ロシアンルーレット24

 今日もいつもの電車ですし詰めにされながら、正面10センチの距離で千草と向かい合う絶好のポジションを確保していた。だというのに、今日はいつもよりも会話が少ない。いや、千草はいつだってこんなものかもしれないが、俺が紡ぐ言葉を見つけられずにいるのだ。

 なぜなら、今日この時が、共に満員電車に揺られて通学をする最後の日であることを知っているからだ。明日の卒業式に、一年生の俺は出席しない。家庭学習という名の休日だ。千草が学校に行くのは明日が最後であるが、俺と一緒にということになると今日がラストなのだ。

 最後だと思うと、この時間をどう過ごすのがベストなのか、考えすぎてわからなくなる。やりたいことがまだまだたくさんありすぎて、決められない。どう考えたって足りないこの短い時間を、どうしようか考えるだけで無駄に使ってしまっていることはわかっている。それでも、言葉が出ない。大事なことがきっとあるに違いないのに、何も出てこない。

 卒業おめでとう、とか、春休みどこかに行かないかとか、そんな何でもない言葉のひとつが口に出せず、ただただ電車に揺られる時間が流れていく。

 まだどこか、俺は現実を受け入れられていないのかもしれない。口に出してしまえば何もかもなくなってしまうみたいで怖い。口に出さずとも終わりの時間は刻々と迫っているのに、迫り来る恐怖と対峙できない。


 そんな俺の焦りをわかっているのかいないのか、不意に千草の頭が俺の喉元のあたりにこつんともたれかかる。ただ下を向いただけかもしれない。首を曲げれば触れてしまうそんな距離だ。だけどなぜか千草に甘えられているようなそんな気がして鼓動が跳ね上がる。センチメンタルになりすぎているが故の妄想に過ぎないのかもしれないけれど。


「今日で、最後だな」


 小さく、ためらうみたいに言葉を切りながら、千草が呟いた。俺がなかなかその話題を口にしないから、しびれを切らしたのかもしれない。こんなこと俺が言うつもりはなかったのにと、今頃心の中で俺に罵詈雑言を投げかけているのだろうか。だから俯いて、俺から表情を隠したのだろうか。もしかしたら少し照れているのかもしれない。


 春に知り合ってから一年弱、毎日のようにこうして顔を突き合わせて来たけれど、未だに千草の気持ちは計り知れない。言葉は少ないしひねくれ者だし、俺が想像していたこととは全然違っていたというパターンもしょっちゅうだ。むしろ正しく理解していることの方が稀だ。だから俺は、自分の都合のいいように勝手に解釈する。いろんなことを慮ったところで結局正解にたどり着けないならば、勝手な妄想をしたって一緒なのではないかと思い至っている。最終的に怒られるのに変わりはないのなら、少しでも夢を見た方が幸せでいられる。


「満員電車は大嫌いだったけど、この一年は少しはマシだったよ」


 俯いたまま、千草は続ける。その言葉は俺の都合のいい妄想上でも何の違和感もなく、満員の電車の中であるにもかかわらずここだけが世界から切り取られたように甘い雰囲気が流れる錯覚がした。


「…千草さん…」


 それは、俺がいてよかったと、そう解釈してもいいだろうか。千草の憂鬱を晴らす存在でいられたのだと、それは俺の自惚れでも妄想でもなく。


「…ありがとな」


 俺の心臓に触れるみたいに、千草の掌が俺の左胸に当てられるのを感じた。その瞬間に、これはおそらく千草の額が俺にくっついているのも偶然ではないのだろうと直感したのは、いつもの俺の妄想上の産物なのだろうか。今日は違う気がする。千草の様子がいつもとは違う。


(これが最後だからだ)


 いつになくツン控えめでデレを発揮する千草に、避けていた現実を突きつけられる。目を逸らしていた事実が胸の中にガツンと突き刺さる。千草に触れられていつもみたいに心臓がバクバクと飛び跳ねるかと思ったのに、俺の胸は一気に別の感情で支配された。


 寂しい。

 悲しい。


 これまでの千草との電車内でのひとときが、走馬灯のように蘇る。死んでしまうわけでもないのにおかしな話だ。だけど、きっとこれが走馬灯というやつだ。千草の些細な表情とか仕草とか、何でもないちょっとした言葉とか、そんなことまでもが克明に記憶に刻まれている。全部覚えている。


 明日から、もうこの毎日はどこにも存在しないのだ。二度と千草に会えないわけでもないだろうに、こんなに絶望的な気持ちになるのはなぜだろう。この世の終わりみたいに真っ暗になる。


「おい、なんだおまえ、公共の場で泣くな、みっともない」


 くぐもった声が、珍しく少し焦ったような口調で俺を窘める。


「泣いてません」

「嘘をつくな。俺の頭に雨が降ってるじゃないか」


 強がってみたけれど、溢れ出た涙は俺の頬を伝い落ち、千草の髪を濡らしていた。


「だって、千草さんが、そんなこと言うから」


 ずずと鼻をすすってみたけれど、涙は次から次へと溢れ出して止まらない。


「…悪かった」


 ごそごそと狭い空間で手を動かした千草は、俺の胸をぐっと突っ張り少しだけ開いた空間に右手を突き出した。その手に握られたハンカチが乱暴に俺の顔に押し当てられる。

「涙ならまだしも、鼻水を垂らされたら困る」

 怒ったような困ったような表情で俺のことを睨み上げる千草とようやく目が合う。どうしようどうしようと思いながらまともに千草の顔を見られずにいたのだということに今気がついた。もっともっと、目に焼き付けておかなければいけなかかった。こうやって俺を睨む強い視線が何よりも好きだ。低い位置から見上げられるとゾクゾクする。


「千草さん、卒業しちゃヤダ」


 千草の手からハンカチを受け取り、そのまま千草の手を握り込む。


「だけど、卒業おめでとう」


 現実は受け止めなくてはいけない。いつまでも駄々をこねる子どもでいたら、いつまでたっても千草には追いつけない。置いていかれるこの寂しさを、俺は追いかけて駆け上る原動力に変えなければいけない。


「きったない顔で格好付けてんなよ、バーカ」


 我慢の限界とばかりに吹き出す千草の顔を見て、ああ可愛いなあとしみじみ思う。

 もらったハンカチで綺麗に顔を拭くと、もう涙は止まっていた。


「ええと、ハンカチ返した方がいいっすか?」

「いるか、そんなぐちゃぐちゃになったやつ。いいよ、やるよ。お前がハンカチを持ち歩くやつか知らないけどな」

「宝物にします」

「しなくていい。お前のその揺るぎなくまっすぐなところは結構好きだけど、疲れるな」


 大きくため息をついた千草は、休憩でもするみたいに再び俺の体に額を付け、体重を預ける。

 褒められたのか怒られたのかよくわからない。だけどこの体重と体温が愛しくてたまらなく、腰に回した腕でぎゅっと抱きしめる。千草は一瞬身じろぎしたけれど、ろくに体も動かせない満員電車の中で振り払うのも叶わず、すぐに諦めたように動かなくなる。どうせ二人がどんな体勢にあるのかなんて、周りからは見えやしない。異常に密着した空間の中で、視界のほとんどは奪われている。


 最後の時間だと惜しんでいるのは千草も一緒なのだろうか。それとも最後ぐらい好きにさせてやろうという優しさだろうか。もっとこうしていたいと、俺と同じに思っていてくれたら嬉しい。





 だけど電車を降りる頃には千草はいつもと同じで、名残惜しさなど欠片も見せずいつも通りに無言でバス乗り場へすたすたと歩いていく。左足を少し引きずる愛しい背中を、大切に大切に見送る。毎日見つめたこの制服の後ろ姿を見るのもこれが最後だ。

 明後日からは俺一人だけの毎日が始まる。あと2年、そんな日々が続く。


「ああ、俺、耐えられるかな…」


 正直まだ想像ができない。それでも時間は残酷に誰にでも平等に訪れるのだ。いつか当たり前になる。千草のいない毎日が普通になる。俺たちはまた別の場所で違う関係を紡いでいかなくてはいけない。別の道というのがちゃんと存在するのかどうかも不安でいっぱいなのだけれど。


(これっきりさよならになんてならない、よね?千草さん…)


 絶対ないとも言い切れないのが千草という人なのだ。だから俺はこんなにも終わりを恐れていた。約束しなくたって毎日会える固く守られた時間はもうない。千草との時間を手に入れるためにこれから俺は真っ暗闇に手探りで突っ込んでいかなくてはいけないのだ。その先に千草の姿を見つけられるといい。その手をしっかりと掴めるといい。


「くっそ、二年早く生まれたかったな」


 自転車に跨がり、唇を噛んだ。ぐいと力を込めて漕ぎ出す。

 まとわりつく何かを振り払うように加速した。速く。速く。進むしかないんだ。




<終>

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