……ドキドキです!

 


 朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。何か変な夢を見ていた気がするけど、どうしても思い出せない。


「……まあいいか、どうでも」


 口から大きな欠伸が溢れる。時間的にはまだもう少し寝ていられそうだけど、今眠ったら多分起きられない。……だからあと5分だけ、寝ていよう。


 そう心に決めて、目を瞑る。……しかし、それを遮るように声が響いた。


「……ねえ、お兄ちゃん」


 そんな声が響いて、慌てて身体を起こし声の方に視線を向ける。


「………………どうしたんだよ? 摩夜。こんな朝、早くに……」


 ベットの横で、妹の摩夜が静かにこちらを見下ろしていた。


「…………その、どうしても……お兄ちゃんに、話しておきたいことがあって……」


「それで、こんな朝早くに?」


「うん」


 摩夜はどう見ても、ふざけているようには見えない。いやそもそも、摩夜は姉さんと違って寝起きドッキリとか、そんなふざけた事はしない。だから何か、真面目な話があるのだろう。


「……じゃあ、リビングにでも行くか? コーヒーでも淹れてやるぞ」


「ううん。ここでいい。この場所で、お兄ちゃんと話したい」


「…………」


 先程から摩夜は、俺のことをお兄ちゃんと呼ぶ。そんな呼び方は、もう随分とされていない。だから一瞬、これは夢なんじゃないか? そんな風に思ったけれど、春の朝の冷たい空気がこれは現実だと告げている。


 ……じゃあ一体、摩夜はどうしたっていうんだ?


「……あのね、お兄ちゃん。…………その、プリン食べたよ。……美味しかった……ありがとう」


「いや、それくらい別にいいよ。喜んで貰えたなら、俺も嬉しいし」


「うん。お兄ちゃんが嬉しいなら、私も嬉しい」


「……そうか。なら、よかったよ……」


 どうやら摩夜は、あのプリンを喜んでくれたらしい。それなら、わざわざコンビニまで走った甲斐もあったというものだ。……しかしあの摩夜が、お礼を言う為だけにこんな朝早くから、俺の部屋を訪ねてくるとも思えない。


「お兄ちゃんさ、私のこと…………嫌い?」


「いや、いきなりなに言ってんだよ。そんなわけ、無いだろ?」


「でも最近、私に冷たくなった」


「それは…………それは、あんまり馴れ馴れしくすると、摩夜が嫌がると思ったんだよ。俺は反抗期とか無かったし、あんまりお前の気持ちを分かってやれない。……けど、お前は俺と話すのを嫌がってるみたいだったから、距離をとった方がいいのかなって……そう思ったんだよ」


「……そっか。そうだったんだ。私の為、だったんだね。……そうだよ、お兄ちゃんが私のこと嫌いになるなんて、そんなわけないもんね。 ……私が好きなプリンも、ちゃんと覚えててくれたもん……!」


 摩夜の瞳が、爛々と輝く。その瞳の意味が俺には分からないけど、でも何故かびくりと身体が震える。


「……まあな。…………いや、お前の為にって言うのもおこがましいか。……要するに俺は、摩夜に嫌われたく無かったんだよ」


「そっか。そっか。そっか。そっか。……そうなんだ……!」


 摩夜は笑う。心の底から嬉しそうな表情で、震えるように摩夜は笑う。


「それでさ、摩夜。聞きたいんだけど、こんな朝早くから一体どうしたんだ? 何か……相談とか悩みでもあるのか? それとも、体調でも悪いのか?」


「ううん。違う。そうじゃないの……」


 そう首を横に振って、摩夜は一歩俺に近づく。その表情はさっきの笑顔から一変して、どこか泣きそうな表情で、俺はまたドキリとさせられる。


「……昨日、あんなことがあってさ、私、自分の心を上手く制御できないの。眠ろうと思っても、ずっとお兄ちゃんの事ばかり考えちゃって、どうしても……眠れない。お兄ちゃんに会いたくて、お兄ちゃんと話したくて、お兄ちゃんに触れたくて、でもどうしても……素直になれない……」


「…………」


 俺はただ黙って、摩夜の言葉の続きを待つ。


「だからね、諦めようって思ったの。あのプリンで、お兄ちゃんが……私のことを気にかけてくれてるって分かったから、それで満足しようって、何度もそう思おうとしたの。……でもどうしても、お兄ちゃんに会いたくて、どうしても……我慢できなくて……!」


 摩夜の声が震えている。もしかして、泣いているのか? そう思って摩夜の顔を覗き込むけど、涙は流れていない。ただ爛々とした瞳が、俺を見る。


「…………摩夜……」


「ごめんね、気持ち悪いよね……? でもね、自分でも止められないの。どうしても、どうしても、どうしても、胸が痛くて。お兄ちゃんが……欲しくて……」


「…………」


 どんな言葉をかけてやればいいのか、俺には分からない。いやそもそも、摩夜が何を言いたいのかすら、俺には分からない。……でも俺が、何もしない訳にはいかない。



 ──だって俺は、お兄ちゃんだから。



「…………え?」


 俺は、優しく摩夜を抱きしめた。壊れないように、宝物を扱うように、優しく摩夜を抱きしめる。


「大丈夫だよ、摩夜。大丈夫だから……」


 優しく背中を撫でてやる。摩夜は一瞬、呆然としたけど、すぐに強く俺を抱きしめ返してくれた。


「……ごめん、お兄ちゃん……ごめんね……! 私……臆病だから、怖くて……。大丈夫だって分かってるのに、でも怖くて……だから……!」


「いいよ、謝らなくて。全部許してやるから、今は……大人しくしてろ」


「…………うん……! お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん……!」


 摩夜の鼓動が伝わってくる。ドキドキドキと、すごい速さで心臓が脈打っている。だから俺は、摩夜の心が落ち着くまで、こうしていようと決める。


「…………」


 摩夜の頬に、涙が流れた。その意味が、俺には分からない。摩夜が今なにを流しているのか、きっとどれだけ言葉を尽くしても、俺は理解してやれない。だから俺は、涙に気がつかないふりをして、ただ優しく摩夜を抱きしめ続けた。


 それくらいしかしてやれないのなら、それだけは俺の役目だと信じて。


「…………」


 空白が流れる。それくらい、静かな時間。そんな秒針の音すら消え失せた真っ白な世界で、摩夜は一言呟いた。


「ありがとう」


 摩夜の瞳が、真っ直ぐに俺を見る。涙は、止まっていた。


「いいよ」


 俺は軽い笑顔とともにそう答えて、ゆっくり摩夜から手を離す。


「お兄ちゃん」


「なに?」


「…………」


 摩夜は名残惜しそうにこっちに手を伸ばすけど、すぐにその手を引っ込めてしまう。


「…………これはさ、夢なんだよ。これは全部、夢なの」


「……そうなのか」


「うん。私はね、お兄ちゃんにこんな弱いところを見せたりしないし、お兄ちゃんもね、あんなに優しく私を抱きしめたりしないの。……だからこれは、ぜんぶ夢」


 摩夜はそう言って、透き通るような笑みを浮かべる。その笑顔はいつもと同じ……いや、俺のことをまだお兄ちゃんと呼んでくれていたあの頃みたいな笑顔で、俺は少し……寂しくなってしまう。


「……夢、か。摩夜がそう言うんだったら、そうかもしれないな」


 でも、摩夜が今のことを忘れたいと言うのであれば、俺はそれで構わない。弱さっていうのは誰にでもあるもので、誰だってそれを知られたくないものだ。


 ……無論、俺だってそうだ。


「うん。私はもう大丈夫。ずっとうるさかった心も、今はすごく静か。……お兄ちゃんが、優しく抱きしめてくれたから……」


「そうか。なら、よかったよ」


 これで夢は、覚めるのだろう。この静かな夢が、摩夜の悪夢を連れて行ってくれるのなら、俺がそれ以上に望むことはない。


「お兄ちゃん」


「……なに?」


「後ろ。最後に一回、後ろ……見てみて」


「うん? 後ろ?」


 ベッドに腰掛けた俺の後ろには、白い壁しかない。そんなことは振り返らずとも、分かっている。……でも摩夜の願いを断る理由なんて俺には無いから、言われるがまま後ろを振り返る。




 無論そこには、白い壁しかない。




 だから俺はゆっくりと、摩夜の方に向き直る。何故か、酷く時間がゆっくりと流れる。そんな錯覚を覚えながら。



「────」



 そこで一瞬、俺の時間が止まった。


「……またね、お兄ちゃん」


 摩夜はそう言って、俺の部屋から出て行く。頭の中が真っ白で、俺はそれに返事をすることもできない。だからただ唖然と、無言で摩夜を見送る。


「…………」


 ドキドキドキと、今度は俺の心臓が早鐘を打つ。何故だか酷く身体が重くて、溶けるようにベッドに倒れ込む。


「…………今……」


 無意識に、指が唇に触れる。そこにはまだ、柔らかな感触が残っている。




 柔らかな、キスの感触が。



「…………夢、か」


 いくらそう思おうとしても、唇に残る感触がそれを否定してしまう。あの温かで柔らかな、摩夜の唇の感触が。


「…………」


 ただ黙って、天井を眺める。早く動けと、スマホから目覚ましのアラームが鳴り響いても、俺は動く気にはなれなかった。

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