ロシアンルーレット20

「あー、つまんねー」


 居間のこたつでゴローンとだらしなく寝そべりながら俺は体中のやる気を全て失った状態でうだうだ過ごしていた。

 冬休みに入り、新年を迎え、もう10日以上千草に会っていない。その姿を見る事も声を聞く事もない日々はなんと張り合いがなくつまらないのだろう。

 休みなんて早く終わればいい。勉強は嫌いだけれど、学校に行けば千草に会える。それだけが今の俺の生き甲斐であり楽しみなのだ。友達とか部活とか、楽しい事はたくさんあるが、やはり千草の存在がなければパンチが足りない。


(だけど春になったらこんな日が毎日続くのか)


 千草が卒業してしまうなんて考えただけで恐ろしい。

 現実から逃げるように、俺はこたつ布団の下に顔を隠す。そんな事をしたって何も変わらないけれど、結局どうする事も出来ないのだ。春になれば千草は大学生で、俺はまだあと2年も高校生で。その年の差はどうやったって埋められない。


「わっ、ごめんお兄ちゃん、そんなとこにいたの?」


 頭を潜り込ませたために反対側からとび出してしまった足をむぎゅっと妹に踏みつけられる。年の離れた妹は、だらけた兄の姿を見て悲しい顔をした。


「お兄ちゃん、ちょっと走ってきたら?」


 頭で考えるよりも体が先に動くタイプの兄が、いつも腐るととにかく走って解消することを妹は知っているらしい。


「寒いけど今日はすごくいい天気だよ?」


 こんな兄でも慕ってくれる出来た妹だ。ウザイなんて言われた事もない。そんな妹が多分今、心の中で鬱陶しいやつだと思っているのだろう。


(さすがにまずいな)


 もぞもぞとこたつの中から這い出ると、軽く体を解して表に出た。

 妹の言う通り、いい天気だった。風は冷たいけれど、陽射しがほのかに暖かい。走るには絶好の天候だ。窓の外を見て天気を感じることすらしていなかった自分にやっと気がついた。


 走り出してしまえば、体が勝手に動き出す。これがいつもの俺なのだと体が主張しているかのように、すっと軽くなっていく。全身に血が巡るにつれて気分も上昇していくから不思議だ。


(やべ、気持ちいい)


 数日間体を動かしていなかったせいで余計に爽快感を強く感じる。次第に考え事をする余裕もなくなってただ無心にひた走る。心に溜まっていた不純物が全てなくなっていく。真っ白にリセットされる。


 スッキリした気持ちでいつものコースから少しそれて近所の小さな神社に足を向けた。別に信心深い方ではないが、せっかくだから初詣でぐらいして心を綺麗にしようと思ったのだ。まだ松の内だというのに参拝客の姿なんてひとつもない寂れた氏神に手を合わせる。

 神様どうか俺の報われない恋を応援してください。

 卒業して会わなくなって、そのうち記憶の片隅に追いやられていって忘れられてしまうなんてそんなのは嫌だ。

 もっともっと千草の中で大きな存在になれますように。

 急に思いついたのでお賽銭も持っていなかったのだけれど、必死な思いは神様に伝わっただろうか。


 砂利を鳴らして再び走り出す。もう少し長く走っていたくて、ぐるりと遠回りをするコースを頭の中に描いた。その中には当然のように千草がピアノの先生のところへ通う道も含まれている。入試も終わったと言うしこんな正月のうちからレッスンがあるのかどうかは疑問だが、そんなことは気にしない。可能性がほんの1%でも上がるのならそれで十分な理由になる。どこの道を通ったって走るのは一緒なのだから。


 もしかしたら会えるかもと走っているこの道はもう今ではすっかり見慣れた風景で、角を曲がれば白くてオシャレな豪邸が見えてくる。俺は全然知らないが、千草の先生はとても有名なピアニストなのだそうだ。とくにこれといって興味のないうちの母親が知っているぐらいだからかなりの名声なのだろう。


 近づくにつれ大きく聞こえてくるピアノの音に耳を傾けた。先生が弾いているのかもしれないし、すごい先生ならば千草以外にもたくさん生徒さんがいるだろう。けれどその音を聞いて俺は直感的に千草だと思った。音楽なんて縁もゆかりもなく育ってきた俺に音の違いなどわかるわけもなく、おそらく単なる自身の願望からそう思いたかっただけなのだろうが、本当に直感的に、もしかして?と思ったのだ。

 俺の直感がただの勘違いだったとしても、誰かがレッスンを受けているのだろうということだけはわかったので、俺はその場で休憩を取ることに決めた。この人のレッスンが終わって出てくるまでだけ待ってみよう。本当に千草だったらラッキーだし、もしかしたら次が千草の番でもう少ししたらやってくるかもしれない。そんな健気な乙女のようなことを考えて、俺は大きな屋敷のお洒落な塀に背中を預けた。途中で買ったスポーツドリンクを不自然なぐらいゆっくりと口に含む。


 そろそろ近所の人に不審者だと思われるのではないかという頃、玄関口で挨拶を交わす声が聞こえてきた。


(これマジ千草さんじゃん)


 漏れ聞こえてくるその声は紛れもなく千草だ。ピアノの音はわからないが声ならかすかであろうと判別できる。


(神様ありがとう。お参りして良かった!)


 目を閉じて両手を合わせ、神様に思いつく限りの賛辞を述べてみる。明日からもっと信心深くなろうか。後払いというシステムが受け入れられるものなのか知らないが、今度賽銭ぐらい入れに行こう。


「そんなとこで、何してるんだ」


 耳元で声がして目を開けると、いつの間にか外に出てきていた千草がそこにいた。久しぶりに見る生の千草はあまりにも美人すぎて刺激が強い。一目惚れしたあの時の気持ちを思い出した。会えなかった日々のつらさもこのトキメキのためだと思うと、一瞬にして忘れてしまえるぐらいだ。


「千草さん、あけましておめでとうございます」

「相変わらずのんきだな、おまえは」

「ランニングの途中っす。千草さんに会えたらラッキーだなと思いながらちょっと休憩してました」


 えへへと笑えば千草は呆れたような顔で俺を見る。実際には背丈の違いから俺を見上げているものの、完全に上から目線のこの強い視線がたまらない。ああ、千草が目の前にいるのだと実感する。


「ずいぶん長い休憩だな。レッスン室からちょうど見えるんだよ、ここ」

「え…あれ、俺ばれてました?」


 千草さん驚くかな、なんて思っていた自分が急に恥ずかしくなる。一体いつから見られていたのだろう。けれど、恥ずかしくはあるが、千草が俺の存在に気付いていてくれたという事実が嬉しくもある。いつも俺の方が一方的に千草を見つけて近寄っていく構図ばかりで、千草が俺を見つけてくれるという状況はあまりお目にかかった事がないのだ。


「先生が不審者かなって不安な顔をするから、俺のストーカーだから大丈夫ですって言っておいたぞ」

「ちょ、なんてこと言うんですか!」


 あながち間違いではないけれど、せめて友人という括りに入れてはもらえないのだろうか。


「ご近所さんに通報される前に行くぞ。先生の家は見ての通りの資産家だからな、泥棒かと思われるぞ」

「確かに…」


 あらためてその大きなお屋敷を見上げて、それから感心している場合じゃないと千草の後を追って歩き出す。どうやら隣に並んで歩く事は許されたらしい。


「ほんとに気持ち良く走ってたんですよ?千草さんに会えなくてあんまりにも腐ってたんで、妹に家追い出されて」

「ふーん」


 ちらりと俺を一瞥した千草は興味なさそうに相槌を打つ。結構わかりやすくアピールしているつもりなのに、もうちょっと関心を持って欲しいものだ。切ない。


「そりゃちょっとはもしかしてって思ってましたけどね、こんな正月からレッスンしてるとか思わなかったんで純粋に走ってたんす」

「なのにあんなに待ってたのか?」


 訝しげなツッコミ。ほとほと呆れ返っているのかもしれない。それでも、無関心より何倍もいい。もっと、もっと、俺に興味を示してほしい。隣で規則正しく揺れる千草の手は少し手を伸ばすだけで触れられそうで、でもとても遠い気がする。


「通ったら音が聞こえたんで。なんとなく千草さんかもって気がしたんですよ」

「おまえ、俺の音だってわかるのか?」

「音はわかんないすけど、直感的に。千草さんに会いたいっていう執念かな」

「…怖いな、おまえ」

「すいません」


 表情を窺えば、眉間にしわを刻んで嫌そうにしているけれど、これは本気で嫌がっている時の表情ではない。最近、そこら辺の微妙な差がわかるようになってきた気がするのだ。どんなに邪険にされても食いついてきた日々の賜物だ。なんて、俺が勝手にそう思っているだけで本当は全然違うかもしれないが。いつだって千草の心の中は俺みたいに浅はかな人間には計り知れないのだ。


「そういえばおまえさ」


 ふと何かを思いついたように千草が口を開く。


「電話番号とか聞かないのな。偶然出会えるのを待つだけなんて、いつもぐいぐい来るおまえらしくないなと思って」


 それはもちろん考えた事がなかったわけではない。だけどそこまで深入りする事を千草が良しとするとは思えなかったし、聞いたところで機嫌を損ねる自信はあるが教えてもらえる可能性など微塵もない気がして最初から諦めていた。どうも千草は基本的に個人情報を出すのを嫌っている節があるのだ。最初は名前すら教えてもらえなかったというのに。


「聞いたら教えてくれるんですか?」


 俺の疑惑の目を受け止めた千草は少し考えて「教えないな」と答えた。ほら、俺の判断は正しかった。結局のところ、学校も含めて偶然の出会いを待つほかないのだ。連絡を取る方法なんてない。だから余計に怖いのだ。千草が卒業してしまったらどうなってしまうのか、先が見えない。


「聞かれても絶対に教えないけど、聞かれなかったら教えたくなるのが人間の心理だろう?困ったもんだな」


 千草は心底困惑した様子で呟くと、ふいと顔を背けた。

 それはもしかして、今、俺に電話番号を教えたくなったということか。千草が自ら俺に何かを与えようと、そんな奇跡が起きようとしているのか。こんなラッキーな展開があっていいのだろうか。連絡が取れればこんなふうにストーカー紛いの待ち伏せをされなくてもすむと、そんな理由であったとしても、これはもしかしてすごいチャンスなのではないだろうか。

 それとも。

 また何かの罠だろうか。舞い上がらせておいて突き落とすいつものあれだろうか。


「いや、千草さん、当たり前のように言いましたけどそれは一般論ではない気がします」


 過剰な期待をしてはいけないとブレーキをかけた結果、そんなことを突っ込んでいる俺がいた。俺は意気地なしだ。


「そうか、ならやめておく」


 俺の反応が気に入らなかったらしい千草は冷たく言い放ち、その顔からは表情が消えていた。


「ごめんなさい、千草さん。嘘です。教えて下さい」


 慌てて泣きつくと、まるで虫けらでも見るような視線が降ってくる。


「俺はひねくれ者だからな、教えてくれと言われたら答えはノーだ」

「そんなぁ…」


 俺は文字通りその場でがっくりと崩れ落ちる。そのまま地面に突っ伏して大声で泣きわめきたい気分だった。

 そんな俺を置いて数歩進んだ千草はくるりと体を翻し、打ちひしがれる俺を振り返る。


「おまえ、携帯持ってるのか?」

「え?あ、はい、高校入る時に買ってもらいました」

「今すぐ番号を言えるなら覚えてやらなくもないけどどうする?」

「言えます!」


 今度は即答した。せっかく与えられた二度目のチャンスまでも棒に振るわけにはいかない。

 俺が告げる番号を、メモを取るわけでもなくただ聞いていた千草は、聞き終わるとそれだけでじゃあなと背を向けた。

 本当に覚えたのか、それともどうせ電話するつもりもないので覚えようと思っていないのか、よくわからないがそれを問いつめることは背中で拒まれているような気がして、それ以上声がかけられなかった。これ以上、隣を歩く事も許されてはいない。

 振り返りもせず小さくなっていく背中を、待てを言い渡された犬のように切ない目でじっと見送るだけだ。


 その姿も見えなくなると、ふうっと息を吐き出しランニングを再開した。会えた嬉しさから一転、すっかりかき乱されたこの心のもやもやは、家に帰り着くまでに解消されるだろうか。もうここからは真っ直ぐ家に向かうつもりでいたのだけれど、帰り道もまた少し遠回りのコースを選んだ方がいいだろうか。

 走りながら頭の中でランニングコースをどこにしようか考えている最中、ポケットの中の携帯が一瞬だけ震えた気がした。

 足を止めて取り出すと見知らぬ番号からの着信が一件。


「…これはもしかして、千草さんの!?」


 思わず大きな独り言を漏らしてしまった。近くの通行人の視線がこちらを向くが、気にしている心の余裕などどこにもなかった。

 嬉しくて、嬉しくて。

 俺が千草の番号を得る事を許してくれたことも、あの場で俺の番号をちゃんと記憶してくれていた事も、どうしようもなく嬉しくて。天にも昇るような気分とは、きっとこういうことを言うのだろう。

 さっきまでの態度からここに行き着くまでの、その裏にある心の動きを想像してみたら胸がキュンキュンして鼻血が出そうだ。


「ワンコールするだけって、どんだけツンデレなんだ、あの人は」


 もちろん俺はそのあとすぐに電話をかけ直し、それが本当に千草の番号である事を確認した。返って来たのは「なんだ」という不機嫌な声と「電車だから」という断りの二言だけだったのだが、それで十分だ。


 これがあれば俺の意志で繋がれる。

 その手段を持つ安心感は絶大で、たったこれだけのことで千草の卒業が前ほど怖くなくなっている。寂しくはあるが、怖くはない。


「ぅおっしゃああああああ」


 奇声を発しながら俺はどのコースを走ったのか全く記憶がないぐらい浮かれ気分で家まで全力ダッシュした。





 冬休みがあけてすぐ、まだ浮かれる俺に千草は「番号替えればすぐ切れる」と釘を刺した。電話をかけまくってこいつウザイと思われるような事態だけは避けようと俺が心に誓った事は言うまでもない。



<終>

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