ただ、話をするだけです。
「朝音さんは、真昼を完全に自分のものにする為に、自分自身で自分の記憶を奪った。……真昼、本当は君だって……気がついていたんだろう?」
桃花のその言葉に、俺は何の言葉も返せない。
本当は、気がついていた?
姉さんが自分の意志で、自分の記憶を失くしたと俺は初めから気がついていたのか?
……そんな訳が無い。
俺はただ、不安だっただけだ。今の状況があまりに都合がいいものだから、俺はずっと……怖かったんだ。
「くふっ……」
桃花は困惑する俺と姉さんをニヤニヤとした瞳で眺めながら、楽しそうに言葉を続ける。
「おかしいとは思わなかったのかい? あの朝音さんが、だよ? あの朝音さんがいくら告白されて舞い上がっていたからといって、事故にあったりするわけがないだろう? ……それに都合よく外傷が一切無いなんて、まるで誰かが仕組んだみたいじゃないか……」
俺は言葉を返せない。
「それに、心因性の記憶喪失? あの朝音さんが、実は抱えきれない程のストレスを感じていた……だなんて、そんなのあり得るわけが無いよ。……真昼、それは誰より朝音さんの近くにいた君が、1番分かっている筈だろ?」
俺は言葉を返せない。
「そして都合よく、真昼に対する愛情だけは残っている。他の記憶は全て失くしてしまったのに、真昼への愛情だけは失くならなかった。……そんな朝音さんにとってだけ都合のいい事が、偶然、起きたりするのかな?」
俺は言葉を返せない。
「……まあでも、分からないこともあるんだよ。朝音さんが時折1人で出かけて、探しものをしていることとか。……これ見よがしに持っているネックレスとか……。でもその程度は、些細なことだ。……ねえ? 朝音さん。貴女だって本当は、自分がおかしいって気がついていたんでしょう?」
相手を飲み込むような狂気を孕んだ桃花の瞳が、真っ直ぐに姉さんを射抜く。
「…………」
姉さんはその瞳に気圧されて何の言葉も返せず、ただぎゅっと強く俺の手を握りしめる。
「……桃花。……その、いきなりそんなことを言われても、困ります。だからちょっと、待ってくれませんか?」
だから俺が、姉さんの代わりに答えを返す。
「待ってと言われてもね……。ボクはもう随分と、待ったんだよ? ……朝音さんが記憶喪失になってから、一月くらいの時間が経った。ボクはその間、ずっと待っていたんだ。色々とおかしいことに気がついても、それを言うと君が嫌がると思ったから……ボクはずっと、我慢していたんだ。それなのに君は、まだボクに待てと言うのかい?」
「………………いや、でも……理由は何なんですか? 姉さんが自分の意志で記憶喪失になったとして、一体、姉さんはどういう目的で、そんなことをしたんですか?」
俺は目を逸らさず、真っ直ぐに桃花を見つめる。桃花はそんな俺を見て、笑う。おかしくておかしくて仕方がないと言うように、桃花はただ笑う。
「くふっ、何を言うかと思えば……ふふっ。真昼、君は本当に……それが分からないって言うのかい? そんなの少し考えれば、簡単に分かることじゃないか。今の状況がどれだけ朝音さんにとって都合がいいかなんて、わざわざボクが教えるまでも無いことだろう?」
「…………」
俺は、答えを返せない。
……だって、その通りだと思ってしまったから。
姉さんが記憶喪失にならなければ、摩夜や天川さんや桃花が、どんな行動をとったかなんて考えるまでも無いことだ。
俺の想いは、手紙という形で確かに彼女たちに伝えた。
でもそれで、彼女たちが納得してくれたかといえば、きっとそうでは無いのだろう。
摩夜は、殺すとまで言った。
桃花と天川さんは、監禁すると言っていた。
そんな3人が、何もせず大人しくしていたのは、姉さんが記憶喪失になったからだ。誰かが行動を起こす前に、姉さんがこんな目に遭ってしまった。だから、誰も動くことができなかった。
……いや、それだけじゃ無い。
姉さんが記憶喪失になってから、俺は姉さんのことしか考えられなくなった。あんなに強かった姉さんが、こんな風になってしまって、俺はどうしようもないくらい怖くて……。だから俺が姉さんを支えないとって、ずっと思ってきた。
姉さんが記憶喪失になる以前より、ずっとずっと俺は姉さんの事ばかり考えるようになった。
……そして姉さんも、俺が……天川さんとキスをしているのを見ても、俺の側に居てくれる。多少距離はできてしまったけど、それでも姉さんは俺の手を握って側に居てくれる。
それがどれだけ都合のいいことかなんて、本当は考えるまでも無いことなんだ。
「ねえ、真昼。君も分かっていたんだろう?」
「…………」
「でも君はとても優しいから、何も言わずにただ気づかないふりをして、朝音さんの側に居ることを選んだ。……ふふっ、君は凄いよ。こんなことになっても、当たり前のように他人の気持ちを考え続ける。……でもね? 朝音さんはどうなんだろう?」
桃花はそう言って、嘲るような視線を姉さんに向ける。
「朝音さん。貴女は一度でも、真昼の気持ちを考えたことがありますか?」
桃花の双眸が、真っ直ぐに姉さんの瞳を睨みつける。……対する姉さんは、俺の手をぎゅっと握りしめて、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「……ねぇ、真昼くん。私は……自分の都合で記憶喪失になって周りにいっぱい迷惑をかける、そんな……酷い女だったの?」
姉さんの潤んだ瞳が、怖がるように俺を見る。
「違うよ。姉さんは……優しい人だった。今も昔も、姉さんはいつも優しくて……。偶に無茶な真似はするけど、でもいつも俺のことを考えてくれていた」
「……でも……でも、そのせいで真昼くんは……いっぱい傷ついたんだよね?」
「…………それは……」
それは、違うよ、とは言えない。でも傷ついたっていいんだ。好きな人の為に傷つけるなら、それはとても幸福なことだから。
そう口を開こうとするけど、でも……きっとそんな言葉では、今の姉さんは傷ついてしまうだけだ。だから俺は何も言えず、ただ口をつぐむことしかできない。
「……まあ、無論これは憶測の域を出ない話だ。ただボクがそうだと思っているだけで、根拠なんて1つもない。……第一、自分の意志で自分の記憶を失くすなんて、人間業じゃない。朝音さんがいくら凄い人でも、そんなことができるとは思えない。だからこれは……あくまで可能性の話だ。だからね、真昼。別に君が、気に病む必要なんて無いんだよ?」
桃花はそう言って、優しく微笑む。それは心から俺の身を案じているような笑顔で、だからこそ俺は……思わず叫びそうになる。
勝手なことを言って、勝手に傷つけて、勝手に心配する。貴女は一体、何がしたいんだ!
「…………」
……でも俺は、無理やりその言葉を飲み込む。だってその言葉はきっと、隣にいる姉さんまで傷つけてしまう。だから俺は軽く息を吐いて、怒りを奥に押し込める。
「……さて、ボクの話はこれでお終いかな。デートの邪魔をして悪かったね。約束通りここの支払いはボクが済ませておくから、君たちはゆっくりと……2人だけの時間を過ごすといいよ」
桃花はただ言いたいことだけ言って、ゆっくりとこの場から立ち去る。
「…………」
「…………」
残された俺と姉さんは、しばらく何の言葉も発することができず、ただ唖然と空を眺める。
空はまだまだ青い。でもどうしても、動く気にはなれない。
「……行こっか? 真昼くん」
でも姉さんは、絞り出すようにそう告げる。
「そうだな。……まだ姉さんと行きたいところが、いっぱいあるんだ……」
だから俺もできる限りの笑顔を浮かべて、そう言葉を返す。そして立ち上がる前に、ずっと手付かずだったコーヒーを、一気に喉に流し込む。
「……にがっ」
コーヒーはとても苦くて冷たくて、俺は涙のような吐息をこぼした。
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