4章 いつかの日常を目指します。
新しい、日常です。
「貴方は、誰ですか?」
姉さんはそう言って、怯えるような瞳で俺を見る。
「…………」
俺はそれに、何の言葉を返せない。一応、話は聞いていた。目を覚ましてから、姉さんの様子がおかしい。もしかしたら、記憶に異常があるもしれない、と。
……でも実際に目の当たりにしてみると、今までの姉さんとのあまりの違いに、頭の中が真っ白になってしまう。
「…………」
姉さんは不安そうに、俺を見つめる。ドキドキとなぜか、心臓が早鐘を打つ。
「……本当に、何も覚えてないのか?」
「………………はい。すみません……」
「…………そうか」
姉さんは気まずそうに、視線を逸らす。俺はただ、そんな姉さんの姿をぼーっと眺める。
全生活史健忘。俗に言う、記憶喪失。今の姉さんの状態は、そういうものらしい。
姉さんは事故にあった。詳しい状況は聞いてないけど、姉さんが道路を横断しようとした時に、前方不注意の車にはねられたらしい。
その辺の話は、父さんと母さんが聞いてくれた。俺はただずっと、姉さんの病室で姉さんが目を覚ますのを待ち続けた。
「…………」
何ヶ月ぶりかに、父さんと母さんと話をした。久しぶりに会ったあの人たちは、やっぱりいつもと何も変わらなかった。
『朝音のことを頼む。お金のことは心配しなくていいから、できる限り側にいてやってくれ』
あの人たちはそれだけ言って、仕事に向かった。どうも仕事の方が、とても忙しいらしい。……そんなの、いつものことだ。感謝こそすれ、批難するつもりなんて微塵も無い。彼らがお金を稼いでくれるから、俺はこうしてここに居られる。
だからそれだけで、十分だ。
姉さんの側には、俺が付いている。
「……はぁ」
思わず、ため息が溢れた。思えば姉さんが目を覚ましたと聞いた時も、同じようにため息を吐いた。
姉さんが目を覚ましたのは、俺が一度、家に戻っていた時だ。流石に1週間近くも病室に留まっていると、摩夜も心配してくれたのか、
『……お兄ちゃんが倒れたら、元も子もないでしょ?』
そう言って、無理やり俺を家に連れ戻した。そしてその時に、ちょうど姉さんが目を覚ましたらしい。そしてそこで、姉さんの記憶に異常があることが分かった。
姉さんの頭に、特に外傷は無かったらしい。そこそこのスピードの車に轢かれたのに、姉さんの身体には傷一つ無かった。なのに、記憶だけが消えてしまった。だからもしかしたら、心因性かもしれないとお医者さんは言っていた。
……過度のストレスを抱えていた姉さんは、今回の事故をきっかけにそのストレスを抱えきれなくなって、記憶を無くしてしまった。そういう可能性もあるらしい。
「…………」
それはあくまで、可能性だ。……でも俺は、思ってしまう。もしかして俺が想いを告げたから、姉さんは……。
……なんて、バカバカしい。
姉さんがこんなことになってしまったのに、俺が弱気になってどうする。しっかりしろ、笹谷 真昼。お前が、お前の意志で選んだんだ。だからちゃんと、お前が支えてやれ。
大きく息を吐いて、思考をリセットする。
そして今度は、できる限り優しい笑顔で姉さんに声をかける。
「俺のこと……分かりますか?」
「……いえ、すみません」
「ならまずは、自己紹介ですね。俺は、笹谷 真昼と言います。一応、貴女の……弟です」
「…………私は……その、笹谷 朝音と言うらしいです。……その名前も聞いただけで、まだ実感が持てないんです。……すみません……」
姉さんは申し訳なさそうに、頭を下げる。俺はただ、できる限り優しい笑顔で言葉を続ける。
「謝らないで下さい。俺は……信じてますから。失くしたものは、いつか必ず戻ってくるって。……例えそれが無理なことでも、俺が絶対に取り戻してみせます。だから……」
だから、謝らないでくれよ。そんな泣きそうな顔で、謝らないでくれ。
「貴方は……その、私の弟なんですよね?」
「はい」
「なら、その……言葉は、その……敬語はやめた方がいいのかな?」
姉さんはそこで、初めて笑ってくれた。それは見るからに無理に浮かべた作り笑いだったけど、でも姉さんは確かに笑ってくれた。
……きっと、俺に気を遣ってくれたのだろう。
ダメだな。俺がもっと、しっかりしないといけないのに……。
「そうだな。やっぱり、姉さんに敬語を使ってると変な感じがするよ。だから、悪いけど敬語はやめるよ?」
「はい……ううん。分かったよ。……その……真昼……くん」
姉さんはどこか照れるように、俺から視線を逸らしてしまう。やっぱりまだ、名前を呼び捨てにするのは違和感があるのだろう。だって彼女からしてみれば、俺はただ弟を名乗るだけの、初対面の男だ。そんな奴と、いきなり親しくはできないだろう。
「……姉さん。じゃあ……ってあれ? そのペンダント。姉さんそんなのしてたっけ? ……というか、なんで2つも付けてるんだ?」
ふと、姉さんの首にかけられた2つのペンダントが目に入る。蝶々の羽をモチーフにした、白と黒のペンダント。姉さんは今まで、そんなものを身に付けていたことは無かった。
だから俺はそれが少し気になって、そのペンダントに手を伸ばす。
「ダメっ!」
でも姉さんは、それを拒絶するように声を上げる。
「これは……これは、真昼にプレゼントする為に買ったの! だから、ダメなの! 真昼……真昼以外は、これに触っちゃダメなの!」
姉さんはペンダントを守るように、自分の身体を抱きしめる。
「…………」
俺はその姿を唖然と見つめる。……姉さんは気づいてないのか? 俺はさっき、笹谷 真昼と自己紹介をした。なのに姉さんは、俺に向かって真昼の為に買ったプレゼントだから、触れちゃダメだと言う。
「どうなってるんだよ、ほんとに……」
……いや、とりあえずは、姉さんに落ち着いてもらわないとダメだ。まだ病み上がりなんだから、興奮するのは良くない筈だ。
「……姉さん。ごめん。そのペンダントには、触れないよ。だから……その、大丈夫だよ?」
「………………ほんとに?」
「ああ。大切なものなんだろ?」
「……うん。何も覚えてない筈なのに、これだけは分かるの。これは絶対に肌身離さず持ってなきゃダメだって。これは、だって……真昼とお揃いの……やつだから。真昼以外は触れちゃダメなの……」
「…………そっか」
今の姉さんにとって目の前にいる俺と、記憶の中の真昼は別人なのだろう。多くの記憶が無くなっているのだから、それくらいの食い違いは、おかしく無いのかもしれない。
……なら、俺のやることは決まった。
いや、初めからずっと決まっていたんだ。
「なあ、姉さん」
「なに?」
「……そのペンダント……ちゃんと渡せるように、俺が協力するよ。だからもうしばらく、一緒に居てもいいかな?」
「…………いいの?」
「ああ。俺は姉さんのこと……好きだからな」
「うん、ありがとう! 真昼くんは、優しいね」
「……優しくなんて無いよ。俺はただ、好きでやってるだけだから……」
そうしてここから、新しい物語が始まる。あの頃の姉さんともう一度出会う為に、俺が必死になって足掻く物語が、ここから始まった。
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