ロシアンルーレット21

 すし詰めになった満員電車、後ろからの圧力を味方に付けて反対側の扉付近に立っている目標まで今朝もなんとかたどり着く。毎朝満員電車に揺られるようになっておよそ10ヶ月、身につけたスキルで最近ではほぼ100%の確率で狙った場所に移動できるようになった。


「おはようございます。千草さん」


 いつものように声をかければ目の前の美少年がちらりとこちらに視線を向ける。満面の笑みの俺とはまるで異なるテンションで、にこりともせずただ視線を上げただけだが、それでもガン無視だった当初に比べればこちらを見てくれるだけでたいした成長だと思うのだ。


「今日はまた一際混んでますね」


 緩いカーブで背後からぐっと人の体重が乗っかってくる。千草の頭のすぐ脇、ドアに手をついて体を支えると、白く曇った硝子に手形が描かれた。

 寒い日の朝は窓硝子が白く濁って車内の閉塞感が増す。密着する千草との距離もいつも以上に近く感じる。効きすぎた暖房が必要以上に体の熱を上げ、徐々に鼓動も上がっていく。

 目の前のこの人をいっそきつく抱きしめてしまいたい衝動をぐっとこらえながら腕を突っ張って正気でいられる距離を保つ。誰にも咎められることなく密着できる大義名分である満員電車だがしかし公共の場であるためひたすら衝動を我慢しなければいけない過酷な場でもある。


「この苦行からも俺はあと少しで解放だな」


 涼しい顔の千草は、眉間に皺を寄せる俺を嘲笑うように呟いた。今日はわりと機嫌が良いらしい。


「俺はあと2年もあるんすよ」

「俺だって3年耐えたんだ。誰にだって平等だよ」


 年の差を見せつけられる。たった2年がこんなに大きい。この先2年も千草のいないこの電車を、思い出に浸りながら切なく一人で乗り続けなければいけないと思うと絶望感に打ちひしがれる。

 直視したくない事実を、この頃時折俺に見せつけるように千草はわざとそうしているような気がする。どうしてか、なんて俺にはわからないが、千草の卒業を匂わす言動をあえて行う。いつまでもこのままではいられないのだと俺に刻む。


 こうして一緒に登校できるのはあと何回だろうか。


 浅はかな俺は卒業式までの日数を数えていたが、もっと前から自由登校の期間があるのだいうのをつい先日聞かされたばかりだ。自由登校となれば千草の性格からしてまず来ないような気がしてならない。単位が足りないなんていうこともないだろうし、進学先だってもう決まってしまっているのに、登校する理由が見つからない。

 もしかすると、もうあと両手で足りるぐらいしかないのかもしれない。


 がくりと突っ張っていた腕を折り、肘で体を支えながら大きなため息をつく。意図したわけではなかったが、結果的に千草との距離がぐんと近くなり、頭ひとつ低い位置になる千草のさらさらの黒髪がふわりと俺の顎から首筋をくすぐる。シャンプーのいい香りがして、衝動的に俯いた。千草の髪に顔を埋める。


「おい、こら」


 下からくぐもった抗議の声が聞こえたが、沸き上がる感情を止められなかった。


「千草さん、好きです」


 思いをあふれさせる唇から、千草の耳まで距離は10センチもない。これだけ他人と密着した車内でも周りの人には聞こえないだろう小さな小さな囁き。それでも千草には届くように。言葉以上に複雑なたくさんの思いを乗せて微かに空気を震わす。


 千草は身じろぎもせず、言葉も返さず、しばらくしてから俺の腹に力の乗らない軽いパンチをくれた。その拳が離れてしまう前に咄嗟に掴み返し、そのままぎゅっと握り込む。身長と同様、一回り小さな拳を包み込みながら握られた指を伸ばしていき、自分の指と絡める。熱があるみたいに火照った俺の熱い指とは違って、千草の細くて長い指先は少し冷たくて、そして掌は少し汗ばんでいた。

 その感触を覚えるようにゆっくりと指を滑らせてなぞると、千草は逃げるように手を引いた。


「…知ってる」


 独り言みたいに千草が小さく漏らす。時間差がありすぎて何かと思ったが、多分さっきの告白の返事だ。前にも同じような会話をしたことがある。


 俺の思いを受け止めて容認してくれていることはわかっている。でも千草の気持ちはわからない。一度も教えてもらったことがない。教えて欲しいと頼んだこともない。そんなこと怖くて聞けるわけがない。


 正直、このままでいいと思っている。今のままでも俺は満足だし幸せな毎日だ。だけど、このままではいけない。千草が卒業してしまったら、今のような毎日は送れない。何の約束をしなくたって必然的に毎日顔を合わせるこの日々が終わってしまったら、今のこのぼんやりとした関係がうまく続くはずもない。


「千草さん、俺、何か約束が欲しい」


 卒業しても途切れない確かな何かを。何だっていい。恋人同士になりたいとかそんな贅沢なことはいわないから。ただ、俺とこの人とを繋ぐ何かが欲しい。


「は?何を?」

「わかんない。けど、こんなふうに毎日会えなくなっても耐えられるようなものが」


 縋るようにそっと、気付かれないぐらいにやんわりと、その髪に口づける。

 すると急に千草は勢いよく顔を上げ、俺は顎に激しく頭突きを食らうことになる。


「痛ってー…」


 二人の体の隙間から千草の手が伸び、今し方ダメージを負った顎をむんずと掴まれた。


「甘ったれてんな。それはお前の問題だろ。俺に頼るな。携番返せ」


 10センチの距離から浴びせられる怒号はとてつもない破壊力で俺の胸を容赦なくえぐる。本気で泣きそうだ。

 久しぶりに千草を怒らせてしまった。最近はなかなかいい雰囲気になってきたと思って油断していた。そうだった、こういう人だった。


「ご、ごめんなさい」


 しゅんとなって俺は千草の言葉の意味を考える。ぷいと横を向いてしまった千草の髪に、今度は触れてしまわないように顔の距離を保って必死に考える。


(俺の問題、か…)


 相手があることなのに一方的に俺の問題にされてしまうのは釈然としない。不安だから何かを求めるのはそんなに怒られるべきことなのだろうか。


(千草さん、冷たい…)


 千草が俺に冷たいのなんて最初っからで、だけどそれは別に相手のことを考えていないわけではなくて言葉をオブラートで包まないだけなんだっていうことは最近やっとわかってきて、意地悪なことはよく言うけれど間違ったことは言わなくて、近づいてみれば思った以上に誠実な人なのだと気付いた。だからきっと理不尽に思える怒りにもちゃんと意味があるのだろう。俺はそれを理解しなければいけない。千草が何を思って怒ったのか、わからなければ本当に未来がない気がする。


 だけど俺の単純バカな頭では、繊細で複雑な千草の心を推し量れない。脳みそがオーバーヒートして途方に暮れる。

 それから千草は一度も俺と視線を合わさず、電車を降りたらまるで他人みたいにさっさと人混みに消えていってしまった。





 休み時間になる度に3年生の校舎まで赴き千草の様子を窺ったが、怒りは持続しているようで一向に相手にしてもらえなかった。

 さすがにへこむ。部活の時間になっても走る気なんてこれぽっちも起きなくて、運動場の端っこで膝を抱えて座っていた。

 すると隣に気配を感じ、ボフンと勢いよく背中を叩かれる。


「なんだ、おまえ、皆川と喧嘩でもしたのか?」


 顔を上げればそこには金城の姿があった。


「大きなお世話だ」


 憎まれ口を返してみたが、いつもみたいな勢いも乗らずただのぼやきみたいにしかならなかった。自分でも感じ悪いと思ったが、それで去っていってくれれば今はそれでよかった。こんなふうに落ち込んでいるところを一番見られたくない相手だ。

 なのに、何を思ったのか金城はどっかりと俺の横に腰を下ろす。丸まった俺の肩に腕を回しぐっと力を込めた。


「この無類の世話好きお兄さんが悩める少年の話を聞いてやろうかね」

「は?」


 嫌がらせかよ、と顔を上げて隣をキッと睨めば、そこには予想に反して真面目な顔があった。


「話せよ。お前はどうでもいいけどミナがあんな顔してんのは気になるだろ?マジで怒ってんじゃん、あいつ」


 千草のため、と言われてしまえば突っぱねることも出来ず、だいたい千草絡みの時の金城のしつこさを考えると抵抗することの無駄さは火を見るよりも明らかなのだ。俺は諦めて今朝の経緯をかいつまんで話した。


「あー、なんかわかった気がするわ」


 聞き終わるとすぐに金城はそう言って遠い目をした。


「わかるんすか!?」


 一日中考えたって俺にはわからなかったのに、こんなに簡単に金城はわかったと言う。千草との付き合いの長さが成せる技なのだろうか。あるいは第三者だからこそ見えるものがあるのだろうか。それとも俺とは脳みそのスペックがそもそも違うからなのか。


「わかんないのか。お前は馬鹿だね」


 そんな一言を残し、よいしょと立ち上がった金城の足を俺は咄嗟にガシッと掴む。


「ちょっと、教えてくれないんすか?」

「なんで?話は聞いたし理解したからもう俺普通にミナに対処できるもん。サンキューな」


 相談に乗ってやろうみたいな顔をしておいて、本当は何があったか知りたかっただけだったらしい。が、金城の思惑はさておき、ここで逃がすわけにはいかなかった。答えが見えたというのならば何としてでも聞き出したい。金城の出した答えが必ずしも正解であるとは限らないが、何の答えも見つけられない自分よりは真実に近いと思うのだ。


「じゃなくて、教えてくださいよ。千草さんの機嫌が直った方があんたもいいんでしょ?」


 立ち去ろうとする金城と、その足にしがみつき阻止しようとする俺の地味な攻防が続く。先に折れたのはどんなに頑張っても馬鹿力の俺の手から足を引き抜くことが出来なかった金城の方だ。


「わかったよ。しょうがないな」


 諦めて再び地面に腰を落とした金城は胡座をかいて先程まで力一杯握られていたふくらはぎの辺りをさする。だいぶ痛かったらしい。ちょっとだけ心の中で反省する。だけど俺だって必死なのだ。


「お前はさ、何が不安なんだ?」


 人生の先輩面してかなり上からの物言いだが、今は気にするところじゃないし、実際先輩なのだから仕方がない。俺は素直に金城の言葉を飲み込み、そして答えを探す。


「卒業して、変わってしまうことっすかね」

「何が?」

「何がって、そりゃ、だって、今みたいに簡単には会えなくなるし、そしたら千草さんは俺のことなんてすぐ忘れちゃいそうだし」

「要するにミナの心が変わってしまうことが不安なわけだな。まあ、普通だな」

「普通で悪かったっすね」


 バカにされたのか呆れられたのか、これ見よがしなため息をつく金城にイラッとしながらも、自分の考えが肯定された気がして少し安心もした。


「じゃあ今度は普通じゃない皆川千草くんの思考で考えてみよう。あいつにとってお前はどんな存在だ?」

「どんなって…うーん…自分のことを好きだと言って寄ってくる奴で、だけど容認してくれてるってことは一応俺のことは憎からず思っていてくれていて、案外楽しかったり、とか?」

「わかりやすくまとめるとすれば、犬だな。自分にすっげー懐いてて何かっていうとじゃれついてくる犬っころだ。そんな犬をまあそれなりに可愛い奴めと思って時折撫でる感じな」


 自分が想像したものとはだいぶ毛色が違う気がするが、かなりうまいこと言い当てている気もする。実際、俺の都合のいい妄想を全部省いたら、千草の中で俺はその程度なのだろう。


「そんな勝手にやってくる野良犬がある日俺に首輪をつけてくれと言ってきたとしたらあいつはどう思うだろうな」

「来たければお前が勝手に来たらいいだろ、つって投げ捨てる、かな」

「だろ?俺が欲しくて飼ってるわけじゃない、お前が来るから一緒にいてやるだけだ、っていうことだな。まああいつの頭の中はだいたいこんな構造だろうよ」


 プライドが高くて一匹狼で俺様で、千草はいつもそんな感じだ。さすがに金城はよくわかっている。


「お前の問題って、そういうことか…」


 俺と千草の関係は俺の気持ちで成り立っている。千草の自発的な思いは関係なく、ただそれを受け止め容認しているだけ。つまり、千草の中では「お前の気持ちが途切れなきゃそれでいいんだろ?」ということなのだ。思い続ける自信がないんだなと失望されてしまったわけだ。


「…難解すぎるよ、千草さん」


 泣き言を漏らすと金城は満足げに鼻で笑った。悔しい。


「でもさ、怒ってるってことは、俺に思い続けていて欲しいってことでいいんすかね?」

「いや、それは…どうだろうな」


 金城が真剣な目をして首を傾げるから、その答えは不正解である気がしてきた。千草の心は計り知れない。もっと単純に、俺のことを好きになってくれたらいいのに。


 気持ちを入れ替えるように大きく深く息を吐き、そして吐いた分だけ一気に吸い込む。勢いよく立ち上がると金城に礼も言わずに走り出した。陸上部の連中に合流すると、お前何やってんだよとあっちこっちから小突かれる。

 さぼっていたバツとして課せられたダッシュ20本をこなしながら、明日の朝もう一度千草に思いを告げようと心に決める。


 俺の気持ちは変わらないと伝えよう。会えなくて不安になったとしても乗り越える強さで千草を思い続けると誓おう。

 そうしたらまた笑ってくれるだろうか。

 いつもみたいに、好きにしろと許してくれるだろうか。



<終>

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