第3話 カレー

 オサマは呆然と天井を眺めて、尻餅をついた。

 なんだあれ。

 冷たい床にぺたりとすわって、自分が真っ裸だったことを思い出し、なんだか落ち着かなくて辺りを見回した。のろのろと起き上がる。

 色とりどりに様々なものが乱雑に置かれている部屋は、広くて分かりづらいがどうやら円形らしい。壁はレンガのようで違うもの(大きさがまちまちだった)が積んである。元いた台のところに戻ると、白いシーツがあったのでそれを腰に巻く。腕と足にはダクトテープの粘着力の跡が残っていて、べたっとしたそれがここは現実の地続きだと囁いている。

 両目から涙が吹き出した。

 あれからどうなっただろう、あの場にいた友人や……学校から離れた家にいる叔母さんは。

 オサマにはすでに両親がなく母の妹の家に世話になっていた。叔母さんの夫は酔ってオサマを殴ることはあったが平時は毒にも薬にもならぬ男で、叔母さんも似たようなものだったがオサマは屋根と食事を与えてくれたことに感謝している。

 オサマがいたのは貧しい町だった。山に囲まれた辺鄙なところだし、名物のようなものもないので観光客もいない。だが共学の学校がそれなりの大きさで運営されていて、いろんな子供がそこで学んでいた。それが気に食わなかったのだろうと、オサマは涙を腕でぬぐってため息をつく。

 神の教えは偉大なのに、偉大であられる人は少ない。

 そうだ、神だ。

 オサマはとりあえず跪き覚えている限りのお祈りをしようと思った。ここが魔の世界なら、それならアッラーもまたいらっしゃるということだ。ここではないどこかでも、どこかにいらっしゃるなら必ず祈りは届くはず。




「ひずみにヒトが入ったなんて百年ぶりくらいじゃない?」

 市場の一角で半魚人の店主が言った。ィユグーはそんなことはないと様々な魚を前に記憶を辿る。

「たしか八十年くらい前にもあった」

「じゃあ百年ぐらいじゃない」

 半魚人はお釣りをィユグーに手渡して笑う。

「あれはユダヤとか言うヒトの種類だったよ、結構何度も落ちてきてたね」

「他にも無かったっけ」

「さてね。

 聞いた話だがひずみに人が落ちるのは天界の救いだとかなんとか」

 うん? とィユグーは秋刀魚から顔を上げて首を傾げる。救い?

「地上でめんどくさいことがある時期は落ちたり昇ったりする奴が多いって話さ。

 ところでそいつに飯を作るの?

 マメだね、ペットには」

「うん、可愛い子なんだ」

 まだなつきはしないけれど、と彼女は笑った。

「その顔は見せるの?」

「怯えるだろうから見せないよ、ほらこう」

 と仮面を被って、彼女は笑った。



 一通りお祈りを終えてもあの怪物は帰ってこなかった。

 オサマは一人で、裸で、なにも持っていない。

 心細かった。死んだ母の顔まで目蓋の裏に浮かぶ。

 彼は床に座り込んで呻いてみた。すると近くで誰かが笑った。

 誰かいる気配なんてしなかった。オサマは飛び上がるようにして笑い声の元を探した。しんとした部屋の中で、きらきらと目を引くものを見つける。鏡だ。大きな、姿見のようだ。楕円形のそれには自分が写っていた。

 なんとなく目を凝らしてみる。また笑い声がする。鏡の中の自分が笑っていることに気づいたが、もう驚きはしない。

「お前は誰だ」

 鏡に毅然と尋ねるとまた笑われた。

〈ばかなこだ〉

 鏡の中の自分が嘲笑う。

〈ちかにアッラーはこない どんなにいのりのことばを となえても

 ちかにはけいやくがある〉

「……ちか?

 地下? どういうことだ」

〈ここはおまえたちのいう ちじょうのしただ ちきゅうのなかみ ちきゅうのちゅうしん だからちかだ

 ぐつぐつにえるまぐまとちいさなたいようのまわるだいちだ〉

「……意味がわからない。

 地球の中身はそんなものじゃない、核とかマントルとか……」

〈それもまたじじつだ〉

〈でもおなじばしょに〉

〈ふたつのじじつがそんざいすることはかのうだ〉

「何を」

「そしてこの地下には契約書がございますのであなたは地下の者の所有になったのです」

 後ろから急に生気のある声が響いてオサマはまた飛び上がった。振り向くと背の低い、いつかテレビで見た宇宙人みたいに青い顔の大人の男(たぶん)がつるんとしたヒゲのない顔で手を後ろに組み立っている。後ろに撫でつけた髪の毛は真っ白で目は黄色、着ている服はグレーのハイネックとスラックスだった。両手で盆のようなものを持っている。

「宇宙人だ……」と思わず呟いたオサマを無視するように青い男は銀色の盆をオサマの前に置いてそのまま訳の分からない物の中から小さい椅子を出してきて座る。

「あなたの食事です」

 盆の上に目をやる。

 茶色っぽい液体に何か色々入っていることはわかった。それからこの匂いは香辛料だろうと言うこともわかる。その液体が緑色っぽいぶつぶつのなにかにかけられていた。少し疲れているオサマは

「これなに?」

 と尋ねた。

「インドの魚のカレーです、が、主人は日本と言う国で食べたと言うので恐らくインド式ではないかもしれません」

 ややこしいうえにオサマはどちらの国も馴染みがなかった。日本と言ったら車と買春野郎と……あとはなんだろう。

「食べてください。味は保証しましょう、うちの料理長は腕がいい」

 そう言うと青い男はじっとオサマを見つめたまま黙った。

 食べるまで見ているつもりなのだろうか。茶色と緑のそれを見て、青い男を見て、オサマは口を開いた。

「あんたの名前は?」

「ヴルスです」

 ヴルス、と繰り返してオサマはさっきの大きなィユグーより人っぽいそれに話を聞こうと思った。

「ヴルスはここでなにを、その、ユグー? のペットなの?」

「ィユグーです、少し発音が難しいかもしれませんが。

 わたしは彼女のしもべです。契約者ともいいます」

「契約者? 彼女?」(雌なのかあれは、とそういえば少し高い声だったと思う)

「契約はわたしのたましいを彼女に捧げ仕えること、代わりに願いをふたつ聞いてもらうと言うものでした。

 主人はたましいを大事にしてくれています。

 かわりにたましいを人質にとられたわたしは主人に嘘をつけません。

 また、それらとは別にわたしは彼女に尽くしたいと思いました」

 ちょっとしたきっかけでね、と青いヴルスはかすかに微笑んでみせた。

「地上から落ちてきて色々不安だろうが、彼女はとてもいいばけものだ。

 信じがたいだろうけれど、ここでの生活も悪くないよ」

 なにか怖いことがあればわたしに聞きなさい、とヴルスは言った。

 オサマはしばらく無言でヴルスを見つめ、聞きたいことは山のようにあったがまず

「スプーンをください」

 と言った。

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