第9話 龍也
龍也
「誰かに聞かれれば、私の人生はきっと恵まれているんだと思うわ」
泉ママは静かに語り出した。
「北海道の片田舎から家出してこの街に流れ着いて、Baby Catsのヒロシママに拾われて、今じゃwillのママとしてそこそこ名前も知られたわ…でもね、ここまで来るには人に言えないことも数えきれないだけ有るの…」
私は黙って泉ママの話を聞いた。
「
私は首を横に振った。
「ナルコティックス・アノニマス」
「ナルコティックス・アノニマス?」
「そう、薬物離脱を目指す仲間同士の非営利組織よ…私は今もそこに通いながら、今日一日だけ薬物を使わないと誓う生活を毎日続けているの」
「今日一日だけ…」
薬物どころか、シンナーも吸ったことのない私に、それがどれほど過酷な事なのかは想像もできなかった。
「本当はお酒を飲む事もダメ…」
「お酒も?」
「飲むとね…虫が騒ぐの…私の脳に刻まれた覚醒剤が欲しいと言う渇望が…ここは新宿よ、欲しいと思えばたった今だって違法薬物が手に入る。その環境の中で薬物を断ち切るには、先ずは自分が薬物依存症と言う病気なんだと認めることが始まりなのよ」
教え諭すように、泉ママはゆっくりと、そして丁寧に私に話を聞かせた。
「でも龍也はヤクザだし、法律を守らなくたってそれほど騒ぐことでは無いのでは…」
ついに私は思っていたことを言葉にした。
「ヤクザだからよ…暴対法が厳しくて今のヤクザは収入源もない…自然、違法薬物の売買に走るヤクザは多い。組織でもそれを認めてるところも少なくないわ…でも、自分でやるのは別よ…」
泉ママは断固とした口調で言った。
「どうしてですか?」
私は聞いた。
「どうして?ただでさえ警察にしょっ引かれる可能性が多いのよ…その時、体の中から違法薬物の反応が出たらそれでおしまいよ。どんな良い弁護士をつけようと、どんなに証拠隠滅をしようと、自分の体から出た反応は消しようがない…嫌でも刑務所に入るしかなくなるの」
泉ママはそう言って少しだけ遠い目をした。
「刑務所…」
私は呟くように言った。
「そう…私も親分が刑務所に行くのを何度か見送った…長いのも短いのも…」
「薬物の事件ですか?」
私は思わず聞いた。
「まさか…一度でも薬で捕まれば、ヤクザに出世の道なんて無くなるわ」
「そうなんですか…」
「そうよ…ポン中は世間の笑い者なの。組のために人を殺しても、薬の勢いでやっただけだろうって後ろ指をさされる。どんなに自分が筋を通して上に物を言っても、ポン中の言ってることなんか誰も信用してくれない…そして多くのヤクザがそうされても仕方がないくらい人間として腐っていくのよ」
「腐る…龍也が…」
泉ママの話を聞きながら、私の不安はいつしか大きな膨らみとなっていた。
「今の美和には実感なんて一つも湧かないでしょうけど、半年もこの新宿で夜の仕事をしていれば、今私が何を言っているのか、少しずつ分かるようになるわ」
「でも、だからって龍也が…」
私は龍也が覚醒剤の常習によって、人間的に壊れているなどとは微塵も感じることはなかった。
「そうね…まだ、何人も気が付いて無いかもしれないわね…でも、親分は気がついてると思うわ…何も言わないだろうけど、毎日一緒にいて気が付かないはずがないもの…親分だって若い頃は随分とヒロポンで遊んだものよ」
「ヒロポン…」
「そう、白い粉なんて言うけど、昔はアンプルに入った液体だった…それを何本も射ってね、何日も寝ないで博打をやって、げっそりやつれて帰ってくる。当然私は面白くないわよ…だったら私も悪戯してやるって軽い気持ちでね…それから私は完全な薬物依存症…親分は私がヒロポンを使い始めたことを知って、気が狂ったように私を殴った…泣きながら…チキショウ、チキショウ…って大声で叫んで、私を殴り続けた
そして親分はその日から薬物を一切やめたの…」
「一緒にやめたんですね」
私は当然泉ママも一緒にやめたのだろうと推測した。
泉ママは首を横に振りながら「そんな簡単な問題ではなかったわ」
と寂しそうに返事をした。
「私はどんどん深みにはまっていった…親分がそばにいれば何てこともなかった…」
「親分はそばにいてくれなかったんですか?」
「居たくても居れなかった…ヤクザ同士の抗争事件で相手の事務所に拳銃を打ち込んで5年の懲役…」
「5年も…」
「5年なんてあっという間よ…それにあの頃だから5年で済んだ…今なら10年は帰って来れないわ…もしあのまま親分が10年も居なかったら…私も、willも、この新宿には存在しなかったはずよ」
私は唖然とした。
いつだって凛としている泉ママに、そんな過去が有るなんて…本人の口から聞いているのに、とても信じることが出来なかった。
「覚醒剤はね、脳と心を破壊して内側から人間を腐らせていくのよ」
「……龍也は本当に覚醒剤をやってるんですか?」
私は震える声で聞いた。
泉ママは、力のこもった目で私を見つめ「やってるわ」と口元だけで言った。
「私…どうすれば…龍也に覚醒剤をやってるのかなんて問いただせない…」
そう言って私は手に持っていたハンカチを握りしめた。
「薬物はね、本人の意思とは裏腹にどんどんエスカレートしていくの…龍也くんはね、美和に好意を持っているわ…だからこそ、美和は龍也くんをちゃんと理解する必要があるの…」
こんな話をしている時なのに…泉ママの言った一言は私の胸をキュンとさせた。
「龍也が私に…」
そんな事はあり得ないと言う意味を込めて、私は俯いたまま首を横に振った。
「男と女はね、何も体の関係だけで繋がっている訳じゃないわ…特にオカマのカップルなら尚更よ。ヤクザになった事は決して誇れる事ではないけれど、なった以上は上を目指すのは当たり前のこと…そうでしょ?」
私は泉ママの言葉に「はい」と言葉少なに返事をした。
「だからこそ、薬物は龍也くんの為にならないの」
「はい」
「親分もね、龍也くんを見込んでるからこそ自分のそばに置いてると思うわ…分かった、時期を見て私が話すわ。その前にいつもの龍也くんと様子が違ったら直ぐに私に教えるのよ」
「分かりました」と私は返事をし、泉ママの部屋を後にした。
その日、龍也は店に来なかった。
この数ヶ月…連絡も無く龍也がwillに来店しないのは初めてのことだった。
泉ママと話をした当日だっただけに、私の不安は最大限に膨らんでいた。
泉ママと親分が長い間暮らしたと言うマッチ箱の様な小さなワンルームマンションの部屋に帰り、私は化粧を落とし熱いシャワーを浴びた。
その間も…私の頭の中は龍也への思いでいっぱいだ。
龍也に電話をかけてみようか…なんと言って電話をしよう…。
『なんで今日来なかったのよぉ…』
明るく戯けてみようか…。
それとも…。
『何かあったの…』
心の通り、心配を声に乗せて電話をしてみようか…。
長い時間、真っ暗な携帯の画面を見つめながら、私は思案に暮れていた。
突然携帯が光り手の中で震え出した。
私はあまりの驚きに、手の中の携帯を床へ落としてしまった。
フローリングの床へ落下したスマートフォンのガラスが割れ、画面が見えない…。
電話の呼び出し音はすぐに消えた。
時計を見た。
午前3時…こんな時間に電話をかけてくるのは…。
心当たりが無かった…でも、もし龍也だったら…。
龍也に電話してみよう…ちょうど良い口実が出来たじゃないか…。
粉々に砕けたスマートフォンの画面は用を成さない。
ホームボタンを長押しし、私は電話に語りかけた。
「龍也に電話して」
『相沢龍也さんに発信してます』と言うアナウンスが流れ、電話はすぐに繋がった。
「おう、今電話したんだよ」
「もしもし」と言うのももどかしく、龍也がいきなり話し出した。
「ごめん、今電話落としちゃって壊れちゃった」
私は言い訳をする。
「繋がってるじゃんか」
不機嫌な龍也…。
「Siriでかけてる」
「まあ、どうでも良いや。お前の部屋、何号室だよ」
「えっ?」
「下にいるから上がって行くよ」
「302だけど、ちょっと片付けるから5分だけ待って」
脱ぎ散らかした服だけでも片付けたい。
「めんどくせぇよ、鍵だけ開けとけよ」
命令口調の龍也。
私は逆らう事なんかできない。
言われた通り、私はドアの鍵とチェーンロックを外した。
呼び鈴も押さず、龍也は当たり前のようにドアを開けて、部屋の中へズカズカと入って来た。
「何だよ、綺麗にしてるじゃんかよ」
そう言いながら、龍也は黒い鞄をベットのサイドテーブルに乗せた。
ドスンと言う重々しい音がした。
私はその鞄がひどく気になっていると言うのに、まるで気にならないそぶりで龍也に話しかけた。
「女の子にはね、見せたくないものが沢山あるのよ」
私は頬を膨らませ、わざと拗ねた顔を作って見せた。
「女の子?チンポの生えた女の子か?」
そう言って龍也は下卑た声で笑った。
『龍也くんはあなたに好意を持っているわ…』
泉ママの言った一言が頭に浮かんだ。
「泉ママの嘘つき」
私は口の中で呟いた。
「泉ママが何だって?」
龍也が私の呟いた言葉を聞き咎め、おうむ返しに聞いた。
「何でもないよ」
私は慌てて返事をした。
「しばらく泊まっていくからよ、合鍵があったら貸しておいてくれよ」
私の許可などはじめから取るつもりなどないのか、龍也は我がもの顔で振舞っている
「私はどこで寝れば良いの?」
ワンルームマンションの狭い部屋…セミダブルのベットを置いた部屋に、もう一枚布団を敷くスペースなど有るはずがない。
龍也がゴロリと寝転がったベットの真ん中から少しだけ右側にずれ、私が寝られる分だけのスペースを空けた。
「一緒に寝てもいいの?」
少しだけ恥じらいを混じえて私は聞いた。
「ここしか寝るとこねぇだろ」
龍也が不貞腐れたように、私の顔を見ずに答えた。
その夜…いや、空も白み始めた朝、私は初めて龍也の腕の中で眠った。
泉ママが言うような、薬物依存者特有のおかしな癖や、独特な匂いさえも龍也に感じることは無かった。
『泉ママの勘違い…』
私はそう思いながら、安堵の眠りの中に落ちていった。
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