どう思いましたか?

 


「海、綺麗っスねー」


 夕暮れに染まる海を眺めながら、天川さんはそう言葉をこぼす。


「……そうだな」


 俺も天川さんに倣うように赤い海に視線を向けて、言葉を返す。


「…………でも、海を見てるとちょっと寂しくなるっス。……手、繋いでもいいっスか?」


「……いいよ」


 2人で手を繋いで、砂浜を歩く。後ろに残るはずの足跡は、波がさらって消えていく。


「今日は凄く楽しい一日だったっス。人生で1番楽しい日だって、胸を張って言えるっス」


「大袈裟だな。……いやでも、俺も楽しかったよ」


「ふふっ。お兄さんにそう言ってもらえる事が、あたしは1番嬉しいっス!」


 天川さんは笑う。本当に楽しそうに、天川さんは笑う。


「天川さん。変なこと、聞いてもいい?」


「いいっスよ? お兄さんの質問なら、あたしはなんだって答えるっス」


「……天川さんは、俺のどこを好いてくれてるの?」


「全部っスよ。頭のてっぺんから、足先まで。お兄さんを構成する全てを愛してるっス」


「……そっか」


 無茶苦茶な答えだけど、俺は少し嬉しかった。だってそれは、俺の欠点も愛してくれているということだから。


「……でもお兄さん。本当に勘違いしないで聞いて欲しいんですけど、あたし昔は……お兄さんのこと、嫌いだったんス」


 天川さんにの瞳が、真っ直ぐに俺を見る。俺は……俺はそれを正面から見返して、当たり前のように言葉を返す。


「知ってるよ」


 だって天川さんが俺に初めてかけた言葉は『お姉ちゃんを、返せ!』だったから。


 ふと、風が吹く。冷たい風が俺と天川さんの間を吹き抜けて、遠い海へと消えていく。俺と天川さんは、どちらとも無く海に視線を向ける。そして、遠い過去を思い返す。



 あの欠けた三日月を、俺は今でも覚えている。



 ◇



 天川あまかわ 三月みつきは、幼少の頃からずっと1人だった。彼女の両親は仕事に明け暮れ、姉はずっと病院に入院していた。孤独だった。友達を作るのも苦手だった三月は、本当にいつだって孤独だった。


 ……いや、一つだけ例外がある。姉の病室を訪ねる時。その時間だけは、孤独を忘れられた。姉は自分のとりとめの無い話を、楽しそうに聞いてくれた。三月にとって、姉だけが唯一の繋がりだった。



 ……でも、その姉は唐突に死んでしまった。



 大きな手術を前に、彼女は病院を抜け出した。いくら探しても姿は見えず、そして見つかった時には、手がつけられないほど病状が悪化していた。そしてそのまま、彼女は死んでしまった。



 なんで?



 三月には分からなかった。今度の手術が上手くいけば、姉は家に帰れるかもしれなかった。そうすれば、ずっと一緒に居られる筈だったのに……。



 許さない



 1人の男が、お姉ちゃんを連れ回していたらしい。そいつのせいで、お姉ちゃんは死んだんだ。許さない。絶対に、許さない。三月はそう心に決めて、必死にその男を探した。



 そうして2人は、出会う。



 欠けた三日月を背に、辛く悲しい想いを抱いた2人は、その日、出会ってしまった。



 ◇



「…………」


 笹谷ささたに 真昼まひるはその日、海を見に行っていた。彼は少女が死んでからずっと、日が暮れるまで海を眺めていた。


「お姉ちゃんを返せ!」


 だから、そこで2人が出会ったは偶然では無かったのだろう。


「…………君は……」


 真昼は突然声をかけられ、困ったように少女を見る。


「お前が……お姉ちゃんを……殺したんだ……!」


 少女は唐突に、そんな言葉を投げかける。真昼はいきなりの事態に困惑するけど、少女の瞳を見て気がつく。


「そうか……。君が彼女の妹か……」


 この少女は、髪の色も瞳の色も彼女とは別物だ。けれど、悲しい雰囲気はそっくりだった。


「そうだ! お前がお姉ちゃんを殺したんだ! お前が余計なことをしなかったら、お姉ちゃんは手術してちゃんと家に帰れたんだ! ……返せ! お姉ちゃんを……返せよ……!」


「…………」


 三月の怒りに、真昼は何の言葉も返さない。どんな言葉を返しても、言い訳にしかならないと彼は知っているから。


「なんで……なんで……! 何も言わないんだよ! なんとか言ってみろ! お前がお姉ちゃんを……!」


「…………」


 三月は涙目で、真昼に掴みかかる。それでも真昼は、何の言葉を返さない。真昼はただ黙って、何かを耐えるような遠い目で三月を見つめるだけ。


「…………あ」


 その瞳を見て、三月は気がついてしまう。その何かを諦めたような遠い瞳は、姉と同じだ。本当に辛くて悲しくて、どうしようもない人間が最後にする、全てを諦めた瞳。三月は何度も、その瞳を見てきた。だから彼女は、気づいてしまう。



 この人も、同じなんだと。



「………………ずるいよ……。ずるい……! 何でお前が……。だって、お前のせいでお姉ちゃんは……なのに、お前がそんな目をしたら…………ずるいよ……!」


 気づけば三月は泣いていた。声を上げて、大粒の涙をこぼす。掴みかかっていたはずの手は、いつのまにか力が抜けていて、真昼の胸にすがりついて涙をこぼす。


「………………ごめん」


 真昼は絞り出すようにそう小さく言葉をこぼして、三月の頭を撫でてやる。本当はそんなこと、するべきでは無い。自分にそんなことをする資格なんて、あるはず無い。そう分かっているのに、真昼はどうしても三月を放っておけなかった。



「────」



 真昼の手は、温かかった。こんな風に誰かに優しくしてもらえるのは、いつぶりだろう? 父も母も、姉が死んでからますます家に帰らなくなった。だから、どうしても三月の心は動いてしまう。



 こいつが、お姉ちゃんを殺したんだ。



 そう分かっているのに、優しい掌に、優しい温かさに、優しい声に甘えてしまいたくなる。離さないで欲しかった。離したく無かった。でも、こいつは……!


「……なんで……なんで……なんでなんだよ……!」


「…………」


 涙が止まるまで、真昼はずっとそばに居てくれた。ドキドキと跳ねる心臓の意味が、もう三月には分からない。


「……家は?」


 唐突に真昼はそう声を上げる。


「…………あっち」


 三月はそう言って、真昼の背後を指差す。


「なら、送って行くよ。……歩けるか?」


「………………うん」


「…………」


 2人は一定の距離を開けて、歩き出す。でも、真昼は何の言葉も発さない。だから代わりに、三月が口を開く。


「…………最後に見たお姉ちゃんは、笑ってた」


「…………」


「本当に楽しそうな、笑顔だった。あんな楽しそうな顔、見たことないってくらい……」


「……………………そっか」


「うん」


 でもその程度のことで、三月は真昼を許さなかった。そして真昼も、そのくらいのことで自分を許したりしないだろう。きっとずっといつまでも、彼は自分を許さない。そう気がついてしまうと、胸いっぱいにあった筈の怒りが、どこかへと消えていってしまう。


「…………」


 三月はバレないように、そっと彼の顔を見つめる。……色の抜けた顔だった。自分が悲しむことで、誰かを傷つけると分かっている。だから必死になって心を殺す。そんな顔。



 ……お姉ちゃんに、そっくりだ。



 だから、許してしまいそうになる。でも、こいつのせいで、お姉ちゃんは死んだ。その事実は絶対に変えられない。




 ……だからいつまでも、この人は自分を許さないのだろう。


「…………」


 本当は、この人だけが悪いんじゃない。……自分がもう少しお姉ちゃんに寄り添えていれば、お姉ちゃんが病院を抜け出すことも無かった。


 お姉ちゃんは、不安だったんだ。そしてその不安を、この人が埋めてくれた。なら一体、この人の何が悪かったのだろう? ……もう三月には、何もかもが分からなくなってしまう。


「……あ、ここがあたしの、家」


 一つの家の前で、三月は立ち止まる。……家に明かりは付いていない。きっとまた、父と母は帰って来ないのだろう。……三月は少し寂しくなる。


「そうか。じゃあ俺は、行くよ」


「………………うん」


 その時、初めて真昼は笑った。まるで、寂しがる三月を励ますように、優しく頭に手を置いてくれる。


「…………ありがとう」


「……え?」


 真昼は最後に、そう言った。三月には、その言葉の意味が分からなかった。でもその意味を尋ねることは、できなかった。だってそれを言った彼の表情は、あまりにも……。


 そんなことを考えているうちに、彼は行ってしまう。引き止めるなんて、できるはずもない。


「…………」


 ありがとう、と彼は言った。



 罵っただけだった。傷つけただけだった。なのに彼は、ありがとうと言った。


「…………」


 三月はゆっくりと、自分の頭に触れてみる。そこにはまだ、彼の温かさが残っている。どくんと、心臓が跳ねる。胸に巣食っていた筈の寂しさは、いつのまにか消えていた。


「なにも変わってないのに。…………なんで?」


 お姉ちゃんは、死んでしまった。家には誰も、帰って来ない。あいつのせいで、お姉ちゃんは死んだ。あたしはずっと、1人なままだ。


 でも胸が温かい。


 世界はなに一つ変わっていない筈なのに、三月の世界は確かに変わってしまった。



「………………そっか。あの人は、神さまなんだ」


 だってそれ以外に、考えられない。ずっと埋められ無かった孤独を、彼は一瞬で埋めてしまった。そんな凄いことができるのは、神さまだけだ。



「お姉ちゃんも、同じだったんだ。……だからお姉ちゃんも、笑えたんだね」



 その日から、三月にとって真昼は特別な存在になる。どんなに辛くても、真昼のことを考えたら頑張れた。真昼がいるから、三月は強く生きられた。


 そうして摩夜の友達として、もう一度真昼と出会うまで、三月は努力し続けた。今度は彼に笑ってもらえるように、少しでも彼の役に立てるように、三月は頑張り続けた。



 そうやって、今の天川 三月は生まれた。



 ◇



「……あの時の女の子は、天川さんだったんだね。摩夜の友達として家に来た時とは別人だったから、気がつけなかったよ。……ごめん」


「いいんス。……いや寧ろあたしこそ、あの時はお兄さんに酷いことを言ったっス」


「いいよ。天川さんは当たり前のことを言っただけなんだから……」


 俺たちは2人で、夕焼けを眺める。楽しい時間だった。……けれど夕日は、沈んでしまう。


「そろそろ帰るっスか? お兄さん」


「……そうだな。今日は楽しかったよ」


「あたしこそ、最高の一日だったっス」


 ゆっくりと、2人で帰路に着く。


「…………そういえば、お姉ちゃんは夕焼けが好きだったんス。知っるっスか?」


「知ってるよ。……でも理由は、聞けなかったな」


 天川さんは空を見上げる。もう夕日は沈んでしまったのに、まるでまだそこに夕焼けがあるかのように、遠い空に視線を向ける。


「夕焼けの時は、泣いても許されるからって、お姉ちゃん言ってたっス。青空も夜空も長すぎるから、泣いていいのは夕焼けの時だけなんだって」


「……なんだよ、それ。そんなの……」


 好きって言えないじゃないか。


「それでもあの日、お姉ちゃんは泣かずに済んだんス。夕焼けになるまで我慢していた悲しさを、お兄さんのおかげで忘れられたんス。だからお兄さんは……胸を張っていいんスよ?」


「────」


 あの子は俺を、恨んでいるかもしれない。俺のせいで死んでしまったと、あの子今も俺を呪っているかもしれない。


 そんな訳ないって分かっているのに、どうしても怖くて……だから、逃げたんだ。


 俺は人の心から、逃げていた。


 でも……そうか。俺は、俺を許してもいいのかもしれない。だってあの子は確かに……

 笑ってくれたんだから。


「……ありがとう。天川さん」


「いいっスよ。あたしはお兄さんが、大好きっスから」


「…………それでも、ありがとう」


 今はその言葉で精一杯だ。でもいつかきっと、ちゃんとした想いを天川さんに伝えたい。今日のデートで、そう思うことができだ。


「じゃあ、あたしはこっちっスから」


「……送らなくても大丈夫?」


「はい。あたしはもう、泣いてるだけの子供じゃないっスから」


「そっか。……そうだよな」


 最後に天川さんの頭を撫でてやる。彼女に触れたいと、俺が思ってしまった。


「……えへへ。お兄さん、ありがとうっス」


 嬉しそうに笑う彼女から、手を離す。そして彼女は、駆け足で夜の闇へと消えていく。俺はそれを、見えなくなるまで見送った。



 今日のデートは、とても楽しいものだった。振り返れば思わず笑ってしまうくらい、本当に楽しいものだった。






 だから俺は、気がつかない。








「みーつきちゃん」


「……なんスか?」


「少し話があるんだけど、いいよね?」


 俺の知らない所で、姉さんと天川さんがあんなことになっているだなんて、俺が気付けるわけも無かった。


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