ロシアンルーレット9
休日は、家の近所を走ることにしている。
特にコースを決めているわけではないが、小一時間思い付くままに走る。
専門は短距離だが、長距離を走るのも嫌いではないのだ。
だいたい、家にいてもやることがないし、暇だと千草に会えない寂しさをひしひしと感じてしまうだけなのから、可能ならば一日中だって走っていたいぐらいだ。やり過ぎは良くないので、実際は適度なところで切り上げているけれど。
だから、寒い日も暑い日も雨の日でも、学校に行かない日は必ず適量走ることにしている。
「しかし今日はあっついなあ」
まだ午前だというのに、太陽はきつく照りつけ、流れ出す汗が止まらない。
俺は少しスピードを緩めて、携帯しているスポーツドリンクを口に含んだ。
帽子を取り、首にかけたタオルで汗を拭う。
早歩きの速度で角を曲がると、遠く前方を歩く人影があった。
「あれ?」
後ろ姿が千草に似ていた。
「なんで?」
少し左足を引きずる特徴のある歩き方は、遠くからの後ろ姿であっても見間違えはしないだろう。
だけど、こんな場所にいるはずがない。ここは俺の地元で、千草とはご近所さんでも何でもないのだ。遠くからわざわざ出てくるような繁華街でもなく、ただの住宅街。あの千草がわざわざやってくるような場所であるとは思えない。
どんな距離があっても千草ならば見間違えることは絶対にないという変な自信はあるのだけれど、もしかしたら俺の妄想が見せる幻覚かもしれない。休日だというだけで千草に会えなくなってしまうその制度の横暴さを呪う俺の心が作り出した虚像かも。
確認しなくてはと、俺は帽子をかぶり直してスピードを上げた。
短距離の速度で走ることおよそ100メートル、目標の人影を少しだけ追い越して、振り返る。
「やっぱり、千草さんだ」
俺の大好きな顔は、この暑さに歪むこともなく、けれど少しだけ汗を浮かべていて俺をドキドキさせる。全力疾走したことよりも、鼓動を乱れさせる。思いもよらぬ出会いが、いつも以上に俺を昂らせる。
突然のことにぎょっとした千草は、咄嗟に身構えたけれど、やがて大きく息を吐き、力を抜いた。
「なんだ、おまえか…びっくりした」
まさかこんな道端で知り合いが全速力で追ってくるなんて思わないだろうから、強盗か変質者か、などと思ったに違いない。
「こんな帽子かぶっているから、一瞬わからなかったよ」
目深にかぶった帽子のつばを千草の長い指が弾く。
弾かれて浮かび上がる帽子を、俺は再びぎゅっと両手で押し戻した。汗でびっしょり、ぺったんこのおかしな髪型を、千草の前に晒すのは嫌だ。
俺の些細な抵抗に、千草の眉間に薄いしわが刻まれた。
でも駄目です。これは譲れません。格好悪いから嫌です。
そんなセリフを態度で示し、千草の失笑をかう。
「トレーニング、か?」
帽子を取らずとも汗だくなその格好を見て千草が言う。
千草の方から俺に対して興味を示してくれるというのはかなり珍しく、そんなことだけで俺の気分は最高潮になる。
「はい。休みの日でも走っとかないと」
いつもはなかなか俺を見ない千草の視線が、なぜか今日はとことん突き刺さる。
どうせならもう少しましな格好をしている時に見てほしいものだ。こんな汗だくよれよれな時ではなく。
「そうか、そういえば同じ駅だったな」
駅から歩いてきたらしい千草は、そこが毎朝俺の乗ってくる駅だということに、今ようやく気が付いたようだ。
「俺ん家、この辺なんですよ」
「この先でピアノのレッスンをしているんだ。もう何年と土曜日は毎週通ってるんだけど、今まで全然気付かなかったな」
その興味のなさに泣けてくる。けれど千草相手にそんなことでめげていてはやっていけない。そんなことよりも、たとえ今でも気付いてくれたこと、そしてこうして出会えたことを喜びたい。
「俺もいつも走ってるんだけど、時間もコースもバラバラなんで」
今日たまたまこの時間にこのコースを選択した俺の強運を褒めてやりたい。
「いつもニアミスしてたわけか」
何がツボにはまったのか、千草はおかしそうに笑った。
珍しい顔を見た。初めて見る私服姿だし、いつもと雰囲気が違って俺を惑わせる。
もっといろんな姿が見たいと思ってしまう。もっと、深くを望みたくなる。踏み込ませてなんてもらえないと、分かっているのに。
「せっかく会えたんだし、一緒に歩いてもいいですか?」
「トレーニング中だろ?さぼるなよ」
「ちゃんとその分、後で余分に走ります」
千草はいいよとも駄目だとも言わずに歩き出す。けれど多分これは了承だ。駄目なときは駄目だときっぱりと言い放つ人だ。
俺は千草の歩調にあわせて隣を歩いた。
「休みの日も千草さんに会えるなんて幸せっす」
「そりゃ良かったね」
他人事みたいに流されても、俺はそれで満足だ。
「これから土曜日はこの時間にここを走ることにします」
「言うと思った…」
ため息なんかつかれても、俺は十分に幸せだ。
「千草さんのピアノ、聴いてたいなぁ」
「走れよ」
呆れたツッコミがこれまた嬉しかったりするのだ。
しかし、幾メートルも歩かないうちに、千草は一軒の大きな家の前で立ち止まる。
「ここが先生の家だから」
「え?もう?」
「そういうこと」
だから、一緒に歩くことをあっさりと承諾したのかと、がっかりする。
にやりと笑う千草は確信犯だ。俺を舞い上がらせておいて突き落とす。
「じゃあな。さぼるなよ」
オシャレな花のアーチをくぐり、白い家の中に消えていく千草を、俺は捨てられた子犬のように切なく見つめる。
言われた通り、大人しくトレーニングを続けようかと思ったけれど、やがて聞こえてきたピアノの音に決心は鈍る。
美しい音色。
学校で一度聴いたきりだが、あのときと同じ、千草の音だ。
耳に残るその音が、俺の足を動かさない。
このまま走り去るなんてもったいないこと、できるわけがない。
「よし、怒られることにしよう」
俺は覚悟を決めてその場に座り込んだ。
レッスンが終わるまでこうして聴いていよう。
そして駅までの帰り道をまた一緒に歩こう。
叱られるのもまた、俺の楽しみだ。
<終>
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