第10話 お願いナビゲーション
あの日の夜のことを思い出すと、途端に眠れなくなる。夏は日が沈むのが遅く、また昇るのも早い。夜の時間は短いはずなのに、起きていると長い。
彼女を抱いたのは二夜、それ以降彼女が俺の前に姿を見せることはなくなった。あっという間に二カ月が経ち、夏も終わりを告げようとしている。
――はるか、元気にしているだろうか。
俺は元気だ。部屋はまた荒れ始めたが、以前よりは綺麗な状態を辛うじて保っている。いつ君が来ても迎え入れることはできる。合い鍵も彼女が持ったままだ。物騒な世の中だ、本当ならばすぐに鍵を交換するべきだろうが、俺はそれをしなかった。彼女と会えなくなる状況を自ら作ることはしたくなかった。
「行ってきます」
寝不足の朝、誰も居ない部屋に向かって言葉を発した。
身に着けるシャツは長袖になったが、日々過ごす時間は変わらない。車に乗り、職場へ向かう。社内で打ち合わせをした後、それぞれの取引先に営業に向かう。35歳の俺には、3人の部下もいる。皆、人懐っこい性格でお互い仲がいい。職場環境がいいことが日々の唯一の救いだ。
「お疲れ様でした」
夕方のデスクには、挨拶をして帰る社員がちらほらといる。俺はいつも少し残業をしてから帰宅する。車を走らせ15分、家につくのは19時半を過ぎる頃だろうか。そんな代わり映えもしない日々を今日も送る。
帰宅途中の信号待ちで赤信号を眺めていると、ふと彼女のことを思い出した。なぜあの時、俺の家を訪ねてきたのか。なぜあの日、死のうと思っていたのか。結局聞けないままだった。知れたのは、身体の感触だけ。
後ろからクラクションを鳴らされ、信号が青に変わっていることに気づいた。慌ててアクセルを踏んだ。
――家に帰ったら、来てないだろうか。はるかが笑顔で、おかえりと言ってくれるだろうか。
そんな期待をしながら帰宅する日を、もう何度経験しただろうか。
アパートに着き車を降りて、駐車場から三階にある自分の部屋の窓を見上げる。もちろん電気はついてない。今日も彼女は来ていないようだ。当然と言えば当然なのだが、おかしなことに、これを二カ月間も欠かさずにしているのだ。
階段で三階まで上がり、玄関の前についたとき、どこからかカレーの匂いが漂っていた。隣の家は彼女と同棲しているであろう若者が住んでいる。今日は彼女がカレーでも作っているのだろう。
素直に羨ましいと思う。俺も結婚してればこんな感情にならずに済んだのだろうか。妻の手料理を毎日ではなくてもいい、週に何回かでいいから、食べたかった。それに美味しいと言って、ありがとうと感謝をして、大切な人と幸せな食卓の時間を過ごしたかった。
「そう言えば、母のカレーも好きだったな」
昔のことを思い出し、ないものねだりをしてしまう。お腹空いたな、俺もカレー食べたいな。
玄関の鍵を開け、ドアノブを回し手前に引こうとしたが、逆に鍵がかかった。
ん?
俺は慌てて鍵を指し再度回す。俺は鍵の閉め忘れは何度も確認する。今日の朝も確認してから出勤した記憶がある。今、鍵が開いているはずがない。
――はるかが来てる
勢いよく扉を開けたが、玄関と部屋の電気は消えていた。人の気配も感じられない。俺は靴を脱ぎ捨てるようにして部屋に上がる。照明をつけて、部屋中を見渡すも彼女の姿はなかった。変わった個所とは一つ、ベッドの隣に置かれたこたつテーブルの上に、数本の胡蝶蘭が生けられていた。
「はるか……来てたのか」
胡蝶蘭は、昨日俺が飲んだビールの空き缶に刺さっていた。
俺は再び部屋を飛び出した。まだ近くにいるかもしれない。彼女にもう一度会えるかもしれない。
会いたい、そういう感情もあるが、不安の方も大きかった。また俺の部屋に来たということは、また死のうと思っていたのではないか。あの日も俺に会ってなかったら死んでいたと言っていた。今日は会えていない。だったら、本当に……
「頼む、無事で居てくれ」
車に乗り込み、エンジンをかける。カーナビが話しかけてくるのを無視し、あてもなくアクセルを踏んだ。こういうときに、カーナビで人を探せたらなと思う。GPSがあれば、彼女のスマホの位置だって特定しようと思えばできるはずなのに。
1時間は走っただろうか。21時を少し過ぎた頃、市街地から少し外れた工業団地付近にあるコンビニで車を止めた。
コーヒーでも買おう。明日も仕事だ、彼女のことは心配だが、見つかるかも分からない捜索をいつまでもすることはできない。車を降りて、店内に入りすぐに右に曲がる。雑誌コーナーのところを通り過ぎたとき、身に覚えのある甘い香りが鼻をかすめた。
思わず足を止め、雑誌コーナーに視線を移すと、そこには雑誌を立ち読みするはるかの姿があった。
「はるか」
「ん?」
彼女は顔を上げ、俺と目が合うと、雑誌を閉じた。
「おじさん、何でここに」
「それはこっちのセリフだよ、随分探したよ」
「どうして」
「家に来てただろ? また死のうとか考えてるのかなと思って、心配で探してたんだ」
「おじさん車だよね」
「そうだよ」
彼女は俺の手を取り、走り出した。
「乗せて、急いで!」
彼女は慌ただしく店内を出た。俺は彼女の指示に従った。詳しい話は車の中で聞けばいい、とにかく彼女が無事だったことが分かっただけでも十分だ。
車に乗り込みエンジンをかけ、ギアをバックに入れる。後ろを確認する時間すらも省き、少し後ろに下がると、ギアをドライブに変えて勢いよく走り出した。
「どこに行けばいい?」
「とりあえず西に、なるべく急いで」
俺は西に向かって車を走らせた。俺が住むアパートは北だ。どうやら今日は俺の家以外に行きたいところがあるらしい。
「このナビって新しいの?」
彼女はカーナビを触り始めた。
「一年前のだから、新しい方だと思うよ」
「ちょっと借りるね」
そう言って、彼女はあるホテルの名前を入力し始めた。そしてナビをセットすると、案内開始ボタンを押した。
――目的地を設定しました。実際の交通規制に従って走行してください。700メートル先を右折です。
ナビの音が車内に流れる。彼女は少し安心したように深い息を吐き、助手席の背もたれに深く腰掛けた。
しばらく、会話もなくカーナビの指示通りにハンドルを切った。彼女はずっと窓の外を眺めたままで、俺と会話をする気配はなかった。
「どうしたの? 何があったの?」
「……今、話さないとだめ?」
「まぁ強制はしないけど」
「ごめん、もう少しだけ待って」
彼女は窓の外に顔を向けたままそう言った。窓に反射した彼女の表情は、感情のない人形のような目をしていた。
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