第14話 秘密
秘密
「この太月姐さんを舐めるじゃないよ」
やっと口を開いた太月姐さんが震える声でそう言った。
『何を大袈裟な…』
たかが常連客の機嫌を損ねたくらいで…そう思う私は反抗的な態度で太月姐さんを見返した。
「この小娘が」
そう言って太月姐さんは右手を大きく振りかぶった。
私はその手が振り下ろされるのを避ける様に、両手を上げ防御の姿勢を取る。
目をつぶり首をすくめて待ったが、振り上げた太月姐さんの右手が、再び私の頬を打つことは無かった。
ゆっくりと目を開けた。
振り上げた手を震えるほど強く握り締め、太月姐さんが泣いていた。
内臓を鋭利な爪で鷲掴みにされる様な、例えようのない心の痛みが私の反抗心を奪って行く。
堰を切ったように私の瞳から涙が流れ落ちた。
その涙が…今日の接客でしくじり、店に迷惑をかけてしまったことへの後悔なのか、あるいはこの頃の誰にも相談できず悩んできた龍也との関係によるものなのか、それとも…薬物をやってしまった自分の後ろめたさなのかも私にはわからない。
ただ…溢れ出す涙を自分で止めることは出来なかった。
「上がるよ」
そう言って太月姐さんは私の許可を得るまでもなく、ずかずかと私をまたぐ様に乗り越えベットしかない小さな部屋の奥へ上がり込んだ。
私はおずおずと太月姐さんの背中に従い、玄関へ続く内ドアを開けたままその場に正座した。
「足なんか崩しなさいよ」
ベットの上にドカリと乗った太月姐さんが声を掛けた。
「いえ」
私は答え、正座のまま太月姐さんと向き合った。
それもまた反抗的な態度に見えたのだろうか…。
太月姐さんはやれやれと言う様な顔で電子タバコのスイッチを押した。
ブブブッと言う音が、やけに大きく聞こえた。
「ヤクザの情夫が身体を売るのは
電子タバコの薄い煙を吐き出しながら太月姐さんが言った。
知ってたんだ…そう思いながら、私は恥ずかしさで消えてしまいたい。
「それをとやかく言う気は無いよ…ただね、この新宿で…あんたがwiilにいる限り、絶対にやっちゃいけないことがあるんだよ」
「はい」と答えたが、太月姐さんの言うやってはいけないことが春を売る事なのか、あるいは薬物のことを言ってるのかは理解できなかった。
私が覚醒剤を使ったのは昨日のこと…知られるわけがない…そうたかを括っていた。
「世の中にはね、人を奈落の底に落としておいて、それを自慢話の様に吹聴する大バカモノが腐るほどいるのさ」
そう言われ、私はバネ仕かけの様に太月姐さんの顔を見た。
「あんたが昨日相手したのは歯の抜けた50絡みのおっさんじゃないのかい?」
私は再び太月姐さんから視線を外し、ベットに座る太月姐さんの大きなくるぶしを、ただ無言で見つめていた。
「よくもあんな気狂いと…」
気狂いという言葉に私はまた反応する。
「知り合いなんですか」
震える肩でやっと絞り出した言葉…。
「知り合いなもんかい、ただこの新宿じゃあ有名な変態さ。しかも大ポン中のね」
太月姐さんの言葉が大袈裟ではないことを、私は昨夜身をもって体験している。
もっと早く教えてくれれば……そう思ったところで、教える相手だってどう教えれば良い…。
「あいつは変態のポン中だから春を売っちゃダメよ…」そんな事を誰が忠告できよう…。
「あの変態がね、夜明けにインカジ(インターネットカジノ)に来て若いオカマに薬を教えてやったって、朝まで俺のチンポを咥えてヒーヒー言ってたって大威張りさ」
私は羞恥で顔が上げられない。
「誰だって初めて薬をやればそうなるさ、この私だってね」
私は再び弾かれた様に太月姐さんの顔を見る。
太月姐さんが無言で頷く。
「この新宿にいれば、ほとんどの人間が一度は通る道さ…みんなとは言わないけどね」
私の瞳からまた涙がこぼれ落ちた。
正座した足の付け根で握っている拳の上に、小さな水溜まりが広がって行く。
「あんたは考え違いをしてるよ…いつか親分が泉のことを、時には体を売って自分を支えてくれたって言ったけどね、それは言葉のアヤってやつでさ、泉が自分を売った相手は大会社の社長や政治家…一度寝れば1ヶ月は遊んで暮らせる金をもらっての話しで、あんたみたいに見境も無く誰とでも寝たって話じゃ無いんだよ」
もうやめて欲しい…そんなに私のプライドをズタズタにしなくても良いじゃないか…。
そんなことを思いながら、私は涙を流し続けるしかなかった。
「あんたがあの変態に幾らで自分を売ったのかは知らないけどさ、トランスジェンダー、性的マイノリティ、おカマ、ニューハーフ…言い方は様々だけど、ゲイ…つまり個体数が少ないってことは高く売れるってことでもあるんだよ」
確かに太月姐さんの言う通りかもしれない。
入れ食いとは言わないが、ニューハーフである事を公表して募集をかけても、相手はいとも簡単に見つけることができた。
むしろ出会い系のマッチングサイトでは、女よりニューハーフの方がマッチングの率が高いのではないかと思うことさえある。
物珍しさ…それも付加価値の中で私は泳いでるのかも知れない。
「龍也のことを思ってやってるんだろうけど、逆に龍也をダメにしてるんじゃないのかい?」
図星だ…。
床に叩き付けられた様な衝撃に目眩さえ覚え、ぐらりと景色が揺れ横座りとなってようやく身体を支えた。
「おまけにあんたが薬を覚えて、二人でポン中街道まっしぐらじゃ龍也の行く末だって火を見るより明らかじゃないか」
「もう良いじゃないですか…」
力なく私は声を発した…。
太月姐さんの片眉がピクリと上がった。
「もう十分です!私の事ならともかく、彼の悪口まで太月姐さんに言う資格があるんですか!」
叫び…。
私の事だけなら黙って聞いていた。
でも…私が自分を安売りしようと…この新宿で有名な変態のポン中と薬をやろうと、龍也にはなんの落ち度も無いのだ。
そんな事さえ傍に押しやって、どの立場で太月姐さんは龍也の悪口を言うのだろう。
そう思うと、今目の前で偉そうに諌めごとを口にする太月姐さんが、どこかふてぶてしく見えて許せなかった。
「そうかい…だったらこれで帰るけど、これだけは忘れるんじゃないよ、この新宿であんたみたいなポッと出の小娘がいくら上手に裏の仕事で金を手にしようと、この太月姐さんの耳にはなんだって聞こえてくるんだからね」
私はこれでもかと奥歯を噛み締め、太月姐さんの目の奥を力強く見つめ返した。
「今日は泉は来ないよ。泉がここに来るってことはなにかしらの決断をするってことだからね。あんたが正常に戻るまで店には来なくて良いよ」
そう言って太月姐さんは立ち上がった。
玄関で10センチはあろうかと言うピンヒールに足を入れながら、太月姐さんは再び私と向き合った。
「ここに来る前に龍也に電話を掛けたけど繋がらなかったよ。電話に出ないヤクザに出世の道は無いって…それだけ伝えておきな、太月のオジキが言ってたってね」
捨て台詞…そう聞こえそうな投げやりで、太月姐さんが部屋を出て行った。
ひどく長い時間に感じていた。
クタクタに疲れているのは昨日からの薬が切れているせいだろう。
昨日のことがあって、私は丸2日寝ていない。
泥の様に眠りたい…眠りたいのに…私はまたあの悪魔の薬が欲しくなっていた。
別れ際にあの変態男から渡されたメモ書き。
あの男の電話番号…。
「欲しくなったら電話しろよ」
下卑た笑い…思い出し吐き気が込み上げた。
私はトイレに駆け込み、黄色い胃液が出るまで吐き続けた。
男がくれたメモ書きを粉々に引きちぎり、声が枯れるまで泣いた。
泣きつかれた後、私はベットマットに背中を預け呆然と天井の一点を見ていた。
「なんでこうなったんだろう…」
答えのない問いかけを繰り返す。
そして私はある思いに至る。
龍也がいつも薬を隠す場所…。
部屋中に響き渡る様な大きな音で、私は唾をごくりと飲み込んだ。
静まり返った部屋に、古びた冷蔵庫のモーターの唸りがやけに大きく聞こえる。
私が座っている場所とは対岸にあるベットの向こうの物入れ…。
その中にある龍也の黒い鞄。
どれだけの間、物入れの扉を見つめていたのだろう…。
意を決し、私は物入れの扉をゆっくりと横に引いた。
とてつもないオーラを放ってその鞄は物入れの奥深くに鎮座していた。
初めてこの鞄を見た時は、中に大量の覚醒剤と拳銃があった。
ズシリと重かったはずの鞄も、今は気が抜けるほど軽い。
その軽さが、今とあの頃の龍也の違いでもあるかの様に…。
ゆっくりと鞄のジッパーを開ける…。
その中にまた小さな黒いポーチ…。
使い捨ての注射器が数本と小さなチャック付きのビニール袋。
詰め替え用の味の素ほどの大きさ。
そのビニール袋一杯に入った結晶…悪魔の薬…。
それは紛れもなく、あの変態男が私に見せた同じ粉末だ。
たった今、太月姐さんにズタズタにされたプライド…。
その原因は全てこの薬から始まっている。
憎むべきはずの薬物…捨ててやる…こんな物は残らず捨ててやる…。
そう思った直後には、この悪魔の薬を捨ててしまえば龍也が困るはずだ…これだってきっとお金に変わるのだろうと捨てなくて良い理由を探し始める。
そして…私が今、この薬を自分で使う理由を探していた。
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