ロシアンルーレット17
電車の入ってくる音が聞こえ、俺はホームへ下りる階段を急いで駆け下りた。まだ早いこの時間の駅は人影も疎らだ。テスト前でもないのにこんな明るい時間に帰るのはなんだか変な感じがする。
駆け下りながら徐々に開けていく視界の先に見慣れた制服姿を発見した。急いでいたって見逃すわけなんてない大好きな千草の姿。少し足を引きずりながら電車に乗り込んでいくその背中を追って、俺は同じ車両に飛び込んだ。
二人掛けの椅子の窓側に既に腰を下ろしていた千草は駆け込んでくる俺の姿をちらりと見上げて、ちょっとだけ驚いたような表情を見せた。
朝は毎日同じ電車に乗っているけれど、帰宅部の千草と運動部の俺とでは帰る時間帯がまるで異なる。たとえ部活が休みだったとしても、電車に乗るまでの間にバスを使う千草と自転車で移動する俺とが同じタイミングになることなんて今まで一度もなかったのだ。これはとてつもない幸運だった。まさか同じ電車で帰り道を過ごす日が来るなんて。
息を整えながら千草の座る座席の方へ向かい、走り出した電車の揺れに体勢を崩しながら椅子の背もたれに掴まった。
「へへ、ラッキー。千草さん発見」
不格好につんのめりそうになった自分を誤摩化すように声をかけると、千草はわざとらしく意地悪にぷっと笑う。
ちぇっと軽くへこんでいると千草は視線をはずし、抑揚のない声で「座れば?」と言った。
「座っていいの!?」
まさか千草の方からそんなふうに誘ってくれるなんて思いも寄らなくて俺は素っ頓狂な声を上げる。
「嫌だと言ってもどうせ座るんだろう?」
千草は迷惑そうに眉間にしわを寄せたが、俺はヘラリと緩んだ顔で千草の隣に腰を下ろした。最近、少しずついろんな事が認められてきているような気がする。諦められているのかもしれないが、それでも俺の粘り勝ちというやつだ。
そんなに広い空間ではないそこに男二人で座ると思った以上に接近する。体が触れるほどではないものの、意外と閉塞感がありドキドキする。
「おまえ、部活は?」
千草はあまり興味はなさそうに窓の外に視線を向けながらぼそりと呟いた。それだけの事でも千草の方から話しかけてくれるなんて本当に珍しくて、俺は舞い上がる。
「今日は家の都合で休みっす」
母方の祖母が具合を悪くしたようで、今朝から母親が実家に帰ってしまっているのだ。2、3日で戻ってくるらしいが、その間の家事と妹の世話を俺が任されている。
「妹いるのか」
妹の話なんて今までした事がなかったから、千草はちょっと意外そうな顔でこちらを見た。
「年離れてるんで、まだ小学生なんすよ。ちょこっと留守番するぐらいなら平気だろうけど、さすがに夜まで一人っていうのは心配なんで早めに帰ってやろうと」
過保護だと思っただろうか、千草はふっと鼻で笑ってまた窓の外へと視線を流す。どうしても妹に甘くなってしまう自覚はあるので、そう思われてもまあ仕方がない。
「お兄ちゃんうざいって言われない?」
「言われないっすよ!」
「それはずいぶん出来た妹だな」
ひどいことを言われているけれど、千草が目を細めて楽しそうな顔をするから、そんなことはもうどうでもいい。どんなに妹が可愛くたって、千草と天秤にかければもちろん千草の圧勝なのだ。千草を笑顔に出来ればそれでいい。
「千草さんは一人っ子ですか?」
なんとなく、そんな感じがする。そもそも誰かと一緒にいるイメージがないし、人付き合いの不器用さなんかも身近に接する人間がいなかったせいなのではないだろうか。もし兄弟がいるというならぜひともお会いしたい。どんな関係性を築いているのか全く謎であるし、上手なつき合い方も伝授していただきたい。
「一人だよ」
予想通りの答えを千草は若干不服そうに口にした。
「やっぱり。なんとなくわかりますよね、そういうのって」
「そう、か?俺はお前に妹がいるなんて思わなかったけどな」
「そっすか?俺結構世話焼きじゃないすか」
「どこがだよ」
どんなに千草に冷たい言葉を浴びせられようともめげずに構いたがるというのは世話焼きというのとは違うのだろうか。自分では年の離れた妹の相手をするのとわりと共通点があるような気がするのだが。
妹は千草みたいに俺にひどいことはしないけれど、赤ちゃんの頃なんてこちらの言う事など何一つ聞いてはくれないし、やりたい放題の子の相手を根気強くし続ける忍耐力という部分では似ているのではないだろうか。
なんてそんなこと口に出したら今すぐ座席から蹴落とされそうな気がするので絶対に言わないけれど。
「だけど妹の話をした瞬間に兄の顔になるんだな。俺にはわからないな、そういうの」
不思議なものを見るような顔で千草は俺の顔を覗き込んだ。首を傾け下から見上げるような角度でからかうようにわざと不躾な視線で俺を凝視したのだ。不意打ちだ。急にそんな事をされると自分が保てない。顔が異常な熱を持つのを感じた。
「照れるなよ、シスコン」
「違うよ」
赤くなるのは妹のせいなんかじゃない。
(俺が心ゆさぶられるのは全部あんたのせいだ)
いつも俺ばかりが必死で追いかけているのに、急にこちらを振り向くから。
俺に興味を示す顔なんてするから。
「千草さん」
椅子の上に投げ出された千草の手に自分の手を重ねてそっと握った。途端にきつい目が俺を睨む。
「ねえ、俺、乗り過ごしてもいいですか。千草さんの降りる駅までもうちょっとだけ」
電車に乗っている時間なんてあっという間だ。もうじき俺の降りる駅だが、まだこの時間を終わらせたくない。自分だけ先に降りる事がこんなにも後ろ髪引かれる事だとは思わなかった。
「早く妹のところに帰ってやるんじゃなかったのか」
叱るような口調で千草は言ったけれど、駅に着いても俺は立ち上がらなかった。だって、握った手を千草が振り払わないから。
「部活を休んだ分、走って帰るからいいんです」
俺の言い訳に、千草は何も返さなかった。
それでもやっぱり握った手をそのままにしていてくれるから、怒っているわけではなさそうだ。盛大に呆れているかもしれないけれど。
なんとなく無言のまま、いくつかの駅を過ぎる。
ひょっとしたら千草の降りる駅も通り過ぎているんじゃないだろうかと少し不安になった。
(そういえば俺、千草さんの家がどこなのかも知らないじゃん)
けれど今更引っ込みもつかなくて、千草が降りると言い出すまで黙っていようと心に決めた。
(まさか、千草さんも俺と離れがたくて乗り過ごしてる、なんてこと…ないよなあ、それはないない)
自分で否定して自分で悲しくなったりしていると、不意に耳元に「離して」と囁かれる。
「ふぇっ?」
俺の口がおかしな音を発するのを聞いて千草はくっと静かに笑った。
「降りるんだよ、バカ」
千草は立ち上がり、乱暴に俺の手を振り落とす。
「あっ、はい」
慌てて立ち上がり、千草に押し出されるようにして電車を降りた。
「走って帰ると結構な距離だよね」
隣で独り言みたいに千草が呟く。
(…わざとだ。この人絶対わざとだ!)
走って帰れる距離じゃないとわかっていてわざと俺をここまで連れてきたのだ。珍しく優しくしてくれると思ったらそういうことか。
「走りますよ。余裕っすよ。陸上部なめないでください」
精一杯の強がりで言ったら「短距離のくせに」と笑われた。
「電車で戻れば?」
反対側のホームへ向かう階段を指し示されたが、こうなったら意地だ。きっぱりと首を横に振り、千草と一緒に改札を出た。
「道わかるの?」
「線路に沿っていけば帰れます」
「じゃ、妹ちゃんによろしく。早く帰ってあげなよ?」
素っ気なく向けられた背中をしばらくぼんやり見送って、俺は鞄をしっかりと肩に掛け直した。
走るのは好きだ。こんな事で千草との時間が手に入るのならどれだけだって走ってやる。
荷物がなければもうちょっと楽に走れるのにと思いながら風とひとつになる。
左手に残る千草のぬくもりを逃がさないようにぎゅっと握りしめた。
「あ、どうせなら千草さんの家まで行けばよかった」
途中で自分の詰めの甘さに気付いてちょっとくじけそうになったけれど、まだ明るいうちになんとか家にたどり着いた。
滝のような汗をかき息を切らせて帰宅した兄を、妹はどう思っただろうか。
<終>
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