第15話 Departure

 彼女から手紙が届いたのは、最後に彼女を抱いてから一月が経ったころだった。


 仕事を終えて、ほぼいつもと変わらない時間に帰宅した。玄関の扉に付いている郵便受けは、いつもどおり機能しておらず、玄関タイルの上に郵便物が乱雑に散らばっていた。


 目を通す価値もない数枚のチラシの下に、見慣れない茶封筒が落ちていた。


 不自然な茶封筒に少し躊躇するかのように、それを拾う手が止まった。一旦、玄関に置かれていた爪先の向きがバラバラのスニーカーを揃え直してから、改めて茶封筒を手に取った。


 不自然な茶封筒、そこには宛先も名前も記載されていなかった。




 部屋に入るなり、鞄を床に落とし、チラシを丸めてゴミ箱めがけて放り投げた。そして、ベッドの上に腰を下ろして、茶封筒を再度眺めた。



「少し重いな、紙以外も入ってるのか」


 恐る恐る封を破いた。三つ折りにされた紙が入っており、封筒の奥からは鍵が滑り落ちてきた。


 彼女からだとすぐに分かった。俺は鍵と空になった封筒を投げるように手放し、三つ折りなった紙を慌ただしく開いた。



――


おじさんへ


 お元気ですか? 私は生きてます。


 この手紙を書き始めて、初めて気づいたけど、

 私、おじさんの名前知らなかったね。

 アパートの玄関にも名前ないし。


 あれから私は、家に戻りました。

 母は私が居なくても元気そうでした。

 これで、何の心配もなく家出ができます。


 家出というと聞こえが悪いかな?

 ようやく、自立ができます。

 高校も正式に中退しました。

 これからは、一人で生きていきます。


 本当は、おじさんに会って伝えたかったけど、

 また困らせるのも嫌なので、手紙を書きます。


 

 おじさんと会ったのは、3回。

 たった3回だけど、好きになった。

 自分でも信じられないぐらいに。


 会うと、私にいつも優しくしてくれたね。

 何度も名前を呼んで、何度も抱いてくれたね。

 私はその都度、生きてるって実感できてたよ。


 会った回数以上に体を重ねて、

 私は、本当のセックスを知ることができた。

 好きな人とするセックスが、

 どんなに気持ちがいいことか。



 好きで、好きで、好きでたまらない。

 おじさんに会いたくて、触れたくて……

 そんな苦しい日々が、1カ月続きました。


 正直、もう辛いです。

 だから、鍵を返します。

 それとお願いです。

 どうか引っ越しをしてください。


 あなたに会える可能性があるだけで、

 私は苦しい。


 きっと、あなたも同じことを思っている。

 もう一度会ってしまったら、もう離れられない。


 


 お別れですね。

 短い出会いだったけど、最高の出会いだった。

 

 私のことは、もう探さなくても大丈夫です。

 もう死のうなんて思わないから。


 元気でね、おじさん。

 今まで本当にありがとう。

 大好きだよ。


    はるか


――

 


 彼女の手紙は、簡単な言葉で綴られていた。不思議と涙は出なかった。会いたいという感情も沸いてこなかった。どうしてかわからないが、すっきりとした感情だった。


 彼女は立派だ。子どもなのに、もう大人のようだ。初めて人のことを好きになったのに、別れ際も十分知っている。不思議な子だった。そして、魅力的な子だった。


――俺も、大好きだよ。もう一度、人を好きになるということを思い出させてくれて、ありがとう。



 窓のレースカーテンを開き、暗くなった空を覗くと、今日も月が浮かんでいた。


「今日は、中途半端な形をしているな」


 思わず笑ってしまった。本当に、何とも言えない形だった。彼女と一緒に眺めた、あの日の満月のことを思い出す。今日のこの満月も、彼女はどこかで見ているだろうか。


 別々の場所で同じ空を見る。そんなロマンティックなことを今日も想像している。自分のこういうところを彼女は煙たがっていたが、俺自身は結構好きだ。


 ベッドから下りて、部屋を見渡した。鞄は倒れ、服が数枚ほど散らばり、いつ飲んだか分からない空き缶が二つ転がっていて、ゴミ箱の近くには、ホールインワンしなかった紙くずたちが落ちている。


 彼女が部屋に来なくなってから、また少し散らかり始めた。でも、以前よりは綺麗だ。


「引っ越しか……無茶を言うなよ」


 婚約者に捨てられ、どん底にいた俺の生活に、彼女は光を与えてくれた。部屋も片付いただけでなく、毎日が少し楽しくなったような気もする。


 彼女に会えないのは分かっている。他に誰か好きな人がいるわけでもない。でも、毎日が少し楽しいのだ。彼女が置いていった胡蝶蘭は、もう咲かなくなったけど、部屋も散らかり始めているけど、それでも生きることが以前よりも楽しいのだ。


 彼女はもう一度、一から人生をスタートさせている。俺も、彼女ほどは若くないが、まだまだ人生やり直せる。そんな活力が自然と沸いてくるのは、間違いなく彼女のおかげだと思う。



「引っ越し、するか」


 さっきゴミ箱に放り投げたチラシを拾い、もう一度開き直した。不動産関連のチラシがないかを確認するために。 

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