ロシアンルーレット22

 千草を怒らせてしまった。難解な思考回路を持つ千草を理解することは馬鹿な俺には難しいけれど、金城の助けも借り、怒らせた理由は俺なりに理解したつもりだ。果たしてそれが正解なのかどうかというのは本人に聞いてみない限りわからない。とにかく、すぐに千草に謝ろうと固く心に誓い、翌朝を迎えた。

 千草に会えるのはいつもの朝の電車の中。そこだけは確実にコンタクトが取れる場所だ。そう意気込んで電車に乗り込んだのだが、そこに千草の姿はなかった。


(休み…?)


 千草だって病欠することもあるだろうし、何かの都合で休むことだってあるだろう。性格からして寝坊して遅刻なんていうことはなさそうだが、もしかしたら俺と顔を合わせたくなくて一本前の電車に乗った、という可能性はあるかもしれない。


 言いようのない不安が俺を襲う。胸の内に抱えている物があるだけに、ここで会えないというのは重くのしかかる。

 昼休みにでも一度千草の教室を確認してみようか、とも思ったが、自分が避けられていた場合にその事実を認識する勇気がない。

 きっと風邪でもひいただけだ、明日になればきっといつも通り、何事もなかったかのように電車に乗っているに違いない。そう自分に言い聞かせて俺はまた次の朝を待つことにした。


 しかし、二日経っても三日経っても電車の中に千草の姿はなかった。さすがにこれは何かまずいことが起きているのかもしれない。病欠であれば心配だし、避けられているのであればそれはもう深刻な状態であるし、もしかしたら既に自由登校に入っているという可能性も考えられる。とにかく状況を探ってみようと意を決して3年生の校舎に向かった。

 3年生の教室ではいつもと変わらぬ昼休みの光景が広がっている。これだけの人数が登校しているのだから、自由登校だという可能性はまずないだろう。

 千草の教室を覗いたけれど、いつも座っている千草の席に千草の姿はなかった。鞄もないようなので、どこかに席を立っている訳ではなく、欠席に違いない。


 とりあえず俺が避けられて違う電車で登校していた訳ではないとわかって少しほっとした。だからといって俺のことを怒っている事実は変わらないだろうけれど。あの千草が自分の生活を変えてまで俺を避けるなんていうことをすると思ったらそれはもう絶望的だったから。そうではなかったことに安堵する。


 けれど同時に心配は増す。こんなに長く休まなければいけない病気ならば、きっと千草は苦しんでいるに違いない。千草は身体の線は細いけれど健康的で、俺が出会ってからこれまで一度も学校を欠席していないはずだ。俺もそうだが、普段あまり病気をしない人間が倒れると、それはもうきついのだ。肉体的にも精神的にも。


(金城なら何か知ってるかな)


 ストーカー紛いのあいつなら何か俺の知らない情報を持っているかもしれないと、俺は金城のクラスへと移動する。その姿を見つけて声をかけると、金城はこれまで見たこともないような低いテンションで、興味なさそうに「ああ…」と返事をした。


「ちょっと、あんた、なにそれ。どうした!?」


 しっかりしろと肩を揺さぶると、金城は地を這いつくばるような重たいため息をこぼした。まさか千草がいないだけでこの人はこんなふうになってしまうのか。常日頃から異常なやつだとは思っていたが、まだまだ認識は甘かったらしい。それとも、千草の病気がそれほど深刻なのだろうか。心臓が嫌な感じに早鐘を打つ。


「入試の結果が出たんだけどさー」


 しかし俺の心配をよそに、金城の口から出たのは全く別の話だった。


「なんすか、行きたいとこ受かんなかった?」

「おまえ、受験生に向かってよく平気でそんなこと言うな」

「だってあんたそんなデリケートじゃないじゃないっすか」

「なんかそれ、お前だけには言われたくないね。言っとくけど、俺は優秀な成績で合格してるからな」

「じゃあなんでそんな沈んでんですか」

「だってさ、これでミナと別々のところに行くことが完全に決定しちゃったじゃないか」

「自分で別の学校受けといて今更何言ってんすか」


 机に突っ伏しておいおいと泣き真似をする金城を俺は冷ややかな目で見下ろす。けれど、想像していた現実と、実際目の前に突きつけられた現実とでは違うこともあるのかもしれない。俺も、千草が実際に卒業してしまったらこんなふうにショックを受けるのだろうか。覚悟なんて、現実を知る前には本当にはできていないものなのかもしれない。


「そんなことより、千草さんどうしたか知ってますか?」

「そんなことって言うな。俺は生半可な気持ちでミナの追っかけしてんじゃないんだぞ」


 身体を起こして憤る金城は完全に拗ねた顔をしていたが、俺が千草のことを知らないのだと知ると途端に勝ち誇ったような顔になる。


「おまえ聞いてねえの?インフルエンザだってよ。もう熱は下がったみたいだけど、そのあと何日か休まないといけないじゃん?まだ受験終わってないやつもいるし、うつしたら大事だからな」

「そうなんだ」

「ちなみに来週から自由登校だからな、もう千草には会えないかもしんねえぞ。あいつ卒業式しか来ないんじゃない?」

「ええっ!なにそれ。俺まだ謝ってもいないのに」

「こないだのあれか?そりゃ残念だったな。おまえも俺と一緒に打ちひしがれるといい」


 ウシシと笑った金城が悪魔に見えた。頭を鈍器で殴りつけられたように目の前が真っ暗になる。かろうじて残っていた理性で俺は夢遊病者みたいにふらふらと自分の教室へ戻った。





 ありえない。

 ありえない。

 このまま千草が卒業してしまうなんて。

 明日の朝になれば会えると気軽に思っていた日々がもうないなんて。


 部活もさぼって、襲いくる厳しい現実から身を隠するように部屋で布団をかぶり、打ちのめされていた。金城のことを笑える立場ではない。

 まだ謝ってもいないのに。

 まだ伝えていないことがたくさんあるのに。

 このまま忘れられていくなんて絶対に嫌だ。






 もぞもぞと布団から這い出した時にはもう部屋の中は真っ暗だった。それでも電気は点けず、手探りで机の上から携帯電話を取る。

 千草の機嫌を損ねたくないからよほどのことがなければかけないと誓った電話。それを今、震える指で押した。千草は怒るだろうか。でも今、どうしても言葉を交わしたい。

 覚悟を決めて耳に当てた電話からは呼び出し音が長く鳴る。まだ体調が整わず眠っているのか、それともピアノのレッスン中なのか、あるいは着信拒否なのか。その無機質な音の繰り返しが回数を重ねる毎に不安が積もっていく。俺はもう千草に見限られてしまったのかもしれない、そんな弱気に飲み込まれそうになった頃、永遠に続くかと思われた呼び出し音が途切れた。


「もしもし」


 耳に響くのは久しぶりに聞く千草の声。いつも通りの淡々としたどこか不満そうな喋り方。


「千草さん」


 思わず泣きそうになり、声が震える。


「あの、今、大丈夫ですか。寝てたりしました?」

「いや、平気。居間に下りてたから部屋に戻るまで時間を食っただけだ」


 俺とゆっくり話すために部屋に戻ったのか、それとも携帯が部屋においてあったのかは知らないが、そこは勝手に都合のいいように考えておこう。テンションを上げていかないと伝えたいことも伝えられずに終わってしまう。せっかく覚悟を決めて電話をしたのだからしっかりと自分の思いを伝えなければ。


「体、大丈夫ですか?インフルエンザだって聞きました」

「もう何ともないけど、明日までは家に居ろって医者に言われてる。ピアノのレッスンも行けなくて暇だ」

 意外にもご機嫌は良さそうだ。ちょうど暇を持て余していたところにいいおもちゃが転がってきたみたいなタイミングだったのかもしれない。俺、グッジョブ。

 その上、暇だと子供みたいに拗ねている様が何とも可愛らしい。そんなこと口にしたら途端に機嫌悪くなるだろうから絶対に言わないけれど。


「この前はごめんなさい、千草さん」


 電話口の様子からまだ怒っているような素振りは感じられなかったけれど、うやむやにすることは千草が嫌いそうなので俺はまずそこから切り出した。


「千草さんが卒業したって、俺は千草さんを諦めないっすから。俺が千草さんを好きなのは変わらないです」

「俺はそんなもの求めた訳じゃないが?」


 俺の熱い告白に返ってくるのは冷ややかな言葉だ。だけどこれはいつも通り。別段機嫌を損ねた訳ではない。いつの間にか声だけでそんなことまでわかるようになっている。まあ、多分、なのだけれど。


「わかってます。これはただの俺の決意表明っす。約束が欲しいとかそんなこと言いません」


 俺の言葉に何を考えているのか、少しだけ間があく。


「別に俺のことなんて忘れてくれて構わないけど」


 俺の出した答えが正解だったのかどうか、合否の発表はしてもらえないらしい。ただ本気まじりの冗談で千草はそう答えた。

 せっかく盛り上げてきた心がすとーんと落とされる。千草を忘れるなんて、ありえないのに。


「そういう酷いこと言わないで。俺今かなりの傷心なんすから」

「傷心?おまえが?なんで?」

「だって来週から自由登校なんでしょう?明日休んだらそのあと土日でもうあとは自由登校と卒業式しかないじゃないっすか。もうあの電車で一緒に登校することはないのかなと思ったら俺悲しくて悲しくて」


 だからこうして叱られるのを覚悟で電話をかけたのだと切々と訴えるけれど、千草はそんな俺を笑った。声を出して笑うなんて、本当に珍しいほどに機嫌が良い。


「俺、まだ何日かは出るつもりだったけど?」

「えっ、そうなの?千草さんのことだからてっきり、不必要なことはしない主義かと」

「じゃあ、期待に応えて行かないでおくか」

「だめっ!そんなときだけ期待に応えなくていいから!学校に用事がなくても俺のために来て。お願い」

「どうして俺がお前のためにわざわざ?調子に乗るなよ」

「はい、ごめんなさい」


 不意に落ちた声のトーンにしゅんとなる。千草の繊細な心の機微をつかみ取るのは容易ではない。どこまでが許されてどこからが許されないのか、見極めがとても難しい。馬鹿な俺にできることは、やりすぎてしまったら素直に謝って反省すること。これができれば千草はわりと寛容だと気がついた。わからないことを質問してしまうのもそこそこ許される行為だ。一歩間違えると倍ぐらいの勢いで怒られるハイリターンハイリスクなのだけれど。


「家に居ても受験勉強する訳でもないし、暇を持て余すからな。気が向いたら行く」


 千草はそう締めくくると、用はそれだけかと電話を終わらせようとする。怒っている訳ではない。あとはまた電車で会った時でいいだろうという話だ。


「あ、待って、千草さん。あと一個だけ」

「なんだ?」

「俺がこうやって電話しても、千草さん嫌じゃないっすか?」


 だって、あんなに恐る恐るかけたのに、千草は案外楽しそうにしていたから。


「まあ、俺が暇なときなら。嫌なら最初から番号なんて教えない」

「じゃあ、千草さんに会えない日は毎日かけてもいいっすか」

「バカかお前は。いいわけないだろう。俺が暇ならって言ったろ」

「かけてみないと千草さんが暇かどうかわかんないじゃないすか。暇じゃなかったら切ってくれていいです」

「鬱陶しいわ!」

「だって、千草さんと電話してみて俺すげー楽しかったもん。電話越しの声とかいつもとちょっと違ってすっごいゾクゾクするし、電話の向こうで何してんのかな、どんな格好してんのかなとか想像したらドキドキするし、俺電話がこんなにすごいものだって知らなかったっす」

「知るか、変態!」


 怒鳴り声もまた最高、なんて思っていたらぷつりと通話が終了した。


「あ…」


 けれど笑いがこみ上げる。怒らせたけれど先日のようにシャレにならない類いのものではない。それぐらい、声を聞いていればわかる。多分、だけど。他の情報がない分、電話だと声音がわかりやすいのかもしれない。あるいは他の情報がないことにかこつけて都合よく脳内変換しているだけかもしれないが。

 本当に、とても楽しかったのだ。千草と繋がっていられることが嬉しかったのだ。たとえ学校で会えずとも、毎朝の電車で話せずとも、こんなふうに繋がる方法もあるのだと知った。それは千草の卒業を目前にした俺にとって大きな意味があることのように思う。


(千草さんも楽しかったと思ってくれてたらいいな)


 少なくとも暇つぶしにはなったのではないだろうか。これから先、千草に暇な時間がどれほどあるのかわからないが、いつか暇だからと千草から電話をくれる日が訪れないだろうかと、俺は果てしない夢を見た。



<終>

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