ロシアンルーレット18

 しんと静まり返った部屋にバサリと耳障りな音が妙に大きく響いた。同室に待機中の数人の受験生の視線が一度に俺に集まるのに若干の居心地の悪さを感じる。

 音大入試実技試験直前の控え室での出来事だ。皆ぴりぴりと張りつめている。この中で音を立てるというのは結構なマナー違反であると思う。けれど突発的なハプニングなのだから仕方がない。


「…失礼しました」


 誰へともなく申し訳程度に小さく謝罪を述べて、俺は足元に落ちたスコアブックを拾った。その手が心なしか震えている事に気付き、苦笑する。

 柄にもなく緊張していた。コンテストに出た時だってこんなに緊張した事はないのに、受験というものはまた勝手が違うのだ。

 こんなに緊張していてはいい演奏など出来るわけがないとわかっているのだけれど、そう思えば思うほど体がこわばっていくのはどうしてだろうか。


 拾い上げたスコアを机の上に置き、目の前に自分の両手を広げた。カタカタと小さく震えるそれを握って、開いて。数回繰り返すも治まる様子はなく、じっとりと嫌な汗が掌を包んだだけだった。


(まいったな…)


 正直、これまでこういう事には無縁だった。それなりに大きなコンテストに出たってプレッシャーを感じたりすることは性格的にあまりなかったのだ。元々、人の目を気にしたりする質ではない。こだわりはむしろ自分の中に存在するのだ。練習の段階でそこさえクリアしていれば当日の気分がどうこうなることはなかった。

 なのに今日はどうしたことだろう。練習不足などの不安があるわけでもないのに、何をこんなに恐れているのだろう。

 こんなふうになった事がないものだから、その対処の仕方も知らない。知らないものをあれこれ考えても答えなど出るわけもなく、更に状況を悪化させていくのだ。


(これ、受かんなかったらどうしよう…)


 受からなかった時の事など考えもしなかったことに今更気付く。


(もし俺が浪人したら…、もしかしてあいつが喜ぶんじゃないのか?)


 ふとそんな事を思った。2年の年の差をとても気にしている達樹は、学年が一つ近くなる事を喜ぶかもしれない。2浪すれば大学で同級生、なんてことをウキウキと想像するかもしれない。


(うわ、ムカつく)


 さすがにそんな事態は避けたい。

 こんな気分をもう一度味わうのも嫌だし、やはり目の前のこれをなんとしてでも乗り切らねばと思う。


(そういえばあいつ…)


 達樹の事を考えていたら昨日の事が思い出された。ふっと頬が緩む。

 





「えっ、千草さん、明日入試なんすか!?」


 言うつもりなんてなかったのにひょんな事から達樹にバレた。

 俺たち3年生には目の前にある現実でも、1年の達樹にとっては大学入試なんて朧げなものだろう。達樹は唐突に突きつけられた現実に驚き、そして固まる。何か気のきいた事を言わなくちゃと思うのに普段考えた事がないから何も言葉が出てこない、という状況がありありとわかる顔色で押し黙った達樹に、不意にいたずら心がわき上がる。


「何か一言ないの?」


 別に達樹に励まして欲しかったわけじゃない。ただ狼狽える顔が見たくてそんな要求をしてみた。俺が達樹に何かをお願いする事なんて普段全くないだけに、達樹は更に慌てふためいた。


「あっ、あの…えと…、が…」

「ないならいいけど。お前に言われなくても頑張るし」


 月並みに頑張ってと言おうとした口を遮って言葉を先に奪ってやった。


「あります!言います!」


 あわあわとなった達樹はきっと脳内がパニック状態だったのだろう。


「千草さん!好きです!」


 まるで見当違いな事を叫んで俺をぽかんとさせた。


「おまえ、ほんとバカ」

「わああ、違うんです。いや、違わないっすけど、えと、そうじゃなくて…」

「いいわ、別に最初からお前に何も期待してないし」


 想像を超える反応に心の中だけで爆笑する。受験前の人間に告白なんてあり得ないだろう。といってもまあ散々聞き飽きた言葉なので今更それを聞いて俺が動揺してしまうとかそんな弊害が起きるわけでもないのだが。


「ごめんなさい。ああ、俺ほんとダメだ~」


 しょぼくれる達樹を見て可愛いなあと思う。俺も2年前はこんなふうにピュアだったのだろうか。受験だ卒業だと追い立てられるような生活は心がチクチクして嫌だ。将来なんか知らずに目の前の毎日を楽しく過ごせていたあの頃は楽しかったのに。

 そう思ってからふと違和感を覚える。


(2年前の俺、そんな楽しかったか?)


 毎日を楽しい、過ぎ去るのが惜しいと思い始めたのはつい最近なのではなかったか。

 終わりが見えて初めて大切さがわかったのか、それとも新しい出会いがあったからなのか。


 ちらりと達樹の顔を覗き見る。いつの間にかこうして一緒にいるのが当たり前になっている。そしてその当たり前な日常もまたいつの間にか否応なく違う形に変わっていくのだ。


「あっ、じゃあ千草さん」


 突然何かを思いついたのか、達樹はしたり顔になる。何か素敵な言葉でも思い浮かんだのかと、少し期待をしたのだけれど。


「合格したらキスしてください」


 どや顔で言い放つ達樹に俺は大きく大きくとことん大げさにため息をついた。


「なんで俺がお前にご褒美をやらないといけないんだ。逆だろ?逆」

「えっ、俺がキスしていいんですか?」

「そういうことじゃなくて!」


 それではまるで俺が望んでいるみたいではないか。

 こいつの頭の中は一体どんな風になっているのか、一度かち割って中を覗いてやりたい。


「俺のやる気が削がれたらどうしてくれるんだ」

「ええっ、なんでですか」

「合格したくなくなるだろ?」

「マジですか。だめです、それはだめ」

「最悪だな、おまえ」


 だけど嫌いじゃない。こいつのバカで真っ直ぐなところが見ていて本当に飽きない。


「ごめんなさい…」

「言っただろ、最初から期待してねえからいいんだよ」


 力一杯尻をひっぱたいて笑う。

 あうっと変な悲鳴を上げる達樹を見てまた笑う。

 こんなふうに笑う事が、達樹に会う以前にもあっただろうか。

 自分が思う以上に、俺はこいつのことを気に入っているのかもしれない。






 いつしか、思い出し笑いをこらえるのに必死になっていた。気を抜けばこの張りつめた室内で爆笑してしまいそうで、さすがにそれはやばいだろうと奥歯を噛み締めて押し殺す。

 手の震えよりも肩の震えが切実だ。


(だめだ、あいつほんとバカすぎる)


 名前を呼ばれ立ち上がった時には、緊張なんて欠片も残っていなかった。

 導かれるまま廊下へ出て、うっすらとこらえていた笑いをこぼせばいつも通りにリラックスした精神状態が保たれているのがわかった。

 くやしいけれど、これは達樹のおかげだ。この状態ならば合格は確実だなと生意気にもそう思った。

だって良い演奏が出来ないわけがない。こんなにも楽しいのに。



 合格したら何か一つだけお礼をしてやってもいいかな。

 そんなことを心の隅でちょっとだけ思った。



<終>

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