実は、気づいてます。



 姉さんと一緒に、水族館を見て回った。姉さんは特別はしゃぐ訳でも無く、かと言ってつまらなそうにする訳でも無く、どこに噛みしめるように水槽を眺めていた。


「…………」


 俺はそんな姉さんを、ただずっと見つめていた。何か思い出してくれたらいいな、と思いながらも今はただ笑っていて欲しくて、俺は水槽を眺める姉さんを、ただ見つめ続ける。姉さんは時折そんな俺の方を振り返って


「楽しいね、真昼くん」


 そう言って、笑ってくれた。それはわざとらしい笑顔じゃ無くて、本当に楽しそうな笑顔で、俺はそれだけでどこか安心できた。姉さんは昔みたいに、子供のようにはしゃいだりはしないけど、それでもちゃんと楽しんでくれている。姉さんの笑顔を見ているとそれが分かるから、俺はそれだけで満足だった。




「…………なんて、嘘だな……」


 ……本当を言うと、もう少し姉さんに触れたいって思う。前みたいに腕を組んで、姉さんの温かさを感じたかった。



 でも、そんなことは口にしない。姉さんが笑ってくれるなら、俺はそれだけで嬉しい。だから余計な事は言わず、ただ姉さんの手を引いて色んな水槽を見て回る。



 そんな風にゆっくりと時間が流れて、全ての水槽を見て回った俺と姉さんは、惜しむように水族館を後にする。



「楽しかったねー。私、記憶を失くしてから初めてこういう場所に来たよ。だから本当に……楽しかった。ずっとずっと心臓がドキドキして、倒れそうになるくらい……楽しかった」


「そこまで喜んでもらえたのなら、俺も嬉しいよ」


 そう言って、軽く空を見上げる。日はまだまだ高い。だからこれからどこかで、ご飯でも食べようか? そう口にしようとした瞬間、まるでそれを遮るように、背後から声が響いた。




「やあ、真昼。それに……朝音さん。こんな所で会うなんて、奇遇だね」



 ……そんな声を聞いて、俺はゆっくりと振り返る。そこには桃花がいつもと変わらない笑顔で、当たり前のように佇んでいた。


「……桃花。本当に……奇遇ですね、こんな所で会うなんて」


 俺は努めて普段通りに、そう言葉を返す。


「ああ、本当だよ。ボクも凄く驚いてる。こんな所で真昼に会えるだなんて、ボクは思いもしてなかったから……って、そういえば、今の朝音さんと話をするのは初めてでしたね。……ボクは貴女の後輩で、真昼の通う高校の生徒会長を務めさせて頂いている、久遠寺 桃花というものです。……はじめまして」


 桃花はそう言って、とても親しげに姉さんに向かって手を差し出す。


「……はじめまして。……って言っても、私の自己紹介は要らないのかな? でもまあ一応、私は笹谷 朝音です。よろしくね、久遠寺さん」


 姉さんは一瞬、驚いたように目を見開くけど、すぐに笑みを浮かべて桃花の手を軽く握る。


「ところで、2人はデート中だったのかな? それなら水を差してしまって、申し訳ないね」


「いえ、別に大丈夫ですよ。……でもこれから俺たちはちょっと行くところがあるので、今日はこれで失礼しますね」


 行こう? 姉さん。俺はそう言って、姉さんの手を握って歩き出す。……何となく、嫌な予感がした。何がどうという訳では無いけれど、何故かとても嫌な予感がした。



 それくらい今の桃花は、怖かった、



 彼女は何か、とても致命的なことを言ってきそうで、俺は一刻も早くこの場を離れたかった。










 でもやっぱり、その願いが叶う事は無い。



「そう急がなくてもいいだろ? 真昼。……君たちもお昼はまだなんだろう? だったらボクがご馳走するからさ、少し話に付き合ってくれないかい?」


「……いや、気持ちは嬉しいんですけど……今日はちょっと用があって……」


「 ……朝音さんの記憶のことで、とても大切な話があるんだけど……それでも、ダメなのかな?」


 その言葉を聞いて、姉さんは振り返って桃花を見る。


「……私の記憶のことで大切な話って、本当?」


「ああ、勿論ですよ。ボクはそんなことで、嘘はつきませんからね。……くふっ。その様子を見るに、朝音さんも早く記憶を取り戻したいんですよね? だってそうじゃないと、真昼が本当の意味で……笑うことができないから……」


「桃花。俺は……今ここに姉さんが居てくれるだけで……」


 十分、嬉しいんだ。そう俺が言葉を言い切る前に、姉さんが口を開く。


「真昼くん。話を聞くの……ダメかな? 私も今日は……真昼くんとその……一緒にいたいって思うけど……。でもなんていうか、ここで話を聞かなきゃいけないような気がするの。……ダメかな?」


 姉さんは伺うように、俺の顔を覗き込む。……そんな顔をされると、俺に拒否する事はできない。


「分かったよ。でも……桃花。あまり変なことを言うようだったら、いくら俺でも怒りますからね?」


「分かっているよ。ボクだって、君に嫌われるような事はしたくは無いからね。……じゃあ、行こうか? この近くにボクがよく行くカフェがあるんだ。そこでみんなで、お昼ご飯を食べようじゃないか」



 そうして、まるで誘導されるように、或いは初めからこうなることが決まっていたかのように、俺と姉さんは桃花の背中を追ってカフェへと向かう。


「…………」


 俺は軽く息を吐いて、空を見上げる。空はいつもと変わらず透き通るような青さで、でも何故か今は……それがとても怖かった。



 ◇



「……それで、そろそろ本題の話を訊きたいんですけど……いいですよね?」


 桃花が連れてきてくれたカフェ。そこでしばらくは昼食をとりながら、ありふれた世間話に花を咲かせる。そんな風に楽しい時間を過ごして、食後のコーヒーが運ばれてきた頃に、俺はそう言って真っ直ぐに桃花を見る。


「くふっ。とても真剣な表情だね、真昼。……その表情を見ていると、分かるよ。君が本当に、朝音さんが好きだってことがね」


「……それは、そうですよ。俺にとって姉さんは、1番大切な……人ですから」


「ふふっ、だってさ朝音さん。とても羨ましいよ。本当に心の底から嫉妬するくらい、貴女が羨ましいですよ、朝音さん」


 桃花はニヤリとした笑みで、姉さんを見つめる。


「……そりゃ私は、真昼くんのお姉ちゃんだからね。真昼くんは優しいから、私のことを……心配してくれてるんだよ」


「……なるほどね、真昼。君はまだ、朝音さんには伝えてないんだね。1番大切なことを……」


「今言っても、混乱させるだけですからね……」


「でも今日は、2人っきりでデートしてるんだろう? それは少し、おかしくはないかな?」


「……その話は、今はいいですよ。それより、姉さんの記憶のことで何か大切な話があるんですよね? だからできれば、今はその話を聞かせてもらえませんか?」


 俺は揺らぐことなく、真っ直ぐに桃花を見つめる。姉さんはそんな俺に、どこか心配そうな視線を向ける。


「…………」


 そして桃花は、しばらく意味深に黙り込んで、どこか優しい瞳で俺を見つめる。その瞳はまるでこちらの心を見透かすようで、俺は思わず視線を逸らしてしまう。


「……くふっ」


 でも桃花は、そんな俺の態度を気にした風もなく、ただ当たり前のように……その言葉を口にする。







「朝音さんはね、自分の意志で……自分の記憶を奪ったんだよ」





「────」


 どくんと、痛いくらい心臓が跳ねる。だから俺は、何の言葉も返せない。








「朝音さんは、真昼を完全に自分のものにする為に、自分自身で自分の記憶を奪った。……真昼、本当は君だって……気がついていたんだろう?」


 俺と姉さんは、ただ唖然と桃花を見つめる。でも桃花は、笑う。まるで昔の姉さんみたいな表情で、桃花はただ笑い続ける。



 そうしてゆっくりと、事態は嫌な方へと進んでいく。



 ……俺の意志とは、関係無く。


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