第17話 会わないつもりの、元気でね

 日が沈んでも、気温が25℃を下回らない熱帯夜の8月10日、母のお墓に挨拶に行った後、その足であるお店に向かった。あの日、嵐のように目の前に現れ、場を荒らしていった彼女に会うために。


 2カ月ほど前にもらった名刺に書いてある住所は、すぐに調べた。でも、足を運ぶには随分と時間がかかった。


 飲み屋街を通り抜け、大通りから、路地に入り少し進むと、そこには大人の街が広がっていた。22時を回ったこの時間は、店前にいる客寄せたちがひっきりなしに声をかけてくる。


 こういうところに一人でくるのは初めてだが、その雰囲気に自然と動揺もしなかった。それは、目的地が決まっていたからなのだろうか。


 そしてある建物の前で足を止めた。螺旋階段を使い二階に上がると、名刺と同じロゴが入った扉があった。


 名刺を手に取り、そこに記載された名前を眺めていると、扉の向こうから人が出て来た。ジャストサイズの黒のジャケットと黒のスラックスを履いた細身のお兄さんだった。彼は白シャツに黒の蝶ネクタイをしており、幼い顔つきで、爽やかな笑顔を見せた。こんばんわ、と挨拶をされ、会釈で返した。


「あの、この子に会いたいんですけど」


 黒い名刺をその彼に見せると、中にどうぞ、と扉の向こうに案内してくれた。


 初めて来たことを伝えると、少し騒がしい店内の少し奥にある、小さなテーブルに案内された。


「桜さん、今呼んできますので」


「お願いします」


 白革の二人掛けのソファに腰かける。黒いテーブルの天板はガラスコーティングされており、テーブルを覗き込むと、すっかり老け込んだ自分の顔が写った。思わず覗き込むのを止めて、ソファに深く座り直した。


「こんなに老けた俺を見て、彼女はどう思うだろうか」


 こんな広い店内で、こんな俺の独り言など誰にも聞こえないだろう。


「老けてなんかないよ」


「え?」


 横から声が聞こえた。顔を上げると、あの日と同じ、黒いドレスを着た彼女がそこに立っていた。


「隣、座っていい?」


「うん」


 俺は右に寄り、座り直した。左側にできたスペースに彼女は座った。二人掛けのソファは意外に小さく、隣に座る彼女との距離がやけに近く感じる。何度も触れたその身体は、不思議なことに近寄り難いものになっていた。


「こんな小さな席に案内されたんだね、もう少し広い席にする?」


「ううん、ここでいいよ」


「そう? それならいいけど」


 何飲む? と彼女は聞いてきたので、手のひらをパーにして、これで収まるものでと言うと、彼女が適当にオーダーを出してくれた。


 オーダーしたものはすぐに運ばれてきた。決してここでは高くないだろうシャンパンがグラスに注がれた。それを注ぐ彼女の横顔に思わず見とれてしまった。前髪をかき分けて、そのまま長い髪を耳にかける。そこから見える彼女の横顔は、本当に美しかった。


「おじさん、全然あの頃と変わってないよ、老けてなんかない」


「君は随分と大人になったね」


「髪の毛染めたからじゃない? 自分でも垢抜けたなって思うの」


 そうじゃない、とこの時は言葉が出なかった。俺が知っている彼女とは、随分と変わっていたからか、他人にしか思えなくて、馴れ馴れしく会話することに躊躇する自分がいた。


 グラスを合わせて乾杯をするなり、彼女は俺の膝に手を添えて、肩に少しだけ身体を預けて来た。


「おじさん結婚するの?」


「……ふうん、そのつもりだったよ。あの日は彼女の誕生日でもあったし」


「相変わらず、ロマンティックなこと考えるね」


「なのに君が……」


 俺が深いため息をつくと、彼女は慌てたように声のトーンを上げた。


「嘘、私そんなつもりじゃなかったの。ちょっと悪ふざけというか、その、久しぶりだったし、どう絡んでいいか分からなくて……」


 俺は俯き、首を横に振った。彼女は慌てながら俺の手を握った。


「ごめなさい。あの人をここに呼んで、私がちゃんと誤解をとくから」


 俺は思わず笑ってしまった。彼女は突然の俺の吹き出す仕草に、きょとんとした目でこっちを見つめた。


「結婚するよ、あの日ちゃんとプロポーズもしたよ」


「……OKしてくれたの?」


「もちろんだよ。君が現れたときは驚いてたけどね」


 彼女はほっとするような大きな息を吐き、ソファに深くもたれた。彼女が体を動かすたびに、好きな甘い香りがする。


 彼女に視線を移すと、黒のドレスは横に大きなスリットが入っており、足を組むとそのスリットからは色気を放つ太ももの白い肌がしっかりと露出される。


 思わず見とれていると、今度は彼女が吹き出すように笑った。


「おじさん、見過ぎ」


「あ、ごめん」


「ただのエロオヤジの目だったよ。やっぱり、おじさん老けたかも」


 彼女は笑っていた。恥ずかしくなり、顔が熱くなってくるのが分かった。彼女はさきほどのように膝に手を添えて、体を少し預けてきた。


「おめでとう」


 その優しい声は、初めて聞く声だった。まだ子どもだった3年前にはなかった、包容力を感じさせる声だった。




 お見送りは店の前まででいいと言ったが、少し外まで送るよと、店の外まで着いてきてくれた。


 螺旋階段を下りると、そこは店内と変わらないぐらい賑やかな大人の空間が続いていた。


「ここはいつもこういう雰囲気なの?」


「うちのようなキャバクラも多いからね、この辺は」


「ごめんね、安いシャンパンしか飲めなくて」


「ううん、いいの。値段じゃないよ、今までで一番嬉しかった」


 彼女は微笑んだ。右の頬にだけえくぼができるその笑顔は、彼女を3年前のように幼く見せた。


 彼女と並んで夜の街を歩く。そして路地を抜ける道に来たとき、二人は足を止めた。


「じゃあ、この辺で」


「うん」


 彼女は俯き、くすっと笑った。


「どうしたの?」


「結局、水商売やってんのかって思ったでしょ」


 さっきまでの幼さが残る笑顔ではなく、良からぬことを考えているときの笑顔を見せた。


「思ってないよ」


「本当に?」


「本当だよ。だって俺は、こんなに生き生きとした君を見たことがない。水商売だろうと、何だろうと、君が輝けているならそれで十分じゃないか」


「おじさんは、相変わらず優しいことを言ってくれるね」


「はるか、綺麗だよ。いい女になったね」


 彼女は俺の首に両腕を回し、抱き寄せるように力を入れた。引き寄せられた俺の身体は、彼女の全身を包み込んだ。


「私ね、今の仕事楽しいの。安心して? 無意味な枕営業はしてないから」


「うん、……無意味なね」


「そう、無意味な」


 彼女の頭に手を添えて、そっと撫でた。髪は金色になったけど、艶があり、細く柔らかで、指通りがいいその感触は昔と変わらない。この髪、この香りに虜になるのは、俺だけではないだろう。


 いつかきっと、彼女のことを心から愛し、俺と同じように、この髪と、この香りを愛する人が、彼女の前に必ず現れるだろう。


「今日は三日月だ」


 彼女がそう言うので、夜空を見上げ、月を探した。彼女の視線の先には、確かに三日月が浮かんでいた。


 数秒間、月を見つめた後、彼女の方を向くと、俺の顔を見上げ見つめていた。


 唇を強く重ねた。お互い腕を腰に回し、強く抱き寄せ合う。身体をできるだけ密着させるように、強く強く抱きしめた。




 汗でべたついた肌は、離れ難そうにゆっくりと離れた。重ねていた唇は、糸を引き、最後の最後まで別れを惜しんだ。


「これが本当に最後だ」


「うん」


「はるか、どうか元気で」


「おじさんも。今度は奥さんに逃げられないようにね」


「余計なお世話だよ……」


「ありがとう。おじさんに出会えてよかった」


 それはこっちのセリフだ。口には出さなかったが、心の中でそう思った。




「「元気でね」」




 俺は彼女に背を向けて歩き出した。できるだけ大股で、できるだけ速く。


 振り返ることもなく、止まることもなく、ただただ真っすぐ歩き続けた。

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