第11話 ふたり #2

 アパートに着き、部屋に入るなり彼女の口調は明るくなった。


「久しぶりに来たらびっくりしちゃって、部屋が綺麗になってたから」


「次、はるかが家に来ても恥ずかしくない部屋にしようと思って」


「てっきり彼女でもできたのかと思って、お花だけ置いてすぐ出て行っちゃった」


 確かに、仮に俺が別の彼女と同棲していたとして、俺より先に彼女が先に帰ってきたときに、部屋に女子高生が居たら大事件だ。


「そういうことだったのか。てっきりまた死のうとか思ったのかと」


 俺が笑いながらふざけて返すも、彼女は黙り込んで胡蝶蘭が生けられたこたつテーブルの横で腰かけた。


「おじさん、電気消してこっちに来て」


「電気消すの?」


「うん」


 俺は言われたとおりに電気を消してから彼女の隣に腰かけた。膝を抱えて体育座りのような体勢になった俺の足を、彼女は人差し指で突いてきた。


「どうしたの?」


「そこ、行っていい?」


「足の間?」


「うん」


「いいけど」


 彼女は立ち上がった。俺はベッドの端を背もたれにして、抱えていた両膝を少し開いた。そこにできたスペースに彼女は腰を下ろした。後ろからそっと彼女を抱きしめると、彼女は少しだけ俺の胸に体重を乗せた。


 髪の毛からは、ほんのりと甘い香りがする。自分の頬を彼女の髪に当てる。艶のあるその髪は上質で、滑らかな肌触りは心地よく、思わず擦り付けていたくなる。


「ちょっと、顔当て過ぎ」


「あ、ごめん」


「ほんと、おじさんは私の髪好きだね」


 そんなことを言われると急に恥ずかしくなって、頬を離した。彼女はそんな俺の行動を見て楽しそうに笑う。そんな無邪気な彼女が可愛くて、愛おしくなって、抱きしめる力を強めた。


「胡蝶蘭って、綺麗だよね」


「そうだね」


「こうやってさ、暗い部屋でも光って見える」


 電気を消した直後は暗かった部屋も、目が慣れてくるとぼんやりと薄暗くなってくる。そんな空間にぽつんと生けられた胡蝶蘭は際立って白く、彼女の言う通りで、優しく光を灯しているかのようだった。


「私もね、どんなに暗いところで生きていたとしても、白い胡蝶蘭のように、光って生きていたいなと思うの」


「うん」


「でもね、もう疲れちゃった」


「え?」


「おじさんと出会ったときも、もう限界だったの。でもね、お墓の前で胡蝶蘭を生けるおじさんの姿を見て、死んだら全て終わりなんだなって思ったの。死んだら光ることもできないし、誰かと会話することもできない。私の場合、お花を生けに来てくれる人だっていない。だったら、死にたくないと思った」


 彼女は淡々と会話を続けた。泣くこともなく、身体を震わせることもなく、ただスピーカーから音が流れるように、一定の音量で、均等なテンポで話し続けた。


「どうして、疲れちゃったの?」


「おじさんも気づいてると思うけど、私は家出をしてる」


「うん」


「もう絶対帰らない。私は一人で生きていくと決めたの」


「どうして? きっと、親は心配してるよ」


「どうだろうね」


「何があったの」


 彼女は立ち上がり俺の腕を引いてベッドに移動して横たわった。俺もその隣で横になる。腕を伸ばすと、彼女はそこに頭を乗せて胸の中にすっぽりと納まった。


 寒い、と彼女が言うので、布団の中に入った。ありがとう、と言った彼女の身体は少し震えていて、彼女の足先は靴下を履いているにも関わらず、氷のように冷たかった。俺は太ももで彼女の足先を挟み少し温めてあげると、彼女は俺の腰に手を回し、ぎゅっと身体を抱き寄せた。


「私が物心ついたときには、もう母親一人だった。私が2歳のときに離婚したんだって」


 俺は彼女の頭をそっと撫でた。少しでも心が落ち着くように、優しく触れた。


「母との二人暮らしは貧しかった。ご飯も一日一食、お風呂も二日に一回だった。そんな生活を中学一年生まで続けた。そしてある日、母は壊れた」


「病気になったの?」


「ある意味病気かもね。34歳だった母は、男を家に連れ込むようになったの。正直、母は綺麗で可愛い。34歳でも化粧をすればそこらの芸能人よりも綺麗だったよ。だから、若い男もお腹に脂がのったおじさんも、男は皆、母のもとに群がってた」


「身体を、売り始めたの?」


「そういうこと。元気なうちはナンパされても跳ね除けていたみたいだけど、母子家庭の生活に弱り切ってたある日、セックスして金をもらえるならと思って一度許したのが最後って感じだったのかも。それ以来、日に日に違う男が家に来ては、汚い裸をさらして交わって、酒もたばこも……最悪だったよ」


「それは家に居たくなくなるね」


「中学二年生になると、私もそれをさせられたの」


「え?」


「家に来る男には、酒と身体で接待しなさいって母に言われた。それから17歳までの三年間ずっと、毎晩」


 冗談だろ、と言葉を漏らした。彼女は首を横に振りながら、本当だよ、と言った。


「アルコールの味も、男の身体も、本当に嫌になるぐらい知ったよ」


 俺は彼女を強く抱きしめた。彼女はまだ子供だ。俺はそれをよく知っている。握る手だってか弱いぐらい小さい。抱きしめる身体は頼りないほど小さい。声だって、笑顔だって、そこらに居る女子高生と何も変わらない。そんな子が、大人たちに汚されてきたと思うと、胸が痛んだ。


 同時に、俺も同罪だと自分を責めた。初めて会った彼女に対して、酒を飲ませ、欲情を抑えきれず、二度身体を交えた。俺もそこらの男たちと何も変わらない。


「その頃は、私だけじゃないと思ってたの。学校に居る同級生の女の子は皆、家ではこういうことをしていると思ってたの。女はそういうものだよねって」


「そんなわけないだろ……」


「そうなの、そんなわけなかったの。私だけだったの」


 彼女は鼻で笑った。その不気味さに、俺は言葉が詰まった。


「私だけだったと知った時、全てが嫌になったよね。何のために三年間もこんなことしてきたんだろうって」


 俺は何て声を掛けていいのか分からず、ただ抱きしめることしかできなかった。


「全て親の生活費のためだったんだなって思ったとき、これからは自分のために生きようと思った。だから一年前、家を出た」

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