第8話 Room No.7
4年前、母が亡くなる一年前まで俺には婚約者が居た。31歳の俺と同い年の彼女は、大学生からの付き合いだった。交際を始めたのは27歳のときからだったが、友人関係としての年数は長かった。
そんな彼女と3年付き合ったある日、俺はプロポーズをした。ありきたりだが、彼女の30歳の誕生日に俺は指輪を渡した。彼女はすごく喜んでくれた。
本当はもう少し早くプロポーズをしたかった。彼女が30歳になるまでには結婚しておきたかった。でも、外資系の会社に勤務する彼女は海外の出張も多く、仕事の負担も大きかったため、中々タイミングを掴めずにいた。そして、彼女の仕事が落ち着いてきたころには、もうお互い30歳になっていた。
待ちわびた結婚のとき、プロポーズが上手くいったのも束の間、今度は俺の母の体調が悪くなった。俺は時折、仕事を休み実家に帰る日も多くなった。そんな俺に彼女は気を遣い、入籍や結婚式は少し先でもいいと言ってくれた。とにかく今は、母のためにそばに居てあげてと。
しばらくすると母の転院が決まった。実家の近くの病院から、俺の職場の近くにある総合病院に移ることになった。正直ほっとした。これで彼女と居る時間も母といる時間も増やせると。
でも、移動時間が短縮されたとは言え、仕事の合間に病院に通う日々は簡単ではなかった。
彼女は、母の様態が落ち着くまで待ってくれると言った。でもそれは俺や母のためではなくて、自分のためだった。
――彼女は何年も前から会社の上司と浮気をしていたのだ。
「シンガポール支店に異動になった」
彼女にそう言われたときは驚いた。嘘だろと思った。
「栄転よ。私はとても嬉しい」
「でも、結婚はどうする。いつ帰って来られる」
「分からない。多分、ずっとシンガポールに居ることになると思う」
「そんな……」
俺は涙が溢れた。いい大人が失恋を前にして涙を流すのかと思ったが、それは自分の意思に反してボロボロと溢れ出てきた。
「それと私、あっちで結婚することが決まったの?」
「え?」
「私の上司。一緒にシンガポール支店へ行くことになったの」
俺の頭は真っ白になった。彼女の口からは信じられないような言葉がどんどんと出てきた。それを全て聞き終わるころには俺の涙はもう出なくなっていた。
彼女がずっと前から浮気をしていたとは知らず、プロポーズもして、母の看病もして、俺は今まで何のために時間を費やしてきたのだろうか。この報われない想いはどうすればいいのだろうか。
「そういうことだから、元気でね。お母さんも元気になるといいわね」
「君は最低だ」
「あなたはそう思うかもしれないね。でもね、そんな私でも結婚してくれる人がいるの、一緒にシンガポールに行こうと言ってくれる人がいるの」
「本当の君を知らないだけだ」
「そうかしら? あなたが本当の私を知らなかっただけよ」
「もういいよ、早く帰ってくね」
彼女はさようならも、ありがとうも言わなかった。少し微笑み軽く手を振っただけだった。
――俺はこの日、好きだった女性に捨てられた。
そして、その一年後に母は亡くなった。今度は俺のことを愛してくれていた人まで居なくなった。
誰かを愛することも誰かに愛されることもなくなった。まさにこの3年間は空白の時間だった。ドラマや映画でよく聞く、”ずっとあの日のまま”という表現があるが、まさか自分がそれを身に染みて経験することになるとは思ってもいなかった。
そんな過去の話をしながら帰路についていた車は、俺が住むアパートには着かず、山奥にある古びた安いラブホテルに着いた。コテージ型の部屋が並ぶ敷地の一番奥にある、最も料金が高い「Room No.7」の部屋の前で車を止めた。
彼女は特に何も言わず車を降りて、部屋の入口に向かう俺の少し後ろをついてきた。この辺の田舎のラブホなら、制服を着た女の子を連れ込んでも何も言われないだろう。
「おじさん、ひとつだけ聞いてもいい?」
「何?」
「今も死にたいと思ってる?」
彼女に表情はなかった。笑顔でもなく、不安そうなわけでもなく、ただただ無表情だった。でも、その表情に安心をする。だって彼女が突拍子もないことを言う時はいつも笑顔だ。表情がないときは、ある意味まともなときだと思った。
「さぁ、どうだろうね」
俺は一言そう返して、彼女の腕を引いた。そして、錆びた金属音が鳴る扉を開け、彼女を部屋の中に連れ込んだ。
重たいドアが閉まる低い音が部屋の中に響いた。玄関で靴を脱がずに向かい合うと目が合った。
「はるか、俺からも一つ聞いていいか」
「何?」
「今日の俺は、昨日の俺とは違う。それでもいいか?」
「どういう意味?」
きょとんとした目で俺を見つめた。
昨日は君が部屋い来た。でも、今日は俺が連れ込んだ。昨日は突然の出来事に動揺していたところもあったが、今日は平常心だ。昔のことを思い出し、心が弱っていることは確かだが、そんな日はよくあることで特別変わった日ではない。
そんな夜に彼女を連れ込んでいるということは、俺はただの獣だ。
「今日は君に何をしてしまうか分からない。君をぼろぼろにしてしまうかもしれない」
俺は彼女の身体を壁に押し付けて、唇を荒く重ねた。舌を何度か強く絡めた後に彼女の唇は一旦、離れた。
彼女は俺の頬に両手を添えて、再び顔を近づけてくる。彼女の分厚く湿った舌は、俺の首元と顎に触れた。舌を絡めた際、口から垂れた唾液を丁寧に舐めて拭き取っていく。そして、一度軽く唇を合わせると彼女は笑った。
「いいよ。一緒にぼろぼろになろうよ」
その笑顔と色気ある声に俺は血が騒ぎ鳥肌が立った。
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