早く会いたいです。



 あれから数日して、姉さんはようやく家に戻って来れた。


「…………」


 ……しかしまだ、記憶は戻っていない。病院で何度か検査をしたけど、どこにも異常は見当たらなかった。なのに何故か、記憶は戻らない。だからようやく家に戻って来れたのに、俺はあまり喜べない。


 いやそれは、姉さんも同じなのだろう。久しぶりに家に戻って来れたのに、姉さんはあまり嬉しそうじゃ無かった。寧ろ少し不安そうで、ざっと家を案内すると『疲れちゃった』そう言って、夕飯も食べずに自分の部屋に戻ってしまった。


「……これから、だな」


 これから頑張って、まずは今の姉さんに信頼してもらうところから始めないといけない。……お医者さんが言うには、リラックスしている時に、ふと記憶が戻ることがあるらしい。


 だからまずは、この家を姉さんの安心できる場所にしなくてはならない。そしてそれにはまず、俺が姉さんにとって信頼できる人間じゃないとダメだ。


「でも学校、行かないといけないんだよなぁ」


 姉さんが事故に遭ってから、1週間近く学校を休んでしまった。姉さんは大学を休学するということになったけど、流石に俺はそういう訳にはいかない。だから俺は、明日から学校に行かなければならない。


 ……まあ、あんまり構い過ぎても鬱陶しいだろうから、徐々に頑張っていくしかないか。



 そう結論づけて、ベッドから起き上がる。



 すると、まるでそれを見計らったかのようなタイミングで、扉が開く。


「お兄ちゃん。ちょっと話したいことがあるんだけど、いいよね?」


 摩夜はそう言って、俺の返事も待たずに俺の部屋に入ってくる。


「……どうしたんだ? 摩夜」


「姉さんのことで、話があるの。……あの人、全部忘れちゃったみたいだね。私のことも、他の女のことも、お兄ちゃんのことも……全部全部、忘れちゃったみたい」


 摩夜は侮蔑するような目で、姉さんの部屋の方を睨みつける。そしてそのまま、言葉を続ける。


「……つまりそれって、たかだか記憶を失くした程度で、お兄ちゃんへの愛情が無くなったってことでしょ? 姉さんは結局、その程度の女でしかなかった。……なのにお兄ちゃんは、まだあの女のことが好きなの?」


 摩夜は真っ直ぐな瞳で、俺を見る。だから俺も、できる限り真っ直ぐに摩夜の瞳を見つめ返す。


「好きだよ。少なくとも俺の方は、記憶を失くしたくらいで姉さんを嫌いになったりしない」


「……お兄ちゃんは、優しいね。本当に……優しい。でもね、あの人の記憶は……もう2度と戻らないかもしれないんだよ? だから姉さんはこれから、お兄ちゃんとは別の男を好きになるかもしれない。……あの女の愛情なんて、その程度のものでしか無かった。それでもお兄ちゃんは……あの女がいいの?」


「ああ。それでも俺は好きなんだよ、姉さんが」


「…………そっか」


 摩夜は寂しそうな表情で、俺に手を伸ばす。でもそれは、躊躇うように途中で止まってしまう。


「お兄ちゃん」


「……なんだ?」


「私はもう、お兄ちゃんに触れちゃダメなのかな? お兄ちゃんは姉さんを選んだから、だから私はもう……お兄ちゃんに触れちゃダメなの? ……そんなこと無いよね? 私たちはだって……兄妹なんだもん。手を握るくらい、いいよね? 頬に触れるくらい、いいよね? お兄ちゃんは、また私と一緒にお出かけしてくれるよね?」


 摩夜は泣きそうな顔で、俺を見る。俺はそんな摩夜の頭を、軽く撫でてやる。……あくまで兄が妹にするように、そう心がけて優しく摩夜の頭を撫でる。そしてそのまま、ゆっくりと言葉を告げる。


「……大丈夫だよ。俺は姉さんを選んだし、姉さんが好きだけど、だからって摩夜との関係が全て無くなるわけじゃない。……だって摩夜は、俺の可愛い妹だからな」


 それは、残酷な言葉かもしれない。摩夜がちゃんと前に進む為には、きっとここで突き放してやる方がいいのだろう。


 俺は姉さんを選んだんだ。だからもう、お前には触れない。


 ……でもそんな言葉、俺が摩夜に言えるわけが無い。告白したって、終わるわけじゃ無い。寧ろこれから、始まったんだ。姉さんとの関係も、他の女の子のたちとの関係も、まだ何も終わった訳じゃ無い。だから俺は、まだまだ頑張らないといけない。その方が楽だからって、簡単に切り捨てる訳にはいかないんだ。


「……妹、か。そうだよね。うん、そうだよね……。でもお兄ちゃん。私は一生、諦めないよ。お兄ちゃんとあの女が結婚しても、子供ができても、皺くちゃなお婆ちゃんになっても、私は一生……お兄ちゃんが好き。お兄ちゃんが例え私を見てくれなくても、私は死ぬまでお兄ちゃんを愛し続ける。ずっとずっとずっと、お兄ちゃんの側には私が居る。それだけは……忘れないでね」


 摩夜は最後に蕩けるような瞳で笑って、俺の部屋から出て行く。俺はただ黙って、その後ろ姿を見送る。


「…………ダメだ……」


 少し、疲れた。休んでいる暇なんて無い筈なのに、どうしても眠くて……上手く頭が働かない。だから俺は、そのまま目を瞑る。明日からまた頑張る為に、俺は少し早めに眠りについた。



 ◇



 笹谷ささたに 摩夜まやは自分の部屋で、ただ静かに笑みを浮かべる。


「……ふふっ、姉さんが事故に遭った。せっかくお兄ちゃんに選んでもらえたのに、可哀想な姉さん。……でもね、これはやっぱり運命なんだよ。お兄ちゃんに、姉さんみたいな性悪は相応しくない。お兄ちゃんはやっぱり、私が守ってあげないとダメなんだよ……」


 摩夜は一度椅子に腰掛けて、真昼から貰った手紙を大事そうに机から取り出す。


「この手紙を見れば、分かるよ。お兄ちゃんがどれだけ、私を愛してくれてるか。……今のお兄ちゃんにとって、それは妹に向けるだけの感情かもしれないけど、でも……いつか絶対に振り向かせてみせる。私は絶対に諦めない」


 摩夜は遠い月を眺めながら、覚悟を決める。ふられたのは確かにショックだった。けどそんな痛みより、ずっとずっとずっと真昼が好きで堪らない。


 だから絶対に、諦めない。


 摩夜はそう覚悟を決めて、日が昇るまでずっと、真昼から貰った手紙を読み返し続けた。



 ◇



 笹谷ささたに 朝音あさねはベッドに寝転がって、ただぼーっと天井を眺め続ける。


「ここが私の家。ここが私の部屋。そう言われると、なんだか落ち着く気がする。……でも、なんでかな? どうしても……不安になっちゃう……」


 朝音は少し、今までのことを思い返してみる。自分が覚えている数少ない記憶。それは、優しい弟の真昼で埋め尽くされている。


「……真昼くんは、すごく優しい。いつだって私の側に居てくれる。……なのに、どうしてなんだろ? 彼を見てると、胸がズキズキと痛む……」


 朝音は手は、無意識に首にかけられたペンダントに伸びる。それに触れていると、少し落ち着く。そしてとても大切な何かを、思い出しそうになる。


 ……でも、


「早く真昼に会いたい……」


 でもどうしても、思い出せない。だから彼女は、ただそう呟く事しかできない。自分が口にした言葉の意味も分からず、朝音は無意識に真昼を求め続ける。


「……もう、眠ろう。起きてても……辛いだけだ……」


 朝音はそう呟いて、目を瞑る。しかしそれでも、いつまで経っても胸の痛みは消えてくれない。彼女は夢の中でも、ただ真っ直ぐに真昼の影を求め続けた。


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