第13話 演じきれなかった日常

演じきれなかった日常





いつもと変わらない化粧、いつもと変わらない服、いつもと変わらない接客、見せかけの日常…。


私の体の中に、あの悪魔の薬物がまだ滞留している。


小刻みに震える指先…客のタバコの先にライターを差し出す時、グラスの汗を拭く時、そのグラスを静かに客の前に置く時、いつもは簡単に氷をつかめるトングが何故か上手く扱えない。


平静を演じれば演じるほど、私の行動はチグハグとなり背中はじんわりと汗ばんでさえいた。


誰かに気付かれはしないか…。


その誰か…毅然と親分の後に従うあの龍也が覚醒剤をやっている事を、いとも容易く見抜いた泉ママ…。


その泉ママさえ苦しんだ薬物地獄を、間近で支え続けていた太月姐さん…。


絶対にバレてはいけない二人。


同じホールの中…平静を演じている私の目だけが忙しい。


それを無意識と呼ぶのかどうかは疑わしいが、私は泉ママと太月姐さんのいる場所を常に探している。


二人の視線がこちらに向きそうな瞬間、暗いホールの中で私は急いで視線をそらし何か接客に没頭しているふりをした。


ミスと呼ぶにはあまりにも滑稽な失態が積み重なっていく。


オカマバー…特にこのwiilは料金が高い。


客層も、遊び慣れたミドルクラスが多い。


それだけにキャストへの目も厳しく、新人を嫌う客も多かった。


今、この席の客も…。


大きな商社のお偉いさん。


もともとは泉ママの専属だった常連の上客。


近頃は決まって私を指名してくれていた。


その客が接客に身の入らない私にだんだんと苛つきを覚えたのか、あからさまな不機嫌を貼り付け席を立った。


私には一瞥いちべつもくれず、この店へ続く直通のエレベーターの前に立った。


マネージャーと泉ママがあわてて駆け寄る。


「ちゃんと教育しておけ」


うるさいほどのBGMの中、その言葉だけがはっきりと聞き取れた。


マネージャーが泉ママの一歩後ろでかしこまっている。


泉ママが何度も何度も頭を下げながら、その客とエレベーターの中へ消えて行った。


私は放心したようにその様子をただ眺めていた。


直ぐにマネージャーが飛んできて私を諌めた。


「何やってんだよ美和ちゃん」


何をやっていると言われても…私はいつもと変わらない平常心を必死で演じていただけ…。


「すみません、今日はちょっと体調が悪くて…」


こんな時、私が本当の女だったら…生理のせいにでも出来たかも知れない。


でも…私はニューハーフ…体の不調は単なる自己管理の甘さでしか無い。


そして…私だけはその体調の悪さの原因を知っている。


呆然と立ち尽くす私の目の前…薄暗い店内の真ん中でゆっくりと明るい空間が広がって行く。


エレベーターのドアが開き、泉ママが厳しい顔で降りてきた。


「美和、今日は帰りなさい。店がひけたら行くから部屋から出ちゃだめよ」


『はい』以外の返事は許さない…そう言わんばかりの剣幕で泉ママは言った。


私は深々と頭を下げ、逃げ出すように店を飛び出した。


店を出る前、ホールの出口で太月姐さんと目が合った。


泣きそうな顔…そう見えたのは気のせいだろうか…。


泉ママに言われた通り、マッチ箱のようなあの部屋に真っ直ぐに帰るしか無い。


太月姐さんの目が、それ以外の選択を許さないと言っているように思えた。


あの薄汚い男と覚醒剤をやる前の夜、龍也が収めるべきヤクザの上納金ギリ30万円を渡した。


その金が本当に組織の上納金として使われているのかどうかも、今の私には分からない。


その証拠に、その日から龍也は帰って来ていない。


もしかすると…他に女がいるのかも知れない。


それとも…自分は博打うちと公言する龍也の事だ。


どこかの博打場ぼんで熱くなっているのかも知れない。


いっそ、その方が今はありがたい。


私が何をして金を稼いでいるのかは、龍也だってお見通し…ただ話題にしないだけ…。


ヤクザである以上、女房を質草に置いても張らなきゃいけない虚勢がある。


龍也をおとこにするため…泉ママだって若かりし頃は身を売って親分に尽くした…親分がそう言っていた。


今はそれが私の役どころ…変態野郎のチンポをしゃぶる事くらい何とも思わない。


龍也だって同じ気持ちで耐えているはずだ…。


だからと言って…自分の女がいくら金のためとは言え、他の男と薬物を使ったキメセクをしてきたとなれば…薬物によって感覚が高まり、他の男の汚いチンポで気持ち良くなってきたとなれば…それは龍也じゃなくたって絶対に面白いわけがない。


絶対にバレてはいけない人が泉ママと太月姐さんなら、絶対に知られたく無いのは龍也以外にはいなかった。


『どうか今日も帰ってこないで欲しい』夢にもそんな事を思ったことはないが…今日の私は祈るような思いで、マッチ箱のようなあの小さなマンションへの道を、力無く歩くしか無かった。


同じ新宿の街の中、どんなにゆっくり歩いても今おびえている心の中の闇に、答えを出す間もなく私はマンションの前にたどり着く。


逃げようか…いつも通りの私に戻れるまで…演じる必要のない当たり前の自分になるまで…私はこの新宿から離れたい。


でも…今ここで逃げ出したとしたら、泉ママは再び私を受け入れてくれるだろうか…。


wiilから逃げ出すということは、このマンションからも逃げ出すということ。


つまり…龍也と暮らす唯一の城を無くすこと…。


半年前なら…そう、龍也にお金を渡し始めるその前だったら…。


新たに部屋を借りるくらいのお金はあった。


でも今は… 財布の中には昨日あの薄汚い男から貰った2万円と、後はわずかな小銭…。


それが日常となって、もうどれだけの時間が過ぎたのだろう…。


一度お金を出すと男はそれに甘えてしまう。


薬物に侵された男なら尚のこと…龍也ほどの男でさえそうなのだから、その辺の薬物依存の男なら甘い顔を見せた途端身包み剥がされ、しゃぶり尽くした後に捨てられてしまうだろう。


女は馬鹿だ…。


利用されてると分かりながら、これだけ尽くしたのだから捨てられてたまるものかとすがりつき、我が身を売り物に変え男に渡す金を作る。


私はその典型…。


世の中の貢ぎ女にありがちな、DVによる身体的な痛みが無いだけ、まだ少しだけ救われている。


だと言うのに…これ以上は出来ない…お金はもう出せないと、どうしてもその一言が言えない。


私は龍也を愛し過ぎているのかも知れない。


その結果が今の龍也の堕落した生活に繋がっているとしたなら、龍也を変えてしまったのも私だ…。


分かっているのに、私は誰にも相談できず、ただ龍也が壊れていくのを見ているだけの木偶の棒…。


いっそ死んでしまいたい…人通りの途絶えた夜の新宿の外れ、私は口の中だけで小さく呟いた。


古びたマンションのエントランス…建物に入る前、自分の部屋の窓を見上げた。


部屋の明かりは消えていた。


近頃の龍也は深夜の一人歩きを嫌う。


特にこの新宿では。


所轄の警察による職務質問を警戒しているのだろう。


この時間に家にいないと言うことは、おそらく今日も帰っては来ない…。


胸を撫で下ろす思いで、私はエレベーターのボタンを押した。




草も眠る丑三つ時…深夜2時と言ってもこの新宿ではアフターファイブと変わらず、インターホンの電子音が鳴ったとしても何の不思議もない。


宣言通り泉ママが来たのだろう…。


そう思い、私は確認することもなく玄関の鍵を開けた。


カチャリとドアの内鍵を外す音…。


途端にドアが開き、鬼の形相と化した太月姐さんと向き合った。


こんな顔をした人を、私は遠い昔に見たことがある…。


初めて母親の鏡台の前で口紅を塗った日、私を殴り続けた父親…その父親が同じ様な顔で私を見下ろした。


戦慄を覚えた。


いきなり胸元を押され、私は玄関の渡り廊下で尻もちをついた。


私は半身を起こし太月姐さんと向き合った。


パチンッと言う大きな音と目の前の光り…もう一度大きな音…。


目に溢れそうな涙を溜め、太月姐さんが平手で私の頬を叩く。


いくら身なりは女でも、そこに宿る筋肉は男のもの…。


ましてや太月姐さんは180センチはあろうかと言う背丈に加え、いつか龍也が言ったプロレスラーを連想させる様な巨漢だ。


平手といえども、殴られたその痛みは説明はいらない。


たかが接客をしくじっただけで…


私を無言で殴り続ける太月姐さんに、次第に反抗的な気持ちが芽生え始めていた…。




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