第10話諌め

諌め



「夕方には戻ってくるからよ」


昼過ぎ、目覚めると龍也が身支度を整えていた。


「あれっ、鞄は?」


昨夜、部屋に入るなりベットのサイドテーブルに置いた、重そうなあの黒い鞄が見当たらない。


「そんな事はどうでも良いんだよ。探したり中を見たりするなよ」


龍也はそう言って部屋を出て行った。


探すなと言われても…この狭い部屋の中…直ぐに見つけてしまう。


押し入れ代わりのクローゼット…その片隅に黒い鞄は置かれていた。


「見るな……」と言われれば、余計に見てみたいのも人情だ。


鞄の正面右下に「LV」の文字が刻まれた黒いボストンバッグ。


ブランド品に無頓着な私でさえ、このカバンが高価な事くらいは知っている。


取っ手を握って持ち上げた。


ずしりと重い…その重さの中に、得体の知れない何かが住まうようで、私は怖い…とさえ感じていた。


鞄の上にあるファスナーを右から左にスライドすれば……中にある物が何であるのかも簡単に確認できるのだろう。


だからこそ龍也は「中を見るな」と釘を刺して出掛けたに違いない。


ルイヴィトンのエピと呼ばれるシリーズは、どちらかと言えばメンズに近い。


それだけに皮も硬く、鞄の上から触れただけでは中身を連想することが出来ない。


『好奇心…』


見るなと言われた龍也の鞄のファスナーを開けた理由が、もし何であるのかを聞かれたとしたら、一番強い思いはやはり「好奇心」以外の何物でもなかった。


泉ママに龍也の悪癖を聞かされ、心配だったのも確かな事だけれど、私はもっと龍也の事が知りたかった。


カバンの中に鎮座していた物…真空パックにされている黒い塊。


直射日光を嫌ったのか、それとも人の目を避けたのかは分からないが、そこには黒いビニールのパッケージが入っていた。


少し強めに押してみた。


キチキチに押し固められてはいるが、ザラメの様な感触が指に伝わった。


違法薬物…覚醒剤…テレビの特集や、ニュースで見た事のある映像と直ぐに重なった。


手に持った。


スーパーで買う上白糖と同じくらいの重さ…おそらくは1kg位は有るだろう。


そのビニールパックが5つ…。


ガムテープでぐるぐる巻にされ、所々から黄色い油紙が覗く三角形の物体…。


持ち上げるとずしりと重い…そして硬い。


いくら無知な私でも、それが拳銃である事くらいは直ぐに理解出来た。


肌寒さなど微塵も感じることの無い部屋の中で、私は体の内側から湧き上がる震えを抑えることが出来なかった。


震える手で取り出したその品々を元に戻し、私は龍也の鞄を元通りの場所へ置いた。


ゆっくりと閉めたクローゼットの扉が完全に閉まるまで、その鞄から発せられる得体の知れないオーラが私を怯えさせた。





「お前、鞄の中を見ただろ?」


willに来店した龍也は、私が席に着くなりそう言った。


「見てないよ」


私は嘘をついた。


「ふんっ」と龍也は鼻で笑った。


私は居心地の悪さで、意味もなくブラウスの襟やスカートの裾を整えた。


「で?」


龍也が言った。


「何が?」


私は答えた。


「ご感想をお聞きしてるんだよ」


「なんの?」


「人の鞄を覗き見した感想だよ」


龍也はそう言いながらも、不機嫌な訳では無さそうだ。


そして私は、どう返事をするべきか…何が正解なのかもわからず、龍也の顔を凝視したまま言葉を失っていた。


「言えよ」


龍也が答えを急がせた。


「だから見てないって」


一度嘘をついた以上、その嘘はつき通さなければいけない。


途端に龍也が笑いだした。


「お前、あの頃と変わんねぇな」


「なにがよ」


「嘘つくと鼻の穴が広がるんだよ」


「広がってないもん」


私は拗ねてみせる。


「鏡で見ろよ」


龍也に言われ、私は小さなポーチの中からコンパクトを取り出し確認した。


「500円玉が入るくらい開いてるだろ」


龍也はそう言って、もう一度吹き出すように笑った。


このままシラを切り続けても意味の無いことを私は知った。


「あんなモノ…私の家に持ち込んでどうするつもりなの?」


堪らずに私は言った。


「やっぱり見たんじゃねぇか」


「見るなって言うからよ」


私は、頬を膨らませながら言葉を返す。


「お前は人にダメだって言われたことをやりたくなるタイプなのか?」


相変わらず龍也は、私をからかっているようにしか思えない。


「シャブでしょ?それに拳銃も……」


私は核心に入る。


「おいおい、気を付けて話せよ…壁に耳ありだぜ」


いつ龍也か怒り出しても不思議じゃない緊迫感の中で、龍也だけがおどけた口調を崩さない。


泉ママがしきりにこちらを気にしてるのか、来客の肩越しに何度も目が合った。


「ああいうの嫌いな人じゃなかったっけ」


ウォッカリッキーを龍也に手渡しながら、私は無理に作った笑顔で龍也に語りかける。


「時代だよ」


吐き出すような龍也の答え。


「時代が変わると人間を狂わせる薬も許せるようになるの?」


「何も押し売りをやってる訳じゃなし、欲しいと言う奴に売ってやることくらい悪くねぇさ」


この数ヶ月、昔の龍也の優しさや思い遣りばかりを身近に感じていただけに、たった今吐き出された龍也の投げやりな言葉に、私は大きな絶望を感じていた。


「自分でその薬を使うことも?」


絶望が……私にその一言を言わせた。


龍也の視線が、一際鋭く私の顔を捉えた。


「なんだって?」


龍也の口調が変わる……声のトーンさえも…。


「やってるよね…覚醒剤…」


「美和、お前ェ何を根拠にそんなテキトーぬかしてんだ?」


「適当じゃないよ」


ミラーボールが乱反射させる光と、うるさすぎるBGM、酔客の下卑た笑い声が飽和するwillの店内で、絡み合う龍也と私の視線に火花が散った。


「ちゃんと見抜いてる人が居るの…その人が教えてくれたの」


息も吸えないほどの緊張の中で、私はようやくその一言を吐き出した。


「どこのどいつが人のヤクマチ悪口切ってやがんだよ」


「事実じゃなきゃヤクマチかも知れないけど、それが事実なら忠告って言うんじゃないの?」


「じゃあアレかい?事実かどうかも分からねぇ事を、いちいち人の女にご忠告なさるのは横恋慕ってやつかい?」


『人の女……』


その一言に私の胸は高鳴った。


「それが男ならそうかもね」


窒息しそうな息苦しさの中…頬を赤らめながら私は言葉を返し続けた。


「あ〜っ?お前に女友達が居るのかい?」


「友達なんて言ってないじゃない」


「だったらどこのどなた様がそんないい加減な事を抜かしてるんだよ」


龍也の声が尖る…そして眉間の皺…。


泉ママの名前を出すかどうか…私に躊躇させるには充分だ。


手に持ったハンカチを握りしめ、私は龍也から視線をそらす。


その視線の先で泉ママと目が合った。


泉ママが静かに頷いた。


私の決心が固まった。


「泉ママよ」


『ギョッとする』と言う形容詞を体で表す時、おそらく人はこんな顔をするのだろう……。


龍也が驚いた顔で私を見た。


泉ママがゆっくりと立ち上がり、こちらへ向かってくる。


私は吐き気を伴う眩暈で、意識さえ遠のきそうだ。


「あら龍ちゃんいらっしゃい」


いつもと変わらない、カナリヤが泣くような声で泉ママが龍也の隣に座る。


「ご苦労様です」


龍也が頭を下げる。


「やめてよヤクザみたいな挨拶なんか」


ケラケラと笑う泉ママ…。


その笑いにはたった今まで龍也の眉間に深く刻まれた皺さえ、一瞬で消し去るほどの余裕と貫禄があった。


「姐さんですから」


かしこまる龍也。


「ちょっとやめてよ、私と親分はとっくに切れてるんですから」


いつもと変わらない泉ママ……。


『機会があったら私から話すわ』


泉ママの部屋を訪れた時、最後に言われた言葉を思い出した。


今がその機会なのだろうか…。


緊張と吐き気は更に増幅し、私はその席に座っていることがやっとだ。


「何よ、オカマを化け物呼ばわりしたわりには、近頃美和にご執心じゃない?」


泉ママが龍也を揶揄う。


「やめてくださいよ、こいつは弟ですから…知ってるじゃないですか」


笑いながら龍也がママの言葉を否定した。


たった今『人の女』と言われた感激が急速に冷めて行った。


「私も一杯いただこうかしら」


泉ママが言った。


「どうぞ、お好きなものを」


龍也が答えた。


「同じものでいいわ」


泉ママが私を見てそう言った。


私はアイスペルを引き寄せ、タンブラーに氷を一つ二つと落としていく。


スミノフを注ぎ入れ炭酸水で割り、カットライムを搾った時、泉ママが切り出した。


「龍ちゃん、最近ちょっと疲れた顔してるんじゃない?」


泉ママの言葉に、龍也の落ち着きが無くなった……そしてその緊張が私にも伝わる。


「この所なにかと忙しいもので…」


龍也の言い訳が喧騒に溢れた店の中を漂う。


「疲れた顔のヤクザに、いい噂は立たないものよ」


華やかに微笑んだ泉ママの目の奥で、決して笑ってはいない力強さが居座っている。


「姐さんやめてくださいよ、美和が余計な心配をするじゃないですか」


そう言った龍也は、泉ママと目を合わすのを嫌ってるように感じた。


覚醒剤の常習者は、他人と目を合わさない…。


大きく開いた瞳孔を覗かれないためだ。


つい先ほど、居直らんばかりに私に覚醒剤の使用を否定した龍也が、嘘のように萎んで見えた。


「親分はね、滅多に枝の若い衆(直参では無い若い衆)を連れて歩かないのよ」


「はい」


「それだけ龍ちゃんに期待してるんだから、親分に心配かけちゃダメよ」


泉ママはそう言って龍也の背中を平手で叩いた。


「はあ…」と言う力のこまらない龍也の返事が、私を一層不安にさせる。


「ほら、飲みましょうよ」


泉ママがウォッカリッキーの入ったグラスを龍也のクラスにぶつけた。


「いただきます」


龍也が言った。


「いただくのはこっちでしょ」


泉ママが笑った。


「ちょっとあんた達どこまで行ったのよ…やることやったの?」


「いえ、自分たちはそんな…」


軽快な泉ママのおしゃべりと高笑い…。


覚醒剤という言葉を一言も使わず、泉ママは龍也を諌めた。


力ない龍也の受け答え…うっかりすると見逃しそうな指先の震え…進まないお酒といつもの軽口…。


凍りつく龍也の胸の内が、私には手に取る様に分かった。



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