第15話オーバードーズ(過剰摂取)
オーバードーズ(過剰摂取)
クリスタルガイザーのボトルからグラスに並々と水を注いだ。
力が入りすぎているのか、あるいは先を急ぐ気持ちがそうさせるのか、柔らかすぎるペットボトルの中程が大きくへしゃげている。
物入れの中の龍也の鞄…その中に忍ばせたポーチ…ポーチの中の覚醒剤と注射器…。
初めて龍也がこの鞄を私の部屋に持ち込んだ時、黙って中を確認しただけで龍也はあからさまな不機嫌を私にぶつけた。
今日の私は、龍也に黙ってこの中にある薬を使おうと言うのだ…。
あの時とは状況がちがう。
殴られるかも知れない…。
かまうものか…どうせこの中にある薬も、私が渡したお金で買ったものだ。
私がどう使おうと、龍也が反論できる理由など1ミリだってあるはずがない。
昨日までの私なら、龍也の言いつけを守りこの鞄を物入れの奥から取り出すことさえしなかっただろう。
でも今の私は…。
たった一度の…いや、あの変態男が私に黙って覚醒剤を私のアナルの中に押し込んだのも1回と数えるなら、夜明けまでにあの男が私に打った注射の数が2度、そしてアナルの中の…。
3度の覚醒剤の使用が、私の性格や考え方に変化を
使い方は分かる…。
あの薄汚い男がやった事をそのまま真似をするだけ。
1ccの使い捨ての注射器…。
この鉛筆の様な注射器の中に5ミリほどの砕いた結晶を落とし入れ、その倍ほどの水で結晶を溶かした。
注射器の中の空気を全て抜き、後は自分の血管に押し込むだけだ。
顔を洗うときに使っているヘアバンドを左腕の肘あたりにキツく巻いた。
私の細い腕に青白い血管が浮かび上がる。
その血管をめがけ注射器の針を突き立てるだけ…分かっているのに…自分の腕に注射針を刺すことができない。
震える手…揺れる針先…ゆっくりと針の先を浮き出た血管に合わせようとすると腕が逃げる。
ならば針先を固定し、その針に腕を近づけると手首から先が大きく揺れて狙いが定まらない。
先端恐怖症…そんな言葉が頭に浮かんだ。
私の身体の上にまたがり、いとも簡単に自分の体の中に覚醒剤の水溶液を押し込んだあの変態男…。
自分の体に自分で注射を打つことが、真似ようとも真似のできない特別なことの様にさえ思える。
どうにかして腕の皮膚を突き破り身体の中に針を押し込んでも、今度は血管に針を刺すことができない。
何度か繰り返すうち1ccの注射器の中が血の混じった液体で一杯になった。
それでも…押したり引いたりを繰り返すうち、少しずつ覚醒剤の水溶液が体に入ったのだろうか…。
指の震えがいつしか消えていた。
腕に注射針を刺すことにも躊躇がない。
明らかに血管を通過した感覚があるのに、血を引くことができない。
注射器を腕から外しティッシュの上で注射器の中棒を押してみた。
固まった血で針の先は詰まっていた。
新しい注射器を取り出し、私はまた新しい覚醒剤の水溶液を作った。
新しい注射器は一度で私の血管を探し当て血液を逆流させた。
肘の上でキツく結んだヘアバンドを緩め、ゆっくりと注射器の中棒を押した。
半分ほど押したとき、針の先に激痛が走った。
血管から針が外れたことが分かった。
少し後ろに引いてみた。
また血液が逆流した。
中棒を押した。
抵抗なく残りの液体が私の身体の中に消えて行った。
注射器を抜いた。
いつまでも血が止まらない。
あの変態男が打ってくれた時は、一滴の血液が盛り上がっただけだと言うのに…。
血管を外した時、無理に押し込んだ血液が溢れ出てきたのだろう。
注射器を洗おうとコップの中の水を吸い上げようとした時、ぐらりと揺れるほどのラッシュとともに猛烈な性欲が湧き上がった。
私は今使った薬や注射器、血の付いたティッシュさえもそのままに、激しく自分を弄びはじめた。
背筋を駆け上がるほどの快感に気が狂いそうだと言うのに、私の一番敏感な身体の先端は真冬の寒空の下にいる様に、身体の奥深くにめり込んで顔を出さない。
女の体に近づきたくて、切り取った睾丸のあったその付近を強く押し、強制的にその先端に血液を送り込んだ。
めり込んでいた先端が顔を出し、その先端を弄ぶと今抱えてる悩みも、太月姐さんに叩き潰されたプライドのことも、龍也に会うことの恐怖さえも跡形もなく消えて行った。
ただ快感を貪るその意識だけが研ぎ澄まされていく。
吐き気がするほど憎いと思ったあの変態男が…あの変態男とまぐわったあの光景が…あの変態男にされたあらゆる非日常のセックスとも呼べない淫欲のそして限りなく猥褻な行為が、繰り返し映像をともなって私の脳を支配している。
会いたい…なぜそう思うのかは分からないが、私は無性にあの変態男に会いたいと思った。
会って互いに覚醒剤を使い、私を下品なそして淫乱な娼婦として扱って欲しいと思った。
私の身体を、壊れ物のように優しく扱う龍也とのセックスでは絶対に得られない背徳の快感。
下品なそして薄汚い男に犯されている憐れな自分……想像するだけで巨大な性欲の塊が私を押し潰そうとしている。
私はゴミ箱をひっくり返し、粉々に引きちぎったメモ用紙…あの男の電話番号が書いてあるあのメモ用紙を集めた。
ジグソーパズルのように一枚一枚セロテープで貼り合わせると、電話番号はすぐに復元され読み取れるようになった。
会いたい…私がそう切り出せば、あの男はどんな顔をするだろう。
「ゲヒヒ」と下卑た笑いを漏らすだろうか。
考えるだけで悪寒が走った。
同時に、私は自分の股間に力が漲るのも感じていた。
あの男が私に見せた小さなビニール袋。
その中にあったわずかな覚醒剤の結晶。
その何倍もの量の覚醒剤が今私の手の中にあった。
新宿でも有名なポン中…太月姐さんの言ったことが本当なら、薬があると言うだけであの男は私の言う事を聞くだろう。
好きか嫌いかを言えば、あんな不潔で下品な男など吐き気がするほど嫌いだ。
そして、こんな薬物を私に教えたあの男が憎かった。
しかし…薬物で犯された私の身体が、私の脳が、私の本性があの男を求めていた。
スマートフォンを手に取った。
ディスプレイ画面は直ぐに発光し、龍也と私が並んで映る後ろ姿を浮かび上がらせた。
その壁紙を見てさえ、私には何の躊躇も無かった。
3つ並んだデジタルの数字が朝8時を過ぎている事を教えた。
窓の下には、通勤に急ぐ疲れた顔の人の波。
こんな時間にあの男は起きてるだろうか…いや、そもそも覚醒剤に脳みその奥の奥まで侵されてるあの男のことだ…寝てなどいないだろう。
11桁の数字を押した。
間髪入れずに聞こえる男の声。
二つ返事で取り付けた約束…。
私はすっかり落ちてしまった化粧を直すことさえもどかしく、龍也のポーチに覚醒剤と注射器を詰め大急ぎであの変態男の元へ向かった。
この事も太月姐さんの耳には入るのだろうか…。
そう思いながらも華やいでいる自分がいた。
それがどんなにおかしな事なのか…自分で気づく事もなく…。
やけに静かな目覚めだった…。
いつも喧騒の中に包まれている新宿に移り住んでから、こんなに静かな朝を迎えたことがなかった。
鳴り止まないサイレンの音、怒鳴り合う人の声、耳障りな女の高笑い…。
そんな雑踏が当たり前の日常になって久しいはずだった。
ここはどこなんだろう…眠りにつく前、私はどこで何をしてたのだろう…冷めることのない
目覚めては眠り、そしてまた目覚めては眠る。
その繰り返しの中で私の意識は次第に輪郭を表し、あの変態男と淫欲の限りをつくした自分を、まざまざと思い浮かべることができた。
下卑た笑い、薄汚い逸物、喉の奥に吐き出された精液の匂い…。
ぼやけていた輪郭がはっきりとした映像に変わり、その映像が記憶に置き換えられた瞬間、胃はその内容物を突き上げ私は激しい嘔吐にみまわれた。
水に溺れる人のように、喉の奥でゴボゴボと言う音がするだけで何も出てこない。
体を折り曲げようにも身動きすらできない。
どうやら私は体を拘束されているらしい。
鼻の奥に例えようのない違和感…全く自由の効かない腕を無理矢理に持ち上げ、鼻のあたりを触った。
何か太い管のようなものが入っていた。
今の自分が置かれている現状を、全く理解することができなかった。
「起きたの?」
優しい声が聞こえた。
太月姐さんだった。
オーバードーズによるショック状態で、私はもう3日も救命措置を受けていたらしい。
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