第16話 KOSHI-TANTAN

 グラスに注がれるシャンパンからはほのかに甘いフルーティーな香りがした。


「お誕生日おめでとう」


「ありがとう」


 軽くグラスを当てる。一年に一度のイベントだ、こういう場所で食事をするのも悪くない。


「こんなところに連れて来てくれるなんて、想像もしてなかった」


「一度来てみたかったんだ」


「どうして?」


「前に、下のロータリーまで車で来たことがあって、そのときから、このホテルは気になってたんだ」


「送迎? 仕事の取引先とかの」


「うん……そんなところかな」


 ホテルでの食事は初めてではないが、あまり経験がない。他の客のように上品な雰囲気も、お金を持っている様子もない。そんな俺が居ては場違いなのではないかと、少しおどおどしてしまう。


 真っ白な布を足の上にかける。食事が運ばれてくる前から、大小が異なるナイフとフォークが3本ずつテーブルにに並べられている。この空間から見える全てのものが、いつもと違う食事ということを意識させた。




 はるかと会わなくなって、早いものでもうすぐ3年になる。38歳になった今では、俺にも新しい彼女ができた。今日、5月31日はそんな彼女の33歳の誕生日だ。


 5つ下の彼女は、会社の同僚だ。離婚を機に実家の近くのこの会社に2年前に転職してきた。


 彼女とはすぐに仲良くなった。ワインよりもビールが好きで、魚よりもお肉が好きな彼女とは、仕事終わりによく飲みに行った。行きつけのやきとり居酒屋もできた。


 次第に、仕事終わりだけではなく休日にも会うようになったり、平日ランチに出かけるようになったりと、いつの間にか同僚としての関係以上になっていた。


 飲みに行ったあとに、ホテルに寄ったことも何度かあった。


「つかぬことを聞くけど」


「何?」


「最近したのいつ?」


「1年前ぐらいかな」


「もうそれ、童貞と一緒だね」


 初めて身を重ねたときの、この身に覚えのある会話に運命を感じた。好きになるのに、それ以上の理由はいらなかった。


 もう随分と長い期間セフレの関係を続け、何度身体を重ねたか分からないある日、俺は彼女に告白をした。彼女はバツイチではあったが、俺は気にしなかった。


「そろそろ、付き合ってもいいんじゃないかな」


「私は、今の関係も嫌いじゃないのよ」


「結婚を前提に付き合おう」


「私は訳ありバツイチの女よ」


「気にしないよ。俺とのバツじゃない」


 その日から半年が過ぎた今日、彼女の誕生日だ。俺は、車の次に高価だった赤い四角い箱を持ってきた。


 二人は将来の話をよくする。決して若くはないが、子どもだってまだできる。掃除や料理がまるでダメなことを伝えると、私がやるからと微笑んでくれた。

 お互いにとって二人目の婚約者は、想像以上に居心地が良かった。もう一度結婚してもいいと思える人に出会えた。


「あなたとなら、もう一度やっていけそうな気がする」


「俺もそう思う」


 そんなやり取りが、この半年の間に何度も行われた。




 コース料理のメイン、和牛ステーキを食べ終え、次はデザート。特にホテル側にサプライズはお願いはしてないが、デザートを食べる前に、自分のタイミングで彼女の前で赤い箱を開けようと思っている。


 向かい合って座っている俺たちのテーブルに人が近づいて来た。いよいよ最後のデザートが運ばれてきた。俺は目を軽く閉じて、心の準備をする。


 ここまで来るのに、色々あった。婚約者に逃げられたこともあった。そして、未成年の女の子に本気で恋をした期間もあった。それでも、今この人に出会えてよかったと思う。もう一度、結婚しようと思わせてくれるほど、素敵で魅力的な人だ。


 結婚を前提に付き合ってきた。プロポーズも出来レースかもしれないけれど、しっかりと気持ちを伝えたい。


「おじさん」


 そのとき、耳元から声が聞こえた。目を開け右に振り向くと、俺の肩に手を添えた女性が立っていた。


「おじさん、どうしてこんなところに居るの?」


「……」


 黒いワンピースのドレスを着たその女性は、俺のことを”おじさん”と呼んだ。


 胸元ほどの長さの金色の髪は、毛先を少しカールさせていた。その髪の毛から香る甘い匂いに身に覚えがあった。それは、いつか虜になった懐かしい香りだった。


「私と居る時には、こんなところ連れて来てくれなかったのに、羨ましいな」


 黒いドレスの女性は、テーブルの向かいにいる彼女に視線を移した。


「おじさん、私ともまた遊んでよ。私も大人の関係を持つだけじゃなくてさ、一緒に食事とかもしてみたいな――」


 黒いドレスを着た女性は、微笑んだ。そして、小さなハンドバッグから黒い名刺をを取り出し、白い布がかけられているテーブルの上に置いた。


「またね」


 そう言って、立ち去った。その先を目で追うとレストランの入り口に居た男性と腕を組み、出て行った。


 名刺に目を向けると ”桜” と書かれてあった。


 あの香り、右頬にだけできるえくぼ、そして前に住んでいたアパート”桜荘”からとったであろうその名前。こんなタイミングで再会してしまうとは、神様も悪戯が過ぎるのではないか。



 テーブルの向かいに視線を移すと、凍り付いた痛い空気を感じる。彼女は放心状態でテーブルをまばたきせずに眺めていた。


 しばらく場は氷ついていたが、デザートが運ばれてくると、彼女は我に返ったように、視線をデザートへ移し、それについて説明するウエイターの話に耳を傾けていた。


 俺はその隙に、テーブルの上に置いていた名刺を手に取り、そっとポケットにしまい込んだ。そして、赤い箱も一緒にしまい込んでしまった――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る