。千草が思うよりずっと、俺は本気であの人が好きなのだ。今でも、きっとこれからも。






 そんなしょぼくれた生活をしていたある朝のことだった。ため息と共に乗り込んだいつもの満員電車の人の波の向こうに千草の姿を見つけて俺は思わず二度見をする。

 乗り込んだ時に咄嗟に千草の姿を探す癖が今でも抜けなくて、毎日そこに千草がいないことを確認してはどんより沈んでいたのだが、ついに幻覚を見るようになってしまったかと己の精神を疑った。けれどそれはどこからどう見ても現実で、俺は久しぶりに人波の中を上手に移動するスキルを発動させた。

 幻覚でないと確信するのは、そこに立つ千草の姿がいつもの学生服ではなく、見たことのない私服姿だったからだ。俺のイカれた頭が見せる幻影だったなら見慣れた姿であるに決まっているのだ。


「千草さんっ!」


 人混みをかき分けたどり着いたその場所で必死に叫んだ声は思いのほか大きくて、千草は嫌そうに眉間に皺を寄せた。


「おはよう」


 不貞腐れた子どもみたいにぶっきらぼうに千草が言う。嘘みたいだ、千草がそんなふうに挨拶をしてくれたことなんてなかったのに。


「本物すか?まじで?」


 もちろん本物であることは間違いないのだが、服装のせいもあるのか、俺の知る千草とはどことなく雰囲気が違う。Tシャツにジーパンというラフな格好が雰囲気もやわらかく見せているのだろうか。ツンツンと尖った感じが少し少ない気がするのだ。ほんの2、3ヶ月だが、環境が大きく変われば人は変わるのかもしれない。


 目を丸くしてじっと見つめる俺の視線に耐えかねたのか、千草はぷいと横を向く。


「なんで?」

「大学行くのもこの線なんだよ。降りる駅はもっと先だけど」

「けど、今まで会ったことないっすよ?」

「時間が違うからな」

「今日はたまたま?」

「まあ、ほんとはもっと遅い時間でいいんだけど…」


 千草の目がちらりと俺を見る。どくんと心臓が跳ねる。


(もしかして、俺に会いに…?)


 そんなご都合主義の妄想もしっかり健在だ。俺はこの人に好かれたくて仕方がない。


 期待に満ちた目で見つめ続けるが、続く言葉が紡がれることはなく、千草の視線は車窓を流れる景色へと移る。


 どうしてメールの返事をくれないのかとか、聞いてみたかったけれど千草がそんな話題をおくびにも出さないので聞けなかった。あの日からの空白が何もなかったようにいつも通りなのだ。

 だけどその自然さが嬉しかった。俺を忘れたとか迷惑に思っているとかそういうわけではないとわかっただけで、もうあのどんよりした日々なんてどうでもよくなってしまった。

 そんなことよりも今のこの貴重な時間を楽しみたい。降車駅に着くまでそう長くはない。今度またいつ会えるかもわからないこのわずかな時間を大切にしなければ。


「大学はどうすか?楽しい?」

「まあ、いろいろ大変だよ。シビアな世界だからな。お前は?ちゃんとやってるか?」

「千草さんがいないと俺はダメっすよ」

「何言ってんだ、友達多いくせに」

「友達が何百人いたって千草さんがいなかったらダメなんですぅ」

「ああ、そう」

「わあ、なにその興味ない返事。久しぶりなんだからもうちょっと優しくしてくれてもいいじゃないすか」

「黙ってたらわりと男前なのに相変わらず喋ったら残念なやつだなと思ってさ」


 くすりと千草が笑う。


(ああ、笑顔まで見れるなんて)


 幸せすぎて、もしかしてこのまま電車が大事故を起こして俺は死んでしまうんじゃないだろうかなんて不吉なことを考えてしまう程だ。


 かくんと電車が揺れて、千草の体重が俺の体に寄りかかる。このまま抱きしめてしまいたい。

 時間が止まってしまえばいいのに。

 押されて傾いてしまった体を立て直せずにいる千草はいつの間にか俺の腕をぐっと握っている。悪い足では不自然な体勢を支えきれないのだろう。


「悪い。足のポジション悪くて戻れない」

「いいっすよ。でかいのだけが取り柄ですから、そのまま寄りかかっといて下さい」


 少しでも千草の足への負担が減ればと思ってさりげなく腰に手を回せば、いつものきつい視線が俺を睨み上げたけれど、文句は言われなかったので勝手に了承と読み替えた。

 不可抗力ですからと開き直れば、千草は諦めたようにため息をひとつこぼし、

「お前、変わんないね」

と、小さく呟いた。


「変わんないすよ、俺の気持ちは。ちょっと会わなかったぐらいで変わんないっす」


 腰に回した手にぐっと力を込めると、千草は身じろぎして俯いた。顔を隠されてしまうとそれがどういう意味の反応なのかわからなくなる。俺的には愛の言葉を囁いたつもりだったんだけど。


 車掌のアナウンスが、次が俺の降車駅であることを告げる。幸せな時間はあっという間だ。早すぎる。会えなかった間に話したいことは山のように積もっているのに。

 このまま俺が電車を降りてしまえば、またこれまでのように千草の欠けた日々が始まるのだろうか。

 嫌だ。嫌だ。

 もう少し一緒にいたい。話がしたい。せめて何か約束を。

 そう考えた所で以前それを嫌がられたことを思い出した。確かな約束なんてくれるほど優しい人じゃないから、俺はこの数ヶ月腐り続けていたのだ。


 また返事のないメールを打ち続けるしかないのだろうか。返事はないけれど別に嫌がっているわけではなさそうだ。迷惑だったなら開口一番メールするなと言ってくるはずなのだ。番号を教えてくれたのは千草だし、きっとそれだけが俺に与えられた権利なのだ。怖くても続けていればいつか、不意に千草の気が向くかもしれない。

 きつい日々は続きそうだが、忘れられたり嫌がられたりしているわけではないとわかっただけよかった。

 会えて良かった。


「じゃあ、千草さん、また気が向いたら、たまにはこの電車乗って下さいね。俺は千草さんがいなくても毎日ここに乗ってるんで」


 泣きそうなのをこらえながら笑顔で別れの挨拶を告げる。

 きっと千草はじゃあなといつもみたいにあっさりと目を逸らすのだと思っていたのだが、予想に反して思いを引きずった目が俺を見つめ、そして珍しく遠慮がちな口調で俺に問うた。


「なあ、少し時間あるか?」

「え…?」

「俺も降りる」


 ドアが開き、外へ流れる人の波に押されて、俺は呆然としたままホームに降り立った。俺の制服をぐっと握って、千草も一緒に電車を降りていた。

「お前の脚力ならまだ時間に余裕はあるだろう?」

「はい、そんなの、もちろん、千草さんといれるなら遅刻したって休んだってかまわないっすよ」

「間に合うように切り上げる。少し話したいことがあるだけだ」


 毅然とした態度でぴしゃりと俺の甘えをシャットアウトした千草は人の流れからはずれるように俺の腕を引っ張り、ホームに設置された待合室の中に俺を連れて行く。

 朝の忙しい時間にわざわざのんびり待合室に入る人間などそうはいない。俺たちが入ったそこに先客はなく、硝子のドアを閉めてしまえばそこは二人きりの空間だった。

 最奥のベンチに二人並んで腰掛ける。硝子一枚隔てた向こうでは忙しなく人が流れているのに不思議な感覚だ。ここだけ時間が止まってしまったみたいだ。


「悪かったな、電話もメールも無視して」


 ぽつりと、そんなに悪びれた様子もなく淡々とした口調で千草は言った。

 どうでもいいことのようにスルーしていたけれど、実は気にしていたのだろうか。わざわざ電車を降りてまで言うほどに。


「いえ、いろいろ環境変わって忙しいっすよね」

「いや別に、大学はむしろ今まで学校のために割いていた時間を全部ピアノに使えるから楽になったぐらいだ。わざと無視してた」

「え…なんすか?いじめすか?」


 そうきっぱり言われてしまうと泣ける。やっぱり迷惑だったのだろうか。


(もう、わけわかんない…)


 千草の考えがわかったことなんて今までもなかったけれど、距離が空いた分更に難解になっている気がする。


「試したかったんだ」

「俺を?」

「いや、俺をだ」


 ますます意味が分からない。頭の上にハテナをいっぱい乗っけた状態で千草を見つめるが、千草はそんな俺のハテナを拭うつもりがないのか、ごそごそと自分のバックを開けて中からペットボトルを取り出した。くるくるとふたを開けてお茶を飲む。その唇が濡れ、喉仏が動く一連の動作から目が離せずにいると、お前も飲むかとそのペットボトルをそのままこちらに差し出した。


「はい、あざっす」


 反射的に受け取り、口をつける。間接キスだなんて中学生みたいなことを思いながらドキドキする。そんなことを思っているのはきっと俺だけで、千草は満員電車の暑さで俺も喉が渇いているだろうと純粋な親切心からの行動をしたに過ぎないのだろう。下心だらけの自分に少し罪悪感を感じ、お茶を飲む動作に紛れて視線を逸らした。


「俺は薄情な人間だからさ、人のことすぐ忘れるんだ。いつも、それこそクラス替えしただけで忘れてて、それで金城にはいつも怒られたというか悲しまれたというか、だからあんなにムキになって俺にまとわりついてたんだ」


 そんなふうに突然千草が自分のことを語りだしたから、俺は驚いてもう少しでお茶を吹き出してむせる所だった。なんとか上手にそれを飲み下し、思わず姿勢を正して耳を傾ける。これはきっとお茶を飲みながらのんびりと聞く話ではないと、本能的に察した。


「お前もそれと一緒なのか、それとも特別なのか、俺は俺を試したんだ。好きだとかなんとか、そういうの俺わからないし」


 千草の口調はただの世間話みたいに普通だった。俺の手からペットボトルを取り返し、蓋を閉める。


「その結果がこれだ」

「これって…どれ?」


 いつも通り言葉足らずで、千草の考えていることは俺にはわからない。俺のバカな頭でもわかるような丁寧な説明なんてする気もないんだろう。

 むむむとまたしても頭上にハテナをいっぱい浮かべて考え込んでいると、不意に目の前が遮られ唇にやわらかいものが触れた。少しひんやりと、先程飲んだお茶の味がした。

 キスをされたのだと気付いたのは千草の顔が次第に俺の顔から離れていくのを目視できてからだった。


「お前に会いたくて思わずあの電車に乗っちまった」


 キスをした直後とは思えない苦虫をかみつぶしたような顔で忌々しげに千草は吐き捨てる。


「…それってつまり…千草さんも俺のことが好きってこと?」

「知るか」


 千草は握りしめていたペットボトルを俺の膝の上に投げつけた。


「話はそれだけだ。学校行け」


 ぷいと横を向いた千草の耳が赤く染まっていて、俺にもドキドキが移る。


「ち、千草さんっ」


 そっと手を握るときつい視線がいつもみたいに俺を睨む。


「今度から電話に出てくれます?」

「…暇だったらな」

「はい。それからメールも…」

「わかったよ、後でまとめて読んで返事する」


 千草は俺の手を振り払ってやけっぱちのような返事を投げつける。


「え、もしかしてこれまでのメール読んですらいない?」

「読めば思い出すだろうが」


(ああ、もう、この人は)


 なんて可愛いのだろう。こんなの一度知ってしまえば手放せるわけがない。


「もう一回、キスしてもいいすか?」

「ダメに決まっているだろう。外から丸見えなんだぞ」

「さっきは自分がしたくせに?」

「俺はいいんだよ」

「なにそれ」


 俺様でワガママで意地悪で冷たくて、だけど優しくて真面目で照れ屋で意外と不器用で。


「ほら、そろそろ限界だろう?」


 腕時計の時間を示して俺を蹴飛ばす。


「…たっ、わかったから、行くから、マジ蹴りしないで」


 俺は慌てて立ち上がり、鞄を肩にかけた。本気で俺を狙う足から逃れるように出口へ向かう。


「ねえ、千草さん、また時々あの電車乗ってよね」


 振り返って見た千草の顔は見たことのないような微笑みをたたえていて楽しげだった。が、瞬時にいつもの顔に戻る。


「まあ、時間に余裕があれば、乗ってやらないこともない」


 ツンとデレの割合が絶妙だ。ほとんどツン、貴重なデレ。それが俺をゾクゾクさせる。


「またねっ、千草さん」


 待合室を飛び出して、ダッシュで階段を駆け上る。遅刻とかそんなものはどうだっていいのだけれど、沸き上がる喜びに走らずにはいられないのだ。緩んだ頬がいつまでたっても元に戻らない。笑いながら駅を走り抜けるでかい高校生の姿はきっと異様なものだったろう。


 駅を出て自転車に跨がり、全力でペダルを漕ぎながら、このまま学校でなく海まで行ってしまおうかななんてことさえ思う。

 腐っていた日々が嘘のように、何をしても楽しい。

 千草さんの特別になれたのだ。それは嘘みたいに幸せな出来事だ。全部俺の妄想なんじゃないかなと何度も疑った。けれどこれは現実だ。


 昼頃にメールが来た。

『メール全部読んだ。お前うざいわ…』

 これは、現実だ、間違いない。


「千草さんが返事くれないからじゃないすかー!!!」


 突然叫んだ俺をクラスメイトはどう思っただろうか。そんなことはどうでもいい。

 こんな些細なやり取りが俺の毎日を色鮮やかに染め上げるのだ。

 隣にいなくとも、千草と繋がっている現実があればそれだけで。


(そういえば金城はどうしてるのかな。千草さんと連絡取ってんのかな?)


 そんなことを考える余裕さえ出てくるのだ。


『好きです、千草さん。会いたい。会いたい。会いたい』


 こんなメールを送っても怖くない。もう何も怖くない。


『だからうざいっての。ばーか』


 だってこんなに可愛い返事が返ってくるのだから。

 頭に花が咲いてると言われようが、気味悪いと引かれようが、こみ上げる幸せに緩むにやけ顔をやめられそうにない。


 明日も会えるといいな。全ては千草の気分次第だけれど。




<終>

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